鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ノーマザー、ノーライフ(再考)

2022-08-29 15:39:31 | 母性
昨日は読売テレビ(KYT)で放映の24時間テレビを観ていた。合間にいつも視聴する「笑点」があるから序でにというと叱られそうだが、タレントの誰かが走る「100キロランニング」という企画は楽しみではある。

今年は兼近という若いヤンキーっぽいタレントが走ったが、それよりも同時に少年少女の身体障碍者を含む3組がそれぞれの困難を乗り越えて好きなことに邁進する姿が放映されていたが、これには感動した。

51.5キロのトライアスロンに挑戦した小6の少女は、父母ともにトライアスロンの選手だそうだが、父親は本人が2歳の頃に他界しており、結局、直接的には母の影響下でトライアスロンに挑戦するようになったという。

兼近の100キロランと合わせて放映していたが、少女の方が早く、明るいうちに、どこかの河川敷に設けられたゴールに到着した様子が映された。

そこには母が待っていた。気付いた少女は母に飛びつき、しがみついた。幼児がよくする「子ども抱っこ」そのものだった。小6の少女にしては可愛いと言えば言えるが、普通はもうしない抱っこだろう。51.5キロを単独で走り切るという重圧から解放されたその瞬間だった。やはり母の存在感なのだ。

二番目の子は10歳の少女で、首から下がほとんど動かせず、口に咥えたサインペンのような物で紙に絵を描いたり、字を書いたりして意思を伝える他ない子であった。

6歳か7歳くらいまではごく普通の女の子だったのだが、突然脳脊髄に腫瘍が現れ、身体の運動が不可能になったそうで、首の後ろ側の太い脊髄に腫瘍があるので、手術で除去できないらしい。

それでも明るい子である。去年弟が生まれ、今は歩くようになって自分を姉と慕う姿にいたく感激しているのだそうだ。

「神さまがお父さんお母さんのもとへ生まれるのを許してくれた。弟もそうだよ」と言っている。

子どもは単刀直入だ。決められた両親のもとに生まれるのは宿命(命を宿す)である。

その宿命によって授けられた子を親がどう育てるか。これが運命(命を運ぶ)になる。

親は子の鏡だから、たいてい親は子に自分のやっていたことをさせたいと思うはずだ。子どもも親を選んできた以上、おおむねそれに異存はないだろう。

「子は親の背中を見て育つ」ということわざは、親が余りにもああしろこうしろと操縦してはいけない、かえって逆効果になるということの教えだが、姿(親の背中)を見せないようではまずい。子は自分の存在を無視されたようで困惑するほかない。

やはり家庭内のことは母親が、それ以外は主に父親の出番だろう。そこに役割分担があるのだが、当節は家庭に母親がいないことが多い。これが子どもを家庭から遠ざける原因で、「選んで生まれてきた」子どもからすれば当然の話である。

この10歳の少女の家庭は両親が揃っているのだが、やはり寄り添ってもらいたいのは母親だろう。同性ならなおさらだ。

それにしても明るい少女である。少女の夢がかなって欲しいものだ。(※母親の寄り添いをちゃんと得ていることで、もう半分かなっている!)

3番目は両足の無い14歳の少年の話であった。

生まれつき両足がないわけではなく、全く足として機能しない足に生まれついたこの少年のことは、かつてこの番組で取り上げたらしく、当時の少年の様子が放映されていた。

小学校に入る段階で、機能しない両足を切断するという大手術を受け、その後は上半身だけで順調に生育している。車いすバスケットにチャレンジし、上半身の身体能力だけで立派に競技に出たりしている。

健常児の兄がいて、弟と同じ車いすバスケットに取り組んでいるというから頼もしい。上の10歳の少女の見立てでは、同じ親のもとに生まれて来る兄弟はまさに運命共同体なのだろう。

