中臣鎌足が藤原鎌足となったのは、天智天皇が天武8年(669年)の10月に死の床にあった鎌足に対して、その勲功を賞して「藤原姓」を与えたからである。
鎌足は同時に「大織冠」を授けられ、「内大臣」という臣下としては最高の位に上った。しかし藤原氏となった鎌足はその翌日に死亡したから、鎌足自身は藤原姓が与えられたといっても、もうすでに意識朦朧であったに違いない。
しかしその後の藤原氏の大活躍の発火点になったことは間違いなく、平安期からは藤原氏の専制体制と言ってもよい時代になり、「五摂家」を生み、全国にその名を取り入れた「佐藤・伊藤・斎藤・・・」などを輩出した一大姓勢力である。。
この「藤原」は大和国の高市郡(橿原市)に見える地名であり、おそらく見事な山藤(栽培種以前の野生のフジ)の繁る一帯だったがゆえに付けられた地名であったろう。
669年に姓として授けられる前に、藤原という地名が登場するのは、允恭天皇の時代と推古天皇の時代である。
允恭天皇(第19代 在位412~443年)の6年(417年)、皇后・押坂オオナカツヒメの妹の衣通姫(ソトオリヒメ)というたいそうな美人を後宮に入れようとして、皇后にねたまれ、衣通姫のために「藤原宮」を建てたという記事があるのが、藤原の初見である。
藤原という地名の所に建てたので宮の名が「藤原宮」となったのだが、この藤原宮は約280年後の694年に持統天皇が唐式都城として建設した後述の藤原宮と同じ宮名である。ただし宮の建設地は重なっていない。允恭天皇の藤原宮の方がより飛鳥の村に近かったようである。
この時の藤原宮は2年足らずで放棄され、大和の外の河内に新しく「茅渟(ちぬ)宮」が造られた。姉の嫉妬が苦しく感じられてならない衣通姫のたっての願いで、飛鳥からはるかに遠い河内の茅渟に造営された。首尾よく行ったようだが、姉の嫉妬は止まず、「頻繁に出かけたら、人民の負担となるから、回数を減らしなさい」とくぎを刺されている。
さて、推古天皇(第33代 在位593~628年)の時代に登場するのは「藤原池」である。推古天皇15年(607年)の記事に、「今年の冬、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る」とあり、河内国でも「戸苅池・依網池を作る」とある。いずれも灌漑用の池であろう。またこの年には小野妹子と鞍作福利を隋に遣わしている(第1回遣隋使)。
その後の地名由来の「藤原」については、天智天皇の正式な即位年7年(668年)のこととして、次の記事があるのみである。
<7年(668年)2月、古人大兄皇子の娘・倭姫を立てて皇后とす。ついに4姫を納れり。(省略)遠智娘(オチのイラツメ)は1男2女を生む。第一を太田皇女、第二を鵜野(ウノ)皇女ともうす。ウノ皇女は、天下を保ちたまふに及び、飛鳥浄御原宮にまします。後に宮を藤原に移したまふ。>
ウノ皇女はのちの持統天皇のことで、夫の天武天皇亡き後に「藤原宮」を造営している。
天武天皇から持統天皇の時代は、663年に白村江の海戦で唐・新羅連合軍に完膚なきまで敗れ、半島の権益を失って列島だけの自立国家にするため唐に倣った「法治国家」(律令体制)樹立を目指していた時代であった。
都城の建設もその一環であり、持統天皇の4年から8年にかけ、4年の歳月をかけて竣工している。南北1キロ、東西1キロ(100ヘクタール)の大陸式の都で、朝堂院はじめ唐の都城を模した本格的な「天子の城」である。
この本格的な法治国家観による都城の名をなぜ「藤原宮」としたのだろうか?
