注意:似たような写真が続きます。
もう、かなり飽きたでしょう。
先日、テレビで放送していたことです。
時代劇でこういう木製の橋はロケで使われますが、背景等はもちろんCG処理をするそうです。
江戸時代には橋は架けられておらず、明治12年に蓬莱橋は架けられました。
山桜でしょうか。
いよいよ対岸です。
渡り終えました
注意:似たような写真が続きます。
もう、かなり飽きたでしょう。
先日、テレビで放送していたことです。
時代劇でこういう木製の橋はロケで使われますが、背景等はもちろんCG処理をするそうです。
江戸時代には橋は架けられておらず、明治12年に蓬莱橋は架けられました。
山桜でしょうか。
いよいよ対岸です。
渡り終えました
唄に唄われた様に大井川が屈指の難所だった事は地理で学びましたが
惜しい事に私は一度も見ていないのです。
お写真を拝見しておりまして先ず
川越人足の肩や台に乗せられて渡る広重の浮世絵が浮かびました。
絵を観ている分には長閑な景色として映りますが
増水すれば、ひたすら水が引けるのを待つしか無かった対岸の住民にとって
明治になって漸くこの蓬莱橋が架けられた事は
何よりの喜びだった事でしょう。
伸びやかな大井川のお写真の数々堪能致しました。
特に最後のお写真に魅せられました。
コメントありがとうございます。
どうもタケホープは横着者なので、写真だけで済ませてしまおうとしてしまいます。
蓬莱橋の由来
1869(明治2)年7月、最後の将軍慶喜を護衛してきた幕臣たちが大井川右岸にある牧之原を開拓してお茶を作り始めました。
当初は大変厳しい環境の中で、筆舌につくせない苦労の連続でしたが、そのかいがあって、順調に茶の栽培が営まれるようになりました。
生活が安定するに従い対岸の島田宿の方へ生活品や食料品を買いに出かけるようになり、また島田宿方面からも山林・原野を開墾する者が往来するようになりましたが、当時満々と流れる大井川を小舟で渡ることは、大変危険なことでした。
そこで、島田宿の開墾人総代達は時の県令(現在の知事)に陳情し、許可されて1879(明治12)年に蓬莱橋が完成しました。
本日は三弦の「大井川」の唄とタイムスクープの映像を同時に浮かべながら、初めて「大井川」の写真を目にできてうれしかったです。実に大きな川ですね・・江戸幕府の魂胆で橋を架けなかった川の中でも有名な川ですね・・写真画像ありがとうございました。
江戸幕府の魂胆はいいですね
静岡県は東西に長く(島根県も長いですよね)、江戸と京を結んだ東海道の53宿のうち、22宿が静岡県になります。
なかでも難所とされたのが、島田と金谷の2宿の間の大井川。
川会所(かわかいしょ)は川越えの切符である「川札」の販売所でした。
旅人は川会所で買った川札を川越え人足に渡し、肩や連台に乗せてもらって対岸に渡ったそうです。
長雨で1か月近く通行止めが続くこともあったそうです。
ですから命がけということは、無かったと思います。それより通行止めで宿泊代とか、かかりそうですね
なるほど・・旅人にお金を使わすシステムになっているのですね・・
徳川幕府に謀反を起こす藩があっても大勢でこの川は渡れないので江戸が攻められることはありません。
やはり江戸幕府の魂胆?策略でしょうね・・
大きな川に橋を架けないのは・・
幕府は軍事上の魂胆?策略から、酒匂川・興津川・安倍川・大井川の4河川は、橋を架けないどころか、渡船さえ禁止しました。
特に、大井川は役人が渡渉を管理していて、関所の役割をしていたようです。
小田原市のマンホールは、酒匂川を蓮台で渡るお姫様の図柄でした。
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