【はじめに】
雄略天皇は「大悪天皇」として恐れられた。それは天皇就任前に多くの兄弟及び従兄弟を殺害しているからである。
兄弟では「黒比古王」「白比古王」、従兄弟では「市辺押羽(イチノベオシハ)皇子」、甥では「目弱(マヨワ)王」、臣下では「円大臣(ツブラノオトド)」がいる。
結局は「目弱(マヨワ)王」が継父の安康天皇を殺害したことに端を発している。
マヨワ(目弱・眉輪)は暗殺された大草香皇子(父は仁徳天皇、母は日向髪長媛)の遺児で、母と一緒に安康天皇のもとに連れていかれ、敵討ちをしたのだった。
この仕打ちに怒り心頭になったのが、安康天皇の弟で次代の雄略天皇であった。マヨワ王が逃げ込んだ円大臣の家を雄略天皇が差し向けた軍隊が取り囲み、とうとうすべて焼き殺されてしまう。
大草香皇子は隅田八幡所蔵の鏡に刻まれた「日十大王」であり、母が日向の髪長媛であった。允恭天皇が病弱で皇位を継げなかったら、大草香皇子が皇位を継承していてもおかしくなかった。
大草香皇子は妹のハタビヒメを雄略天皇の妃にしようとして派遣された根臣(ねのおみ)が、大草香皇子の妹入内の承認のしるしとして根臣に託したのが「押木玉葛(オシキノタマカズラ)」(金冠)であった。
金冠は主に半島の新羅製で、大草香皇子が所有していたということは、母の里の古日向が半島と海運によるつながりを持っていたことを示している。
【市辺押磐皇子の二人の遺児の流離】
雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子(いちのべおしはおうじ)は雄略天皇の従兄弟で、父は履中天皇、母は葛城ソツヒコの孫でクロヒメといった。
クロヒメの子は男子がもう一人いて、御馬皇子(みまおうじ)といったが、この弟も雄略天皇の歯牙にかかっている。
雄略天皇の父は、市辺押磐皇子の父・履中天皇の弟の允恭天皇であるのだが、母方は押坂のオオナカツヒメで、母方の系統が全く違っている。
したがってこの惨劇は「母系違いの対立」が大きくかかわっていたと言えるだろう。古代の母系制社会を如実に物語るものだと考えたい。
さて、市辺押磐皇子には二人の男の子がいた。長男は億計(オケ)皇子、次男は弘計(ヲケ)皇子といった。
二人は、父が近江に狩に出かけた時に雄略天皇に殺害されたと知り、自分たちも危ういと悟り、逃避行を決断する。当時7歳と5歳であったというから、当然家臣の誘導による逃避行であった。
まず家臣の日下部連の先導で丹波の余社郡に逃れ、のちに播磨の志染(しじみ)の屯倉を管理する忍海部造細目(ほそめ)のもとに雇われ、「丹波少子(たんばにわらわ)」と名を替える(志染は今日の兵庫県三木市に属する)。
雄略天皇の代が終わり、次の清寧天皇の時に、転機が生じた。
清寧天皇2年(480年)の11月、播磨に遣わされた伊予来目部小楯(おだて)がたまたま忍海部造細目(ほそめ)の新築祝いの席に連なっていたところ、「丹波少子」の二人が祝いの舞を舞った。
その舞が堂に入っていたので、小楯は「上手なものじゃ、もっとやれ」と上機嫌であった。そこで二人は素性を明かす。舞とともに次のように雄叫びする。
<石上(いそのかみ) 振るの神杉 本伐り 末截ひ 市辺宮に 天下治めし 天万国万押磐尊の御裔 僕らま!!>
「石上に所在した市辺の宮で、天皇の位に就いていた市辺押磐皇子の子孫だよ、僕たちは!!」と訴えたのであった。
腰を抜かさんばかりに驚いたのは派遣された小楯である。志染屯倉の管理者細目とともに仮の宮を建てて二人の皇子に恭順した。そしてすぐに都の清寧天皇のもとに連絡を入れ、翌年(481年)、二人の皇子は都へ上がった。
清寧天皇には子がいなかったので喜びようは大層大きく、長男の億計皇子を皇太子とし、次男の弘計皇子は我が子にした。
2年後に清寧天皇が亡くなったので、弟の弘計皇子の方が先に即位し、「顕宗天皇」となった。
播磨の志染で見いだされた時の年齢は、雄略天皇の在位23年と清寧天皇の2年を加えて25年であるから、それぞれ32歳と30歳と若かったはずだが、顕宗天皇の在位はわずか3年、兄の仁賢天皇は11年と短いものであった。
おそらく志染の屯倉での、奴隷に等しい労働を経験したことによる心身の疲労が積もっていたのだろう。労しいことであった。
歴代天皇でこのような境遇に置かれた天皇はいなかったが、それでも何とか皇位に上ることができたのは慰めに違いない。
二人の治世の後に跡を継いだのは、あの雄略天皇の孫の武烈天皇であったが、祖父の性格に似たのか、残虐非道を尽くし、子もなかったために仁徳天皇から始まった「河内王朝」の血統はこの天皇で断絶してしまった。
