鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

田んぼの風景

2020-04-19 09:00:31 | おおすみの風景
3月の末頃から始まった早期米の田植えは、今ようやく終わろうとしている。

一昨日、市内の温泉で会った知人も、その前日に終えてホッとしたと言っていた。

どのくらいの面積かは聞かなかったが、田んぼの広さにかかわらず、年明け以来の荒起こし、堆肥やり、水路の保全、苗の発注、そして苗が来る前の施肥耕耘と田への導水、最後に水を張った状態での代かき、畔塗り――と、息の抜けないというほどではないにせよ、何かと気ぜわしいものだ。

代かき・畔塗りまで終わればあとは田植えとなるが、その日の気温やら天気やら気がかりは多い。だが、植え付けてほんの10センチもあるだろうか、田の水面に行儀よく並んだ小さな苗の列を見ていると確かにホッとする。

自分は田植えをしなくなってもう20年になるが、近隣で水の張られた田んぼの畔に数人が出揃い、田植え機が入って植え付けているのを眼のあたりにすると、懐かしいというか、心がほころぶ。

鹿屋市吾平町の植え付けられたばかりの田んぼ。幼苗の並ぶ水面に山や木々が映っているが、左上のこんもりと刈り込まれた木の生えている小丘は「飴屋敷跡」である。

「飴屋敷」は神武天皇の父に当たるウガヤフキアエズノミコトが養育された場所と言われており、養い主は叔母のタマヨリヒメ(トヨタマヒメの妹)という海人族の娘だ。

未婚であったためお乳が出ないのでこの近辺の老婆が「飴」を作って献上し、そのおかげで養育することができたという伝承がある。この「飴」はキャンデーの飴ではなく、米を発酵させて作るモロミの一種だったろうと思われる。
(※パルショータという名のモロコシ製の発酵飲料で暮らしているアフリカのスーダンの一部族が現存しており、そのことからウガヤ王子の摂取した「飴」も同様だったろうと推察して書いたのが、当ブログの『パルショータという発酵食品1・2・3』である。)

ここの田んぼ地帯は西側を姶良川が取り巻くようにして流れており、水の便はすこぶる良い。2キロほど上流にはウガヤフキアエズノミコトの御廟という「吾平山上陵」がある。

ただ私見ではウガヤ王朝が何十代か続いたと考えており、吾平山上陵の洞窟陵に眠るのはウガヤ王朝最後の王ではなかろうかと思っている。

日向神話上の三代(ニニギノミコト・ホホデミノミコト・ウガヤフキアエズノミコト)はすべてそれぞれが数十代の王統をもち、南九州に君臨しつつ、九州島はもとより本土や朝鮮半島との交流も行っていたとも考えている。(※以上のことも以前に書いているので参照されたい。)


これは我が家の東3キロばかりにある道路沿いの崖から池園町の田んぼ地帯を見下ろしたもの。ここは普通作が多いのだが、早期米を植え付けた田んぼが6~7枚ある。

こうして見ると水の張られた田はまるで「太陽光パネル」だ。太陽光パネルは太陽光で電気を作るが、田んぼは太陽光で米というでんぷんを作る。

太陽光で作られた電気は流れて行ってどこかでエネルギーに変換される(消費される)。一方、米の方は流通し、どこかで消費(消化)されてエネルギーに変換される。

ただ米の優れたところはコメそのものが蓄電池であることだ。ストックも利くし大口流通も小口流通も様々な加工も可能な優れものである。

日本列島が弥生時代の初め頃(二千数百年前)に津々浦々まで大々的に米作りを導入して以来、今なお飽くことなくその生産を続けているのもこれあるからだろう。

田起こし、代かき、田植えという一連の作業が済んだ後の田んぼの広がりに心が和み、初夏の青田に元気づけられ、収穫後の掛け干しに温もりを感じるのは、この2千年来の田作りとともに命を繋いできた伝統的遺伝子のなせる業に違いない。