そしてこの兄弟にも優しい母がいる。

これら3例とも、母の寄り添いは十分のようであった。

当たり前だが、子どもは母に宿ってこの世に生を享ける。母なくしていかなる子もこの世に生まれることはない。

「ノーマザー、ノーライフ」の第一義的な意味はそれである。これも以前言ったが、たとえ大富豪イーロンマスクが20兆円出そうと30兆円出そうと、ひとりの赤ん坊も造れないのだ。

「ノーマザー、ノーライフ」の二次的な意味は、「母の寄り添いなくして子は育たない」ということで、ここからは「運命」の範疇だ。生母がいなければ、それに代わる祖母や叔母の存在を必要とするだろう。もちろんそれが父親であってもよい。「寄り添うこと」が可能ならば・・・。

「ノーマザー、ノーライフ」は時代と状況によって濃淡はあるが、人種・民族・国家を超越する「道」、それももっとも宗教に近い道である。

また芸能人の自死

2021-12-22 10:27:25 | 母性
1昨日の12月18日、松田聖子の娘でミュージカル女優の神田沙也加が自死したという。享年35歳という若さだった。

自死した場所は北海道の札幌で、札幌で開催のミュージカル『マイ・フェア・レディ』を明日に控えての出来事で、宿泊先のホテルから身を投げたという。

実は18日にはそのニュースを知らなくて、翌日の19日になって知ったのだが、最初家内から聞いた時、「嘘だろ!」という言葉が出てしまった。

ミュージカルに出演し、しかも主演であるのならそれなりに「元気な」はずである。その後のニュースでは18日の出演を体調不良ということで代役に演じてもらっていたそうだ。

しかし出演の直前に急激に体調がおかしくなったのなら、所属事務所のマネージャーにそう訴えて医療機関に罹るのが普通だろう。

その「体調不良」というのは、実は、精神的なものだったのだろうか。どうもそうらしい。

どのような精神状態だったのかは本人以外に知る由もない。だからここからは自分の忖度でしかないが、このタイトルのカテゴリーとして「母性」を選択した。

というのは母親である。もちろん松田聖子で、父は神田正輝。二人の間に1986年に生まれているのだが、沙也加が11歳の1997年に両親は離婚した。

そして翌年、母の松田聖子は歯科医と結婚してしまう。

神田沙也加が神田姓を捨てなかったことからすれば、沙也加の親権は神田正輝の方にあった。

つまり沙也加にしてみれば、父と離婚してすぐに別の男と結婚したわけで、「私は(父とともに)母から捨てられた」という心理的な空虚感に襲われたに違いない。11歳から12歳というまさに思春期の入り口に当たる時期であったことも大きかったろう。

この辺りの詳しい経緯も推測だが、もし松田聖子が親権を取って沙也加を引き取っていたとすれば、沙也加は神田沙也加ではなく「蒲池(かまち)沙也加」となっていたはずである。(※蒲池姓は松田聖子の本姓で、松田聖子の本名は蒲池法子。蒲池一族は福岡県久留米市の武家としては名族だそうである。)

彼女にとってこの空虚感がどうもずっと尾を引いていたような気がする。

彼女が女優・歌手として15,6歳でデビューし、ある程度名声を博し始めてから、あの松田聖子の娘として母親と一緒に芸能活動をすることが多くなったのだが、いつも松田聖子の笑顔ばかりが目立っており、娘の沙也加は何となく目が笑っていない気がしていた。

性格の違いと言えば違いなのだろう。よく母娘が並ぶと姉妹のようだ言われる親子があるが、聖子と沙也加の母娘の場合は、沙也加の方が姉で聖子の方は妹的に見えて仕方がなかった。

「親ガチャ」という最近の流行語があるが、「自分では選べない親」の世帯環境(収入などもろもろの属性)によって子供の成育に厳然とした差別があるということ。このことを差別された方の子供世代が自虐的にそう言っている。

