鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

竹田恒泰の日本史教科書

2024-10-13 16:14:26 | おおすみの風景
「そこまで言って委員会」(読売テレビ)は日曜の午後の番組として人気があるが、今回はレギュラーコメンテーターの竹田恒泰氏が中学校用の日本史の教科書を執筆し、文科省に申告していることを取り上げていた。

竹田恒泰氏は旧皇族の竹田宮の出身で、父の恒和氏はオリンピック委員としてその名が高かったが、国際オリンピック連盟(IOC)の某委員に賄賂を贈ったとして取り沙汰されたことがあった。

ただし私腹を肥やしたわけではないので、今回の2021東京オリンピックの開催に当たって私腹を肥やした某広告会社の人物とは一線を画せる人であった。

それはそれとして息子の恒泰氏は才気煥発の人で、歴史には並々ならぬ関心と知識を持ち併せており、歴史教科書を書いたことにさほどの驚きはない。
他のコメンテーターたちの質問に答える竹田氏。

ただ旧皇族という立場であるから、一般的に天皇制擁護の論陣を張るのは予想ができる。

中でも古代史以前の日本文化の発展に関して、一般史学的には中国発祥のものが朝鮮半島経由で日本にもたらされた結果とされているが、そこに異議を唱え、中国大陸からの直接的な伝播の方にシフトすべきだとしているようだ。

稲作にしろ鉄器にしろ銅鏡にしろ、朝鮮経由が全くないとは言えないが、むしろ大陸との直接の交流によってもたらされたとする方が、受動した文物の多様性から見て本流の可能性が高い。

(※先日、鹿屋市の吾平振興会館で肝付町(旧高山町)出身という元新聞記者だった古代史研究家のU氏の講演を聞いたが、氏の説では南九州のクマソは中国南部(呉越)あたりからの渡来人で、先進的な文物を携えて来たゆえ、南九州をはじめ九州各地に勢力を拡大して「九州王朝」をつくり、そこから全国に打って出たそうである。竹田氏のはクマソと特定するものではないが、中国勢力の流れが列島の古代を彩ったと考えているのとは当たらずと言えども遠からずか。)

中で某女史が投げかけたのが「竹田日本史は邪馬台国問題を避けているのでは?」という質問だった。
皇族とはつまり大和王権の系譜につながる者だから、山口女史は当然「邪馬台国畿内説」を教科書に書くものと思っていたらしい。

ところが竹田氏の見解は邪馬台国九州説であった。その論拠は示さなかったが、解釈の上で様々な説があり、中学校の生徒対象の教科書としては煩雑過ぎると考えて、あえて邪馬台国の所在地問題については触れなかったのだろう。

賢いと言えば賢いやり方である。

氏が最も提起したかったのは、古墳時代を「大和時代」とすることだったという。

平安・平城(奈良)・飛鳥と時代をさかのぼり、その次は「古墳時代」となるわけだが、古墳時代にはすでに奈良の古称である大和地方に王権があったのだから「王都としての大和」を時代名にすべきだという考えである。

3~6世紀に古墳という埋葬施設が大小多様に作られたのは史実だが、古墳という考古学的な物だけでは歴史を語るには不十分過ぎる。記紀やその他の文献を捨て去っては歴史の神髄は得られない。

当時の王権の都合のいいように書かれたのも史実であり、そこをどう拾捨勘案して再構成するかが歴史家の腕の見せ所だろう。


縄文の森がリニューアルオープン

2024-10-07 19:17:20 | おおすみの風景
旧国分市(霧島市)の上野原遺跡にある展示施設「上野原縄文の森」が10月5日にリニューアルオープンした。

上野原は旧国分市が開発しようとしていた工業団地で、開発前の事前発掘調査によって見つかった縄文時代早期の遺跡が見つかった。私は平成9(1997)年の春にあった説明会に出かけたのを覚えている。

