「東京両国川開之図」落合芳幾 江戸東京博物館所蔵
豪華な屋形舟と艶やかな美人の姿に圧倒される。画中の「東京(とうけい)」という文字から、明治時代の錦絵とわかる。
また一番大きな屋形舟の提灯に書かれた「金瓶楼(きんぺいろう)」は、当時吉原で隆盛を誇った店の名前であり、下の方の囲みの中に書かれた名前は、金瓶楼に実在した遊女達のものである。現実を描いたものとは思えないが、大変華やかな錦絵となっている。
両国橋
「東京名所 両国河ひらきの図」 蕾斎 江戸東京博物館所蔵
明治31年(1898)に制作された石版画ですが、屋形舟に乗る女性の姿や、「水菓子」と赤い提灯を高く掲げた物売りの舟など、風俗は
江戸時代とほとんど変わらない。しかし物売りの舟の上に、ラベルを貼ったガラス瓶がたくさん置かれているところが新しい。
右上の囲みの中に描かれているのは、同じ隅田川に架かる吾妻橋。この吾妻橋は、隅田川で最初に架けられた鉄骨の橋で、
当時おおいに話題となったものです。
あじさい
柳橋
「江戸名所 両国花火の図」歌川広重(初代)
両国橋付近で打ち上げられた花火を描く。
享保18年(1733)、前年の大飢饉で犠牲になった人々の慰霊のため、隅田川で5月28日の川開きの日に合わせて花火を催すように
なった。これが隅田川花火の始まりであるといわれている。
「東京真景図会 両ごくばしの花火」 歌川広重(3代)
初代広重が描いた「名所江戸百景 両国花火」の構図を、さらに接近して描いたような錦絵。隅田川上流側から下流に
向けて空間が広がる。遠くに新大橋が見える。橋の上には、人力車が走り、人間しかいなかった江戸時代の見物風景とは、
大きく異なる部分である。
たぶん、「七日目の蝉」。元気がなかとです。
ホタルナ
ヒミコ
竜馬
両国橋付近で打ち上げられた花火を描く。
享保18年(1733)、前年の大飢饉で犠牲になった人々の慰霊のため、隅田川で5月28日の川開きの日に合わせて花火を催すように
なった。これが隅田川花火の始まりであるといわれている。
「東京真景図会 両ごくばしの花火」 歌川広重(3代)
初代広重が描いた「名所江戸百景 両国花火」の構図を、さらに接近して描いたような錦絵。隅田川上流側から下流に
向けて空間が広がる。遠くに新大橋が見える。橋の上には、人力車が走り、人間しかいなかった江戸時代の見物風景とは、
大きく異なる部分である。
たぶん、「七日目の蝉」。元気がなかとです。
ホタルナ
ヒミコ
竜馬
橋本貞秀「東都両国ばし夏景色」
両国橋を描いた数ある浮世絵の中でも、盛夏のにぎわいを最も迫力ある構図で伝えた傑作。両国橋を中心に、隅田川の上流
から下流までを一望する。赤い短冊には地名や名所の名などがびっしりと書き込まれている。貞秀は、歌川派の総帥、歌川
国貞の弟子で幕末から明治初期に活躍した。別名、五雲亭貞秀。鳥瞰図のように高所から眺め下ろしたような絵を得意とす
るため「空飛ぶ浮世絵師」と呼ばれている。
葛飾北斎 「板浮絵両国橋夕涼花火見物之図」
両国橋を描いた数ある浮世絵の中でも、盛夏のにぎわいを最も迫力ある構図で伝えた傑作。両国橋を中心に、隅田川の上流
から下流までを一望する。赤い短冊には地名や名所の名などがびっしりと書き込まれている。貞秀は、歌川派の総帥、歌川
国貞の弟子で幕末から明治初期に活躍した。別名、五雲亭貞秀。鳥瞰図のように高所から眺め下ろしたような絵を得意とす
るため「空飛ぶ浮世絵師」と呼ばれている。
葛飾北斎 「板浮絵両国橋夕涼花火見物之図」
「東都名所 両国の涼」 歌川国芳 江戸東京博物館所蔵
中央に、花火を打ち上げる花火舟が描かれており、画面に向かって右側に火の粉が落ちてくる構図が面白い。
手前では、屋形舟の客が、物売りの舟から何か食べ物を買っている。
屋形舟の中は、まさに宴たけなわと言ったところだろうか。
現代人より、この頃の庶民の方が幸せだったと思う。
相田みつをじゃなかった、タケホープ
花の雲
鐘は上野か
浅草歟(か)
日・月・火曜日と3連続完全休養しました。
今朝も凍結した雪が怖かったのですが、ダメなら浅草から電車に乗ればいいやと思って走りました。
予想に反してこの場所のような日陰と土の上は雪が残っていましたが、コースのほとんどは融けていました。
古池や蛙飛びこむ水の音(ふるいけやかわづとびこむみずのおと)
新歌舞伎座
昨夜、銀座で飲み過ぎてデジカメを失くしました。電車の忘れ物センターに電話したら年末年始の休みで4日まで業務をやっていないと言う。
もしかしたら店に忘れていないかと思ってお店に行きましたが有りませんでした。
郭公(ほととぎす)
声横たふや
水の上
カッコウ(郭公)カッコウ目カッコウ科
ホトトギス(杜鵑、時鳥、子規、不如帰)カッコウ目カッコウ科
新大橋から万年橋の間にある大川端芭蕉句選を紹介していきます。
みな出(いで)て
橋をいただく
霜路哉(しもじかな)
芭蕉庵史跡展望公園
松尾芭蕉は、延宝8年(1680)に日本橋から深川の草庵(芭蕉庵)に移り住み、この地から「おくのほそ道」の
旅に出かけ、多くの紀行文や名句を残した俳人です。
展望公園の入口 時間前で閉まっていました。
みな出(いで)て
橋をいただく
霜路哉(しもじかな)
芭蕉庵史跡展望公園
松尾芭蕉は、延宝8年(1680)に日本橋から深川の草庵(芭蕉庵)に移り住み、この地から「おくのほそ道」の
旅に出かけ、多くの紀行文や名句を残した俳人です。
展望公園の入口 時間前で閉まっていました。