しかし「親ガチャ」のこの「親」は通常の親で、生まれてから一度も離婚していない親を指していると思う。

ところが神田沙也加の場合、「親ガチャ」的には収入もあり、豪邸もあり、多分、祖父母も揃っており、家庭環境的には最高の部類に属している。「親ガチャ」の言い出しっぺからすれば、「そんなに恵まれているのになぜ?」と開いた口が塞がらないだろう。

そこには松田聖子の「母性の躓き」があったのだ。子供にとって最も母性が必要なのは幼児期だが、次に必要なのが特に女の子にとっては思春期の入り口ではないか。

女性への目覚めの時期は、その女性のモデルとして最も身近な存在である母親が必要なのである。

今度の神田沙也加の「自死事件」はそのことを訴えかけているように思われてならない。

(追記)

ネットで調べると、神田正輝の生年月日は1950年12月21日(71歳)、松田聖子、1962年3月10日(59歳)、神田沙也加、1986年10月1日、と、三人とも寅年である。ちょっと驚かされた。「トラ・トラ・トラ」、全部、来年が年男・年女ではないか。「自死事件」と直接の関係はないが・・・。

ノーマザー、ノーライフ!

2021-11-25 10:20:01 | 母性
「ノーマザー、ノーライフ!」。これを英語のスペルにすると「No mother, no life!」となる。

日本語の訳は次の3つに分けられる。

 (1)母親がいなければ、命は継がれない。

 (2)母親の関与が少ないと、人生は灰色だ。

 (3)おっかさん、大好きだよ。

(1)のは、科学的な訳である。母親(母胎)がなければ、子供は絶対に生まれてこない。 
 
これは誰が何と言おうと、絶対的な真理である。地球上の多種多様な生命体系の最高峰と言われる人類は、有性生殖をする哺乳動物に属しており、子は生まれ落ちた瞬間から母親(母性)によって育まれる。

生きる糧として母乳が与えられ、下の世話をうけて、清潔を保たれながら生育する。この「取り扱い」には「説明書」はないが、世代を超えて口述で引き継がれていく。

いかなる英雄、偉人といえども、この母性が無視されては存在しない。生きていけない。

お釈迦様は母の摩耶夫人の母胎に3年いて、脇の下から生ま落ちるや「天上天下唯我独尊!」と叫んだという。つまり生まれた時はもう「おしめ」も付けず、食物も母乳の必要のない一般食だったというのである。

これは生物学的には全くあり得ない話で、同じく偉大な人物であるかのイエスキリストでさえ、母のマリアから普通に生まれ、普通の乳児として育てられたのだから。(※ただし、イエスが生まれ落ちた時に天上の大きな星による奇瑞があったというが・・・)

(2)のは、私の人生経験からの訳である。

我が家は核家族の4人兄弟であった。両親ともに教師(東京都)で、共働きであった。どうやって家庭を運営していたかというと、住み込みの女中さんを雇って回していたのだった。

父親は中学校の教員であったから各地の中学校を転勤していたが、東京では転居する必要はなくすべて電車による通勤で済んでいた。

他方、母親は小学校教員であり、我が家の近隣の2校(結婚前まで入れると3校)を徒歩で通勤していた。

70年前のその頃、産休という制度があるにはあったが、「産前2週間、産後4週間」併せて6週間(約1月半)という短いものだった。1女3男の兄弟にとって、これは非情な制度だった。生まれてからたった4週間で母親の寄り添いがなくなるのである。

お乳も碌に吸わせてもらえず、言葉も掛けてもらえない乳児期であった。一番上の姉と長兄との間が5年空いていたので、二人目までは何とか凌げたのだろう。(※と言っても、姉にしろ兄にしろ、母との接触が少ないというハンディはあった。)

母親との接触の少ない幼児期を寂しく思いながらも何とか過ごし、末子の弟が無事に小学校に上がった時、長兄は6年生、私は3年生であった。

今から思えば、やんちゃな男三兄弟が、日常、母の見守りのない近隣で遊んだりしていたわけで、よくぞ輪禍に遭わなかったものだ。今更ながらゾッとするというか、いや運が良かったのだというべきか、溜息が出る。往時は東京でも自動車はバスとトラック以外は稀であったのが幸いした。