何しろ古い遺跡で、南九州ではどこでも普通に堆積している「鬼界カルデラ」由来の「アカホヤ火山灰」の下に目を見張るような遺物が眠っていた。

平底で角型の薄手の土器群や「縄文の壺」まで出土したことで一躍有名になった。

また住居跡の遺構が多数出土したのも驚きで、日本全国を見渡しても定住の分かる最も古い遺跡である。

鬼界カルデラの噴出は火山学によって約7400年前と確定されており、その火山灰層の下からであるから少なくとも8000年前の遺跡ということになった。

この年代でも十分に古いのだが、最近になってさらにその1500年ほど前ということが分かった。

そのため展示遺物や遺構の年代全体をさかのぼらせる必要があり、約8か月かけて展示替えを行っていたのだが、昨日(10月5日)にリニューアルオープンしたのだ。
長さ15mはあろうかという壁一面に、手前から13000年前の最古の縄文土器「隆帯文土器」から1000年から2000年を単位としてそれぞれの時代を代表する南九州の縄文時代の土器群がずらりと展示されているが、圧巻である。

一部に弥生時代の美しい壺があったりしたが、基本的に館内はすべて縄文時代の遺物展示に限っていて、南九州の縄文時代がいかに先進的で多様性に富んでいたかを中心のテーマとしている。

北の縄文文化が世界遺産(北海道・北東北地域)になったが、上野原遺跡はじめ南九州の縄文文化もそれに引けを取らない。遺物では角型の土器や壺型土器などは国内のみならず、世界中に比肩するものはない。しかも古い。

是非とも世界遺産に挙げて欲しいものだ。

孫を連れて行ったが、満更でもなさそうだ。気分は縄文人!

律儀なヒガンバナ

2024-09-23 19:34:10 | おおすみの風景
今年もヒガンバナが秋の彼岸の時期に咲いた。

夏の猛暑で忘れていた場所ですくっと花茎を伸ばしていた。

この花の特徴は、どんな時でも秋の彼岸シーズンに必ず咲くということだ。律儀という他ない。

鹿児島ではおおむね彼岸の入りから中日までには咲いている。

球根の花は示し合わせたように揃って咲くことが多い。

球根性のサフランモドキがやはり同じような咲き方をする。

我が家でも日当たりの良い場所の物と、日当たりの悪い場所のが生育条件はかなり違うのに、ほぼ同時に薄いピンク色のサフランに似た花を咲かせる。

その理由とは、どうやら大昔、同根の親から受け継いだ遺伝子によるらしい。

要するに「万世一系」的な遺伝子を持ち続けているのだ。

だから生育の場所こそ違え、示し合わせたように一年の同じ時期に同時に花を咲かせる。

人間世界でも、生得的に同じ場所で生業を全うする職人的な人たちがいるように、球根の花の世界でも、同じ土の下で花咲く準備を怠りなく継続している球根たちがいるのだろう。

身につまされるのが、一業を全うできなかった我が身だ。





信じがたい残暑と超長寿

2024-09-17 14:14:07 | おおすみの風景
10号台風が若干の涼をもたらたのも束の間、戻って来た暑さは半端なく、その後は連日の暑さが続いている。

一般的に8月の終わり頃の台風は、九州を過ぎながら大陸の高気圧由来の涼を届けてくれるのだが、10号台風は残念ながら太平洋高気圧によって「押し出し」を食らったようだ。

8月27日は自分の「健康検診」の日だったのだが、ここ数年は予約制になり、これまでと違って検査ごとに待たされることなく、スムースに検査が行われていたのだが、今年は台風が最も接近した8月26日の検診が中止になったため、翌日に振り替えた人たちが多かったらしく、かなり待たされた。

