醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   73号   聖海

2015-01-27 11:39:11 | 随筆・小説

 
  「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」。芭蕉がこの句で表現したものは何か

句郎 芭蕉が尿前の関で詠んだ句はまさに俳諧だと思う。
華女 「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」という句のことね。
句郎 この句には作意というものが何もない。
華女 そうね。一幅の絵になっていると思うわ。
句郎 戸が開けられた木賃宿の煎餅蒲団に朝日が射している。枕もとでは馬が小便をする。芭蕉は起き上がり、浴衣をはだけ、ぼりぼり蚤に食われた痕(あと)を掻いている。そんな風景かな。
華女 私は違うわ。夜じゃないかしらね。蚤や虱に苦しめられて眠れずにいるところに馬が小便する音の大きさに苦しめられている。そんな姿かしら。
句郎 蚤や虱など和歌は絶対に詠むことはないよ。優雅なものじゃないもの。
華女 私は綺麗なものが好きだから、蚤や虱など思い出したくもないものだわ。俳句は下層民が楽しんだものじゃないのかしらね。
句郎 そうでしょ。蚤や虱を詠む。庶民の生活に密着しているものを詠む。ありふれた日時生活のひとこまを詠む。それが俳諧だと思う。
華女 「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」。名詞を並べただけの句よね。難しさが何もないわ。
句郎 今から三百年も前の句が何の抵抗もなくすっと現代の我々が読んですっと心に入ってくる。凄い。
華女 そうね。芭蕉の旅が偲ばれる句だと思うわ。
句郎 土芳は三冊子の中で「春雨の柳は全体連歌也。田にし取(とる)烏は全く俳諧也」と先師(芭蕉)は云っていると書いている。和歌の長い歴史の中で雅だと詠われてきたものを詠むのが歌であるとしたら俳諧は和歌が決して詠むことのなかったものを詠むのが俳諧だった。それは下層の庶民生活の日常を詠む。これが俳諧であったと思う。
華女 確かにそう思うわ。宮中の歌会始なんていうのは今でも続いている。俳句は庶民のものなのよね。
句郎 封建的な身分制社会の中で芭蕉は農民や町人の生活を詠む俳諧を文学にまで高めたというのは凄いことだね。
華女 うーん。私は雅なものが好きだから、短歌の方があっているかもしれないわ。
句郎 「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚」という芭蕉の句があるでしょ。僕はリアルな句だと思う。この句について三冊子の中で土芳は「心遣はずと句になるもの、自賛にたらずと也」と先師は云っていると書いている。句は作るものではなく、できるものだと言っている。句は自然と心から湧き出してくるものだから、自慢するに値しないという。
華女 「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚」。塩鯛の鋸のような歯が見えてくるわ。これこそリアルな句だと私も思うわ。この句も名詞の多い句ね。「心遣はずと句」になったのね。四苦八苦して私は歌を詠んでいるわ。それじゃダメなのね。どうしたらいいのかしらね。
句郎 三冊子の中の芭蕉の言葉に「句作に『なる』と『する』とあり。内をつねに勤めて物に応ずれば、その心の『いろ』句となる。内をつねに勤めざるものは、ならざる故に私意にかけてする也」。常にものをよく見ているなら、ある時はっと気づく発見がある。リンゴが木から落ちるのを普段見ていても何も感じない。ある時、突然、なぜリンゴは木から落ちるのかなと思う。ここに発見があった。何でもないこと普段のことに驚く、発見することがある。このことを芭蕉は心の「いろ」となると言っている。心の「いろ」に気付いた時、文学が誕生した瞬間ではないかと思う。
華女 普段、なにげなく物を見ていては発見は無いのね。普段見ている物に発見があったとき、句が生まれるのね。