小学校に入って余計に寂しく思ったのが、母の「行ってらっしゃい。気を付けてね」も「お帰り、今日はどうだった?」もなかったことだ。これは見事に一日たりとゼロであった。

というのも、兄弟が登校する時、母はもう出勤しているし、下校した時、母はまだ帰宅していないからで、夏休みや春休みは自分たちが休みなら、母も休みだったからである。(※夏休みなど長いから母親の寄り添いはあったわけだが、それが平日の母の不在による寂しさを補うことはなかった。)

極めつけは、入学式にも卒業式にも母の姿がなかったことだ。ガッカリするはずだが、その頃にはもう慣れっこになっていた気がする。「他の同級生の親たちは付いて来るのになあ」などと恨めしく思った記憶はない。すでに諦めの境地に達していたのだろうか。

こんな状態は中学まで続いた。高校になって初めて部活動に参加するようになり、母親より早く家を出たり、帰宅も母親より後になる回数が増えた。

しかしそれで過去の「寂しい体験」が埋め合わせられたかというと、そんなことは全くない。もちろん高校からの帰宅時に母親が家にいて「お帰り」と言ってくれることが嬉しくないわけではない。だが、もう、「今さら」という気が先に立ってしまい、喜んで受け入れることができなくなっていた。

あの70年前の当時、まだ紙おむつも洗濯機も冷蔵庫もない時代、核家族で1女3男の4人兄弟を抱えていたら、普通なら専業主婦だけでは足りずにお手伝いさんを雇うのが当たり前のように思うのだが、どうしてそうしなかったのか。

あの頃よく言われていたのが、「教員の給与は男女同一賃金、退職後は恩給(共済年金)も出る」であったが、母は(父も)それを優先させていたのだろうか。子供にすれば全くナンセンスかつ迷惑な話であった。

結局、母が私たち兄弟の前に当たり前の主婦として舞い戻ったのは、一番下の弟がもうじき成人となる直前だった。すべてが遅かった。弟は精神科の常連になっていた。

母親の不在(感)は、子供にとって「自分は望まれていない子なのか」という疑心を生むのだ。

日本の古来の考え方として「中今(なかいま)」と「節折(よおり)」がある。

「中今」とは、「今に中(あた)る」ということで、「いま現在、最優先すべきことに全力を尽くせ」という意味で、我が家に照らせば、「子供の幼児時代は幼児らしく全力で育てなければならない」ということだ。

だから、子供の幼児時代、母親は「父親と同じように家を空けていてはならない」のだ。

また、「節折(よおり)」とは、「成長の節目(ふしめ)、節目には、これまでを省みて、反省すべきは反省して次につなげる」ということである。七五三や入学式・成人式がこれに当たる。

「中今」と「節折」のうち、「節折」は有難いことに「入学式」や「成人式」という社会的な行事として行われているので、親はさほどの義務感は感じないかもしれないが、「中今」は親がやらずして誰がやるのか。

残念ながら過去をさかのぼって省みた時、我が家の親の在り方には、今となってはもう遅いが、猛省を促したいと思うのである。

「何を今さら育ててくれた親に文句を言うのか」という気持ちはあるにはあるのだが、「♯ me too」ではないが、事実として語っておかなければ気が済まない。

(3)は、母への「讃歌」である。

母親に大切に育てられたと思う子が、成人の後に結婚をして家庭を持ち、改めて母親の偉大さ、懐かしさに思いを致すような場合に吐露される心情だ。

中には、嫁よりも母親の方が大事だと思っているような男がいる。

演歌の世界だが、吉幾三などはその典型である。

『かあさんへ』という歌など、まるで母親は恋人のようだ。

旅先の見知らぬ駅で降りた時、「その街中に母に似た人がいた」というようなフレーズは、石川啄木の「町で恋人に似た女性に出会い、君が偲ばれ、心が躍るようだ」という歌そのものである。

