鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

邪馬台国時代の朝鮮半島の国々②

2022-04-01 21:31:17 | 邪馬台国関連
①では邪馬台国当時の朝鮮半島から南満州にかけての6か国の国々のうち、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁あらましを書いた。

残るのは濊(ワイ)・韓の2か国であるが、韓については馬韓・弁韓・辰韓の三国との倭人のかかわりで、ずいぶん書いているので割愛するが、ここでは何と言っても「濊」こそが朝鮮半島北半分に大きな勢力を持っていたらしいので、魏志濊伝については、全文を読み下し、訳を付けておきたい。

【魏志濊伝】※( )は補注

<濊は南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に遮られている。今、朝鮮の東側はすべて濊の土地である。戸数は2万を数える。

昔にさかのぼるが、殷王朝の王族だった箕子が亡命して朝鮮にのがれたことがあった(殷時代末期。約3千年前)。箕子は朝鮮の住民に「八条の教え」を作り、教化したところ、家々では戸を閉ざす事なくても盗んだり、盗まれたりしなかった(あの孔子が理想としたような治世が行われた)という。

箕子亡きあと40世余りのちの「準」(箕準)は朝鮮候であったが、ひそかに王号を名乗っていた。

その時代に起きたのが「陳勝・呉広の乱」(前209年)で、秦王朝が倒される事態となり、天下は乱れた。大陸の燕・斉・趙の民が数万戸も朝鮮に長流れ込んだ。その中に燕人の衛満という有力者がいて、朝鮮で王となった(この時、朝鮮侯箕準は衛満の攻撃を避けて、南の韓に亡命している。辰韓の始まりである)。

秦の後を継いだ漢(前漢)の武帝が朝鮮を討伐し、その衛満の朝鮮を滅ぼして四郡を置いた(前108年)。この時に大陸から流れた漢民族と現地民族とがそれぞれ分離した(境界を異にした)。

(※以上が紀元前1000年代に到来した箕子から始まり、衛満が王となって箕準が韓に亡命し、前108年に衛満(朝鮮)が滅ぼされるに至る約900年間の極めて大まかな朝鮮史である。次から、いよいよ濊の風土・風俗の紹介となる。)

濊に大君長はいない。漢の影響によって官制が生まれた。「侯邑君」「三老」であり、下戸(一般人民)を統属した。

古老が言うには「もともとは高句麗と同じ種族だ」と。人となりを見ると、まじめで欲が少なく、恥を知り、人に物乞いなどをしない。言葉や法俗(生活上の決まり事)などはおおむね高句麗と同じである。

ただ衣服には差があり、男女はみな曲線状の襟のあるものを着用している。男子は白っぽい花柄(銀花)で幅が数寸の物を飾りとしている(アップリケかブローチかは不明)。

単単大山嶺(狼林山脈=朝鮮北部の蓋馬高原から南に延びる山地)の西側は楽浪郡(漢の武帝の置いた四郡のひとつ)に属し、東側の7県は濊に属するが、漢から派遣された「都尉」によって治められている。民はみな濊人である。のちに都尉を廃止し、濊人の有力者を「侯」に就任させ治めさせた。現在の「不耐濊」(不耐は地名)の民はその後裔である。漢(前漢)の末期には高句麗に属した。

濊の風俗のうち風土は山や川が複雑に入り組み、その山川にはそれぞれ「部分」(入会地)があり、民は勝手に入ってはいけないことになっている。

同姓であれば婚姻できない。

忌避が多く、疾病で死人が出るとその旧宅は廃棄され、新たに家を作る(疾病がウイルス性の疫病であれば確かに一理はある)。

麻布があり、蚕を飼って絹布も作っている。暁に星を見てその年の豊凶を占っている。珠玉を宝としていない(「欲が少ない」という人性に対応している)。

常に10月(旧暦)に天を祭り、昼夜飲酒し歌舞するが、これを「舞天」(ブテン。これは漢語の読みだが、濊語で何と言ったかは不明)と称している。また、虎を祭って神と称してもいる。

集落ごとに独立性があり、他の集落が侵犯した場合には、生口(奴隷)と牛馬を贈る習わしがある。これを「責禍(セッカ)」と言っている(セッカは漢音読みで、濊語で何と言ったかは不明。要するに損害賠償のこと)。

人を殺したら、死を以て償う。そもそも寇盗(コウトウ。侵犯したり盗んだりすること)は少ない。

長さ3丈もの矛を作る。それを数人で抱えて使う。戦いは徒歩で行う。「楽浪の檀弓(ダンキュウ=マユミ製の弓)」はここが産地である。

海ではアザラシが捕獲され、その皮が名物である。陸上では豹の類が多い。また果下馬がいて、後漢の桓帝に献上されたことがある。

正始6(245)年、楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は大山領(狼林山地)の東の濊が高句麗に属したということで兵を派遣して征伐した。不耐侯(東濊王)は国を挙げて降伏した。同8(247)年、同王は魏の王宮に朝貢して来たので、魏では「不耐濊王」の称号を授けた(この時南の韓でも降伏する国々があり、そのことを魏志韓伝では「二郡、ついに韓を滅す」という表現を使っている)。