雄略天皇は「大悪天皇」として恐れられた。それは天皇就任前に多くの兄弟及び従兄弟を殺害しているからである。
兄弟では「黒比古王」「白比古王」、従兄弟では「市辺押羽(イチノベオシハ)皇子」、甥では「目弱(マヨワ)王」、臣下では「円大臣(ツブラノオトド)」がいる。
結局は「目弱(マヨワ)王」が継父の安康天皇を殺害したことに端を発している。
マヨワ(目弱・眉輪)は暗殺された大草香皇子(父は仁徳天皇、母は日向髪長媛)の遺児で、母と一緒に安康天皇のもとに連れていかれ、敵討ちをしたのだった。
この仕打ちに怒り心頭になったのが、安康天皇の弟で次代の雄略天皇であった。マヨワ王が逃げ込んだ円大臣の家を雄略天皇が差し向けた軍隊が取り囲み、とうとうすべて焼き殺されてしまう。
大草香皇子は隅田八幡所蔵の鏡に刻まれた「日十大王」であり、母が日向の髪長媛であった。允恭天皇が病弱で皇位を継げなかったら、大草香皇子が皇位を継承していてもおかしくなかった。
大草香皇子は妹のハタビヒメを雄略天皇の妃にしようとして派遣された根臣(ねのおみ)が、大草香皇子の妹入内の承認のしるしとして根臣に託したのが「押木玉葛(オシキノタマカズラ)」(金冠)であった。
金冠は主に半島の新羅製で、大草香皇子が所有していたということは、母の里の古日向が半島と海運によるつながりを持っていたことを示している。
【市辺押磐皇子の二人の遺児の流離】
雄略天皇に殺害された市辺押磐皇子(いちのべおしはおうじ)は雄略天皇の従兄弟で、父は履中天皇、母は葛城ソツヒコの孫でクロヒメといった。
クロヒメの子は男子がもう一人いて、御馬皇子(みまおうじ)といったが、この弟も雄略天皇の歯牙にかかっている。
雄略天皇の父は、市辺押磐皇子の父・履中天皇の弟の允恭天皇であるのだが、母方は押坂のオオナカツヒメで、母方の系統が全く違っている。
したがってこの惨劇は「母系違いの対立」が大きくかかわっていたと言えるだろう。古代の母系制社会を如実に物語るものだと考えたい。
さて、市辺押磐皇子には二人の男の子がいた。長男は億計(オケ)皇子、次男は弘計(ヲケ)皇子といった。
二人は、父が近江に狩に出かけた時に雄略天皇に殺害されたと知り、自分たちも危ういと悟り、逃避行を決断する。当時7歳と5歳であったというから、当然家臣の誘導による逃避行であった。
まず家臣の日下部連の先導で丹波の余社郡に逃れ、のちに播磨の志染(しじみ)の屯倉を管理する忍海部造細目(ほそめ)のもとに雇われ、「丹波少子(たんばにわらわ)」と名を替える(志染は今日の兵庫県三木市に属する)。
雄略天皇の代が終わり、次の清寧天皇の時に、転機が生じた。
清寧天皇2年(480年)の11月、播磨に遣わされた伊予来目部小楯(おだて)がたまたま忍海部造細目(ほそめ)の新築祝いの席に連なっていたところ、「丹波少子」の二人が祝いの舞を舞った。
その舞が堂に入っていたので、小楯は「上手なものじゃ、もっとやれ」と上機嫌であった。そこで二人は素性を明かす。舞とともに次のように雄叫びする。
<石上(いそのかみ) 振るの神杉 本伐り 末截ひ 市辺宮に 天下治めし 天万国万押磐尊の御裔 僕らま!!>
「石上に所在した市辺の宮で、天皇の位に就いていた市辺押磐皇子の子孫だよ、僕たちは!!」と訴えたのであった。
腰を抜かさんばかりに驚いたのは派遣された小楯である。志染屯倉の管理者細目とともに仮の宮を建てて二人の皇子に恭順した。そしてすぐに都の清寧天皇のもとに連絡を入れ、翌年(481年)、二人の皇子は都へ上がった。
清寧天皇には子がいなかったので喜びようは大層大きく、長男の億計皇子を皇太子とし、次男の弘計皇子は我が子にした。
2年後に清寧天皇が亡くなったので、弟の弘計皇子の方が先に即位し、「顕宗天皇」となった。
播磨の志染で見いだされた時の年齢は、雄略天皇の在位23年と清寧天皇の2年を加えて25年であるから、それぞれ32歳と30歳と若かったはずだが、顕宗天皇の在位はわずか3年、兄の仁賢天皇は11年と短いものであった。
おそらく志染の屯倉での、奴隷に等しい労働を経験したことによる心身の疲労が積もっていたのだろう。労しいことであった。
歴代天皇でこのような境遇に置かれた天皇はいなかったが、それでも何とか皇位に上ることができたのは慰めに違いない。
二人の治世の後に跡を継いだのは、あの雄略天皇の孫の武烈天皇であったが、祖父の性格に似たのか、残虐非道を尽くし、子もなかったために仁徳天皇から始まった「河内王朝」の血統はこの天皇で断絶してしまった。