極め付けは、犬童球渓が訳出して今なお歌い継がれている『旅愁』の原曲を創作したアメリカ人オードウェイだろう。

原曲の詞は、母親を恋人どころかまるで女神のように想い出されるという内容なのだ。母親もここまで慕われたら「母親冥利に尽きる」というものだ。
(※残念ながら犬童球渓の訳出した(というより創作した)『旅愁』にはその片鱗さえ見えないが、それはそれで当時日本が置かれていた「富国強兵」の時代にマッチすべく改作するほかなかったに違いない。詳しくは当ブログの「人吉と旅愁」を見てもらいたい。)

母親が「神のごとき存在」だったという稀有だが有り得ないことのない時代を反映しているのだ。とにかく、母親を慕う男は多い。

懐かしくも「古き良き時代」だったのだ。









「自立への不安」とは

2021-07-21 14:52:50 | 母性
先日の南日本新聞の『論点』「社会的養護に医療の支援を」(著者:上薗昭二郎氏)は人としての自立をめぐって、私の肺腑に響くものだった。

氏はこう書いている。

〈私は特に自立に関する不安は、子どもを最大の精神的危機状態に陥らせることがあると感じている。いくら言葉で、「私たちはずっとあなたを見守るよ」と伝えても、得体のしれない不安感が、子どもを襲っているようにみえるのである。〉

〈(中略)自立は、子どもの発達に必要な愛着と基本的信頼感の確立抜きに語ることはできない。愛着は、子どもからの一方的な寄りかかりではなく、大人との相互の関係の中にしかない。それは、「あなたに出会えて良かった」と相互に感じ合えることに他ならない。この関係を抜きにして、穏やかに子どもたちと暮らし、彼らを自立へと導いていくことはできないのである。〉

上薗氏は某「子どもの家」を主宰され、親から虐待されたりしてそこに身を寄せる子どもたちを保護・養護して以上の考え方に到達されたのだが、誠に鋭い指摘と言わなければならない。

同時にまた、一般家庭においても肝に命じなくてはならない親子関係の要諦を示しておられる。

思うに、子どもの自立には3つの段階がある。

肉体的自立、精神的自立、そして社会的自立、である。

①肉体的自立・・・これは母胎から生れ落ちれば、いやおうなしに自立を果たす。それまで10か月間、まさに「同体」だったのが、出産によって母と子に分離する。つまり母子といえども「他人同士」になるわけである。

映画「男はつらいよ」で、寅さんが、寅さんを慕い一緒にテキヤ稼業に連れて行ってくれと頼むのぼるに、「馬鹿を言うな。お前と俺とは所詮他人じゃねえか。例えば、俺が芋を喰ったらお前が屁をするか? しないだろ。それ見ろ、だから俺とお前とは他人だ。とっとと故郷へ帰れ!」と捨て台詞を吐く場面があるが、母と乳飲み子も同じだ。母親が好きな芋をどれだけ食べても、子が芋の屁をすることはない。(※ついこの間久しぶりに鑑賞した「男はつらいよ」第一話の最大の見せ場を思い出してしまった・・・。)

②精神的自立・・・乳飲み子で生まれた子は、当初は乳で、一年ほど経つと離乳食で、そして言葉でも何でも母親や外部からの働きかけで修得し、徐々に行動及び精神領域を広げていく。

人が最も成長して行くのが幼少年期で、この期間の長さは他の哺乳動物をはるかにしのぐ。この間は家庭や近隣、学校などで人間特有の成長を果たし、産み育ての環境から次第に離脱して行く。

③社会的自立・・・これが人としての自立の目標である。社会に出て人との交わりの中で、自分らしさを否定せずに他者ともつながりながら、社会生活に自分の居場所を見つけ出す。必ずしも安穏な居場所ではないかもしれないが、他者に寄り添い、時に寄り添われながら人生軌道を修正しつつ暮らしていけるようになる。