居住は民家と王宮とを峻別せず、雑居している。四時に魏への朝貢を欠かさず、楽浪・帯方の二郡は軍事や物資の調達、上納を求めることがあり、民の待遇は郡民扱いである。>

以上が魏志濊伝のすべてであり、以下は私注である。

※濊民は高句麗とほぼ同種であり、言葉も似通っている。風俗や産物には違いがあるが、それは気候風土のしからしむるところだろう。

※正始6年から8年(245~247年)は朝鮮半島にとって悪夢のような年月で、魏が置いていた楽浪・帯方の二郡からの攻撃を受け、さらに魏の大将軍司馬懿の侵攻を受けて、ついに半島は魏に呑み込まれようとしていたのである。

※前漢の武帝が紀元前108年に半島に四郡を置き植民地支配体制に入った時にも大きな混乱があり、北朝鮮部を占めていた濊はその西半分を楽浪郡とされて、東側に押しやられたのだが、その際にはかなりの避難民が高句麗や扶余にまで移住していた。その後約350年後の正始年間の魏による侵攻は再び大きな混乱を生んだのであった。

※この混乱は朝鮮半島からの多量の避難民を生み、今度は北方よりも南方の九州島への避難者が多くいた。その中でもっとも注目に値するのが辰韓王(辰王)の九州島への亡命であろう。私見ではこの辰王こそが糸島(伊蘇=五十国)に到来した「五十瓊殖(イソニヱ)」こと崇神天皇である。

※濊国は後漢の武帝による朝鮮半島の植民化(四郡の設置)以前は今日の北朝鮮の大部を占める大国であった。殷の末期に紂王の悪政から逃れてやって来た箕子の「八条の教え」を忠実に守り、孔子も驚くであろう気風の民となった。もともとそのような気質だったのだろうか、倭人に通じる気質である。

※和歌山県の隅田(すだ)八幡宮所蔵の「人物画像鏡」の銘には4人の人物の名が刻まれており、その中の一人が「穢人今州利」であった。「穢人」は「濊人」と置き換えられよう。濊人と濊人の今州利(コンスリ=いますり)という特定の人物名が記録されたのはおそらく最初にして最後である。

※濊人の今州利はこの鏡の鋳造を担当した人物であるが、鏡の作製年代は440年代と特定できるから、濊及び濊人というのは、正始年間に滅ぼされたと言いながら、200年後のその頃まで存続していた可能性が考えられる。

※「穢人」とは「汚れた人」という蔑称であるが、濊人は蔑称ではなく、サンズイが付けられているところから判断して、水に関わりのある生業を身に着けていた民なのであろう。漢書の「檀石槐伝」(鮮卑の棟梁)によると、石槐の軍勢が南下してきて飢餓に苦しんだ時、とある川に食用の魚が沢山いることに気付き、「東方千里にいた倭人千余家を連行してきて魚を捕らせて飢えをしのいだ」という記事があるが、この倭人とは実は濊人ではなかろうか。倭人と濊人も同種と言っていいのかもしれない。







韓国はエンデミック政策に舵を切る

2022-04-01 19:52:59 | 日記
韓国では直近一週間の新型コロナ感染者数が270万と世界で最も数が多くなっている。

今日4月1日の発表では昨日の感染者数は28万であり、前の週より若干減ったと報道された。

それにしてもその実際の数には圧倒される。

この冬の第6波では日本も相当な感染者数が出ており、一時は全国で10万を超える日があったが、最近ではおおむね4万から5万で推移している。

韓国は新型コロナ感染の最初期には台湾と並んで感染者数の少なさを誇ったものだが、ここへ来てもうその栄誉をあきらめたようだ。

こんな感染症の流行はまず限定的な地域で感染が始まるが、それをエピデミックと言うそうだ。

それで収まればよいが、他の複数の地域に広がりだすと、今度はパンデミックと言われる。一昨年からまる2年、そのパンデミックが世界を覆っているのは、誰しもがまさに経験している通りである。

感染症対策の優等生だった韓国がこのところのオミクロン株による大流行を逆手にとり、感染者数を増やす方向に持って行くため、逆に規制緩和をし始めたと言う。

これによって、さらに感染者数を増加させ、国民の間にオミクロン株に対する抗体(免疫力)をつけさせ、流行性感冒(インフルエンザ)並みのごく普通に起きる感染症のレベルに下げて行こうというわけである。

新型コロナ感染の第1波かそこらの時に、スエ―デンが同じ対策を考えていたようだが、その後どうなったか報道も何もないので分からないが、少なくとも韓国政府は「世界で初めてエンデミックを達成した国になる」と意気込んでいる。