醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   75号   聖海

2015-01-29 11:02:55 | 随筆・小説

 
  「這(はひ)出(いで)よかひやが下のひきの声」  芭蕉は何を表現したのか

句郎 「菅菰抄(すがこもしょう)」という江戸時代に著された「おくのほそ道」の注釈書があるでしょ。
華女 江戸時代にすでに「おくのほそ道」の注釈書が出ていたの
句郎 安永七年(1778)に出ている。「おくのほそ道」を芭蕉が書いてからおよそ80年後に注釈書が出た。
華女 「おくのほそ道」は江戸時代にすでに有名な本だったのね。
句郎 越後塩沢で縮の仲買をしていた鈴木牧之(すずきぼくし)は天保8年(1837)「北越雪譜」という越後塩沢の民俗を紹介した書物を出版している。この本の中に芭蕉が越後路を旅したと書いているんだ。芭蕉は生前から俳諧を嗜む人の間では名を知られた人だったようだ。
華女 俳諧は江戸時代の町人たちが楽しむ文芸だったのね。
句郎 「菅菰抄」に「這(はひ)出(いで)よかひやが下のひきの声」の注釈がある。
華女 誰がどんなことを書いているの
句郎 蓑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)という人がこの句の下には万葉集の歌があると言っている。
華女 へぇー、何という歌なの。
句郎 「朝がすみかひやが下になく蛙(かはづ)忍びつゝありとつげんとも哉」と岩波文庫の「おくのほそ道」の付録にある「菅菰抄」には載っている。万葉集巻10秋相聞は「朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋ひめやも」となっている。また万葉集巻16は「朝霞鹿火屋かひやが下に鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも」になっている。
華女 この歌は何を詠んでいるの。
句郎 尾花沢には養蚕業があった。「かひや」とは蚕を飼う棚のある部屋のこと。「かはづ」は河鹿蛙(かじかがえる)のことをいう。鈴虫が鳴くようなきれいな声で鳴く蛙のことを云う。和歌が詠んだ「かはづ」は我々が田んぼで聞く蛙ではない。河鹿蛙(かじかがえる)のことである。養蚕室の下で河鹿蛙が鳴く声を聞くと彼がきてくれたのかなと思う。このような歌じゃないかと思う。少しづつ詠まれた内容は違っているがおおよそのところは同じだと思う。
華女 芭蕉は本当に万葉集を読んでいたのしから。疑問だわ。
句郎 そうだよね。いまだに解読されていない歌があるそうだからね。万葉仮名で書かれた歌の解読が進んだのは江戸時代、国学が興ってからだからね。
華女 万葉集の中のいくつか知られていた歌があったかもしれないから、そのうちの一つが蓑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)が述べている歌なのかもしれない。
句郎 平安時代の知識人たる歌人たちは万葉仮名で書かれた歌を読むことができた。しかし時代が進むに従い江戸時代になると万葉仮名で書かれた歌を読める人はいなくなってしまった。こういうことだと思う。
華女 芭蕉は万葉仮名が読めるような知識人だったのかしら。
句郎 芭蕉の出自は農民階層の出身だというのが多数意見のようだ。
華女 芭蕉は下層武士の出身だったのじゃないの。
句郎 どうも違うようだよ。芭蕉は伊賀上野の赤坂という字の出身というのが多数意見だ。赤坂は武家が住む字に近いようだけれども農民が集住する地域だった。芭蕉の上層の農民出身だった。だから字を読む教育は受けていない。万葉仮名はほとんど読めなかったに違いないからね。万葉集は読んでいないと思う。
華女 万葉集の相聞歌を下地にして「這(はひ)出(いで)よかひやが下のひきの声」を読むと伝わってくるものがあるわ。
句郎 何が伝わってきたの。
華女 「ひきの声」って、蟇蛙のことでしよ。醜い大きな蛙よね。醜いから遠慮しているのよ。体が大きい割に気が小さいのよ。芭蕉は励ましているのよ。遠慮しなくてもいいよ。自分の気持ちを言ってもいいんだよとね。