以上が自分の考える3段階の自立だが、上薗氏の預かっている子どもたちは、最後の社会的自立の前に「最大の精神的危機状態」に陥ることが多いようである。①の肉体的自立は生れ落ちる以上、誰でも平等に持つのだが、問題は②の精神的自立が果たせていないケースが多いということである。

両親が不仲で喧嘩が絶えなかったり、ちょっとしたことで殴られたり、罵倒されたり、そういった家庭環境で育った子どもは、よく言われるように「承認の欲求が満たされないので、自己肯定感が弱い」上に、本来なら親から見習うべき礼儀作法なども身に付いていない。

特に自己肯定感は精神的自立へのパスポートである。

「僕(私)のような人間を誰が認めてくれるのか。親でさえ認めてくれなかったんだ・・・」――このような自己否定感情が先に立ち、社会に出て自立など思いもよらないのだ。それが「自立への不安」の中身だろう。たとえ高学歴でも、自己肯定感というパスポートが無ければ、結果として社会的自立は果たせない。


【追記】

以上のように書いて来た私自身も「自立への不安」に苛まされた一人である。

その拠って来るところは、一言でいえば「母親不在」で、母親がいなかったわけでも、長らく病気で入院していたというわけでもない。それどころか十分に元気な人であった。

核家族で子供が四人の6人家族だが、両親ともに教員の共働きだった。(※住み込みの家政婦を雇い、家事などをこなしていたので、正確には7人暮らしである。)

母の勤務先は我が家から歩いて行けるくらい近かったのだが、それでも子供が学校に行くときにはすでに出勤しており、我々兄弟は一度たりと「行ってらっしゃい。忘れ物はないね」と言ってもらったことはなく、また下校して我が家に帰っても「お帰り。おやつがあるよ」などと、これも一度もなかった。

極め付けは、入学式にも卒業式にも参列してもらったことがなかったことだ。母の勤務先の学校は同じ区内にある学校なので、入学式も卒業式も兄弟の通学先と同じ日に行われるからである。(※母が学校の事務職員だったら担任を持たないので、当日、或いは休みが取れたかのもしれないが。)

学校参観にも顔は出さず、午後から雨が降って来たなどという場合でも、校門で傘を持って待っていてくれるなんてこともなかった。

運動会や学芸会も同じ区内の学校では同じ日に行われることが多い。たまたま違う日になったこともあったとは思うが、母を運動場や講堂(当時はホールというような施設はなく講堂で学芸会や各種の式典が行われた)で見たことはなかった。

おしなべて「ないない尽くし」の母子関係であった。そこには寄り添ってくれる母の姿はなかった。教員だから夏休みがあっただろうと言われそうだが、それは大人の考え方で、子どもにとっては毎日の継続的な母子関係こそが精神的には重要なのである。

保護されて養護施設に入る子供たちの多くは、親からの暴力(体罰)や育児放棄による生存への脅威といった「ハードな虐待」が原因だと思うが、我が家の場合は「育児や保護に放棄傾向のあるソフトな虐待」と言えるかもしれない。

こうして育つと、ハードな虐待と同じようにやはり「承認への欲求」が満たされず、「自己肯定感」の薄い性格に陥ってしまう。それによって人生本来の目的である社会的な自立も、阻害されてしまう。これが私の「自立への不安」の大きな要因であった。

四人兄弟のうちの末子である弟は、中学2年の時に「不登校」に陥り、心療内科の診察を受けたりしながら、紆余曲折の末、20歳までに定時制高校を卒業したのだが、「社会的な自立」の前提である「精神的自立」さえ果たすことなく、精神病院で不帰の客となってしまった。

不登校を始めた時に、母が我が家の専業主婦になって弟に寄り添えば、まだ中学生だったわけだから、立ち直りの機会はいくらでも作れたはずで、歴史に「if」は許されぬというが、返す返すも残念であった。私を含む他の兄弟の社会的自立にも、必ずや良い影響を与えたに違いない。