それでも最初の問診までは時間がかかったが、それ以降はとんとん拍子に進み、1時間余りですべてが終わった。かねての半分の時間だ。

ただ最後に受けた胃がん検診のバリウムは約1週間の間、便通に違和感を感じていた。来年からは胃カメラによる透視にしようかと思っている。

何にしても健康が第一である。

それにしても日本の健康検診体制は素晴らしい。誰もが低料金で自分の健康具合が確かめられる制度はよその国にはないと思う。

それに加えて日本人の長寿だ。

報道によると、今年の百歳以上は9万5000人余りで54年連続で前年を上回ったという。

60年前の記録では100人程度だったから驚異的な伸びである。この伸びは平均寿命の伸び率をはるかに上回る。

男女の平均寿命は男女混合で85歳前後だが、上位の超長寿組だけを抽出してみれば寿命は10歳以上多いだろう。

中でも女性の超長寿は突出している。

100歳以上の約10万人のうち女性の比率は85%に迫る。

その最大の要因としてあげられるのが、「役割意識」だろう。女性はかなりの高齢になっても「家事・炊事」にいそしんでいるのだ。

まだ家族(多くは夫)がいれば、何かと世話を焼き、じっとしている暇はない。こまめに何かしら動いている。

このことが身体を柔軟に保つ大きな要因だ。結果として血流が良くなり、身体のコリや痛みが和らげられる。

身体の柔軟性はまた心の柔軟性にも通じている。

男はおおむね体が硬く筋肉が発達している。それはそれで有用な面もあるが、コリには悩まされるし、それに起因する高血圧体質を免れない。

これからも女性の「細く、長く、柔軟な」生き方は続くだろうから、男性の超長寿は女性の足元にも及ばないだろう。

話は飛ぶがあの3世紀に書かれた『魏志倭人伝』でも日本人(倭人)の長寿は有名で「倭人は寿考(長寿)であり、あるいは100年、あるいは8・90年。」と書いてある。

ここに出て来る100年、80年・90年は「二倍年歴」つまり倭人は(中国と違って)一年を二年にして数えていた――という説があるが、中国人が書く本国の史書には本国の単位に換算して書くはずだから、この100年、80・90年という数値はそのまま信じてよい。

ただしこの100年、80・90年はもちろん倭人の平均寿命ではなく、長生きした人とは、感染症にも罹らず、事故やけがもなく無事に過ごした人であり、長生きする人はいつの時代でも長生きしたのである。

私もあなたもその部類に入るかどうかは、運(天命)次第になろうか。

敬老会の起源

2024-09-14 19:45:38 | おおすみの風景
今朝のテレビで9月15日の「敬老の日」が制定されるまでの経緯を放映していたが、それによると1947年9月15日に兵庫県の多可郡野間谷村で「としよりの日」という名の行事が開催されたのが嚆矢だという。

当時の野間谷村の村長が戦後の道義的な混乱を目の当たりにして「年寄りを大事にしない村に未来はない」との発案で始めたという。その後は兵庫県下に広がり、ついには全国にまで波及することになった。

政府はその成果を取り入れて「としよりの日」を定め、その後名称変更で「老人の日」となり、「老人」の語感が悪いと1966年に正式に「敬老の日」が制定された。

ところが実は鹿屋市吾平町ではとっくの昔の明治時代から「敬老会」が定められていた。当初は「お年寄りの日」という名称だったようだが、明治40年頃には始まっており、途中、戦時中と戦後まもなくを除いて連綿と続き、去年は「第114回」であった。

去年は11月5日が敬老会だった。敬老会では祝賀行事の一環として各種の演芸が催される。広い舞台付きの体育館(大ホール)に集うのは70歳以上である。(※「美里」は「うましさと」と読む。吾平町の自然と農業に恵まれた環境を指し、某大学教授(故人)の提案でそう呼ばれるようになった。)

この敬老会を取材する新聞社があれば、「敬老会の始まりはここ吾平町」などと書くのだろうが、60年前に国で「敬老の日」という国民の祝日が法令化された以上、あとの祭りということだろう。

しかしこれをギネスブックに申請したらどうだろうか?

百年以上続く敬老の行事などおそらく世界でも稀に違いない。