今どきは「母親にばかり責任を押し付けるな」との声が強いのだが、やはり母親は我が子を産んだ以上、寄り添うことが本分である。いかにAI化が進んでも、子産みロボットや子育てロボットはできない。何兆円積んでも母親は作れないし、子どもも生まれないのだ。母親の存在の大きさがこれで分かろうというものだ。

子どもの成長は待ったなし。母親よ子どもに寄り添ってくれ。



「子どもに向き合う」ことの大切さ

2021-04-06 13:23:27 | 母性
昨日の南日本新聞の「論点」で、南さつま子どもの家園長の上園(かみぞの)氏が「新学期、子どもに向き合って」に書いていた内容には諸手を挙げて賛成なのだが、中で「2019年度の文科省発表による不登校の児童生徒の数が18万余人いて、この7年間はずっと増え続けている」というのには驚くほかなかった。

児童生徒というのは小中学生のことで、各学年120万人平均とすると9倍して1080万人。このうち18万が不登校なのでその率は6パーセント。100人いれば6人が不登校ということになる。おおむね1学級に2人である。

上園氏が27年にわたって不登校相談をして来て、不登校への取り組みについては次のような結論を出している。

(1)できれば不登校の問題は、家族の関わりの中で解決して欲しい。
(2)不登校は学校での出来事が引き金となっているが、実は家族の中でコミュニケーションがうまく学べていないために、他者との関係構築が困難となって起こることが多い。
(3)相談にはご両親での参加をお願いしている。

要するに子供は家族関係の中で成長して行くものであり、その過程で不具合が生じた場合、親子間のコミュニケーションが最も大事だということだろう。全くその通りである。

子どもが不登校を含む不具合に陥った場合、両親が(片親の場合でも)立ち止まって子どもに寄り添い、耳を傾けるという行動が要求されるということで、まずは「寄り添う」のが先決だということである。


実は私の弟も不登校だった。と言っても、もう56年も前のことで、当時は「不登校」という用語もなければ、その前によく使われていた「登校拒否」という用語もなく、良くて「長欠」、悪くすると「ズル休み」などと言われた時代である。

弟は中学2年生だった。まだ1学期が始まってそう経たない頃だったと記憶するが、学校へ行けなくなった。ある朝から「便所」に籠るようになったのである。

勤めに出ようとする母がいくら「ほら、早く出て来なさい」と呼びかけても出て来ない。その内に高校生だった私も、父も母も、兄、姉もそれぞれ家を出て行く。残るのは弟と「お手伝いさん」のみ。

1学期にどのくらい通学したのかよく覚えてはいないが、休み休み学校には行っていたはずで、3年生を終えると一応都立高校には入学しているので、全休ではなかった。その間、精神科の医者にかかるようになっていたので、安定剤は飲んでいたように思う。

一家は6人。両親は教員(母は小学校、父は中学校)で、姉、兄、私、弟という家族構成だった。それと「お手伝いさん」と呼んでいた住み込みの家政婦がいたので、7人が同居していた。

弟が生まれた時、私は1歳3か月、兄は4歳8か月、姉はほぼ10歳であり、姉はもう自分のことは自分でできたので母も手がかからず楽になり始めていたが、兄弟3人はそういうわけにはいかなかった。

それでも母は毎日勤めに出ていたから、家政婦は手のかかる3兄弟を抱えて相当大変だったろう。

弟は4月生まれということもあって、同学年では体格もよく成績もよかったから俗に言う「親のひいき目」にあずかっていたが、私は遅生まれで体格も小さく、成績もオール3で、時おり2つばかり4が加わる程度だったから、教員の子としては落第生だった。

だが、成績のことより何よりも兄弟を(姉も)悩ましたのが、家を出る時と帰って来たときに、母親の「行ってらっしゃい」「お帰り」の無いことだった。授業参観にもPTAの会合にも来ないのだ。

それどころか極めつけは、入学式にも卒業式にも来ていないのである。今なら副担任という制度があり、学級担任でも自分の子どもが入学だ卒業だという時には休める制度があるが、当時は無かったのである。

「母親不在」というのは言い過ぎだが、「母親に寄り添われなかった」のは確かで、母親が帰宅する5時半ごろになるまで外遊びをし、夕飯の時間が母親とのコミュニケーションタイムなのだが、大抵は姉が密着しており、こちらに振り向けられる時間は少なかった。

教員は夏休みをはじめ冬休み、春休みがあるじゃないか、と言われそうだが、確かに夏休みは40日と長い。しかしエアコンの無い時代の家屋の中は蒸し風呂に近く、そうそう母親に密着するわけにはいかなかった。

私が小学校4年生の時に近所に「そろばん塾」ができ、それまで習い事もスポーツも何もしていなかったので行き始めたのだが、これが私の脳内のシナプス結合を密にしたらしく、集中力もついて、学校の成績が上向き始めた。

すると何を思ったのか、父が学習塾へ行くように段取りし、そろばん塾は止めさせられてしまった。自分としては面白かったのでそのまま続けたかったのだが、父の思惑に負けたのである。

父は、成績をさらに上げて有名大学の経済学部を出て、金融機関に入れという。当時の(今でも)銀行・証券会社の年収の高さに魅せられたのが父だった(金縛り=睡眠中になるのは「かなしばり」だが、父の陥ったのは「かねしばり」だったろう)。

中学校は上位の成績で卒業し、学区内トップの高校に入学できたのだが、弟はその頃からやや下がり気味の成績に自分の家庭内の存在感が低下して行くように思ったのだろうか、「引け目を感じる」という言葉を私に漏らすようになった。

そして冒頭の不登校が始まったのである。

しかしその伏線は先に触れたように「母親に寄り添われなかった」幼少年時代にあった。これは「伏線」というには余りにも明らかな事態なのだが、当時の教員は男女平等賃金と言われており、女性の職種としては給料がよかったのか、なかなか辞めようとしなかった。ただその代わり、仕事の環境は男女そう変わらなかったはず(女性教員には宿直が無かったことくらいだろうか)。

だから母は母親というよりかは父親と同格であり、言うならば「父親ときどき母親」レベルの家庭環境を現出していたとも言える。私たちの住んでいた東京の北区赤羽西界隈はベッドタウンで、ほとんどの家では主人が都心に勤務し、母親は専業主婦で家にいるのが普通だった。

母が「母親に還る」のは冬休みだけと言ってよかった。というのは冬休みに入ると母は着物に割烹着を着け、正月準備のために掃除や買い物、台所仕事と、やっと近所の家々の主婦と同じ格好をし、働きをするのである。これは嬉しかった。正月の来るのも嬉しいことだが、それよりこっちの方が嬉しかった。

弟が中学2年で「不登校」を始めた時、母親が教員を辞め、このような普通の家庭の主婦になって寄り添っていたら、不登校は収まり、意気揚々と学業を続けていたのではないか――と思うと返す返すも残念である。

両親が揃って警察官なのに、子どもが「万引き」を繰り返して警察沙汰になったら、たいていどちらかの親が警官を辞めるだろうに・・・。

母は結局その後も、父が中学校を退職後3年目に胃がんで亡くなるその年まで教員を続けたが、その時弟は19歳、精神科に通うようになってすでに5年。時おり妄想や一人おしゃべりをするようになっていた。

油絵の世界へ行きたいという希望もあったのだが、心の不具合を克服し切れずに32歳の若さでこの世を去ってしまった。


上園氏が言うように、子どもの不具合が見えた時、すぐに立ち止まり、寄り添い、「子どもの目線(肩の線)で向き合うと、子どもはバランス良く立ち上がって行く」のは間違いない。その時、不具合もよい経験だったとして心の財産になるはずだ。

とにかく、子どもの声に耳を傾け、(特に母親は)寄り添うこと。親子の関係はこれに尽きる。