もちろん付近に地名としての「藤原」があり、上に述べた「藤原池」のある地域であった。そこに展開する都城が藤原宮であってさしたる不思議はないのだが、一点だけ不審なのは「藤原氏」という地名ではない「姓(氏)」の存在である。
藤原姓は最初に触れたように、中臣鎌足の死の直前に天智天皇によって与えられた姓であった。その姓は鎌足の出生地でもあった地名・藤原から採ったものだろう。その藤原姓が669年に始まり、藤原宮が完成した694年頃には鎌足の後嗣の藤原不比等も官僚として中堅どころを担っていた。
父が大殊勲のある内大臣鎌足であり、それへの賜姓によって藤原氏が生まれたのはいいとしても、新しく建設された巨大な大陸式都城に「藤原宮」という名を名付けるのはいかがなものか。たとえ功労第一等の内大臣とはいえ、天皇の臣下に過ぎないのである。
その姓と同じ名称を新式都城に使うのは普通はためらうはずである。史上の事例では淳仁天皇の幼名が「大伴皇子」だったため、天皇側近の大伴氏は「伴氏」に名称変更されている。
「藤原宮」は天皇の名ではなく都城の名だが、それでも当時は中堅官僚であった鎌足の長子・藤原不比等の「藤原」の字を避けるか、あるいは逆に「藤原宮」名を優先して藤原氏の名称を例えば「藤井氏」などのように変えるのが普通ではないかと思うのである。
ところがそれをしなかった。
そこで考えられるのが、天武天皇の出自である。私は天武天皇は孝徳天皇の4年(653年)に唐に僧として留学し、白村江戦役の終了後の665年に唐の使者・劉徳高の船で帰って来た藤原鎌足の長男・真人(僧籍名・定恵)ではないかと考えている。
つまり天武天皇とは鎌足の長男中臣真人(藤原賜姓後は藤原真人=僧籍名・定恵)であり、であれば藤原姓は藤原宮とは同格ということになり、藤原を共有して怪しまなかったとということになる。
天武天皇の幼名とされる「大海人皇子」という人物が、天智天皇紀にほとんど登場せず、登場した時は「皇弟」「大皇弟」と書かれるのみで、一向に「大海人皇子」としては出てこない不審もこれで氷解される。「大海人皇子」という名の皇子の実体はなかったのである。
※「大海人皇子」または「大海皇子」は舒明天皇紀2年(630年)正月条に、舒明天皇と皇極天皇の子供として「葛城皇子(中大兄皇子=天智天皇)、間人(はしひと)皇女、大海皇子」があったことが紹介された後は、書紀の記述に一切登場せず、常に「天智天皇の弟」の意味の「皇弟」だったり(孝徳天皇紀4年条)、「大皇弟」だったり(天智3年2月条・7年5月条・8年5月条)、「東宮大皇弟」だったり(天智8年10月条・天智10年正月条)、初めて「皇太子」(天智10年5月条)が当てられ、さらに「東宮」(天智10年10月条)という名称で最後の登場となった。
その間、一貫して「大海人皇子」とも「大海皇子」とも書かれず、例えば「大皇弟・大海人皇子」というような書き方は一切なく、言わば「大海人皇子」の存在は無視されているのである。つまり「大海人皇子」という人物は舒明天皇と皇極天皇との間の子ではなく(天智天皇の兄弟ではなく)、まったくの造作であると言っているに等しいのだ。
その「東宮」が死の間際の天智天皇から、「東宮なのだから私の死後に天皇になって欲しい。そして我が子の大友皇子を皇太子にしてほしい。」と言われ、はいそう致しますとは言わず、「いえ、次期天皇には皇后陛下がなり、大友皇子を東宮に据えるべきです」と、私の出る幕は有りませんとばかり、即日出家して法服を着用して吉野宮に隠遁したのであった。
ここで「即日に出家した」とあり、法服(僧衣)まで着用した天武天皇だが、大海人皇子時代に仏教を学んだなどという記述は一切見えていない。大海人皇子という人物を主語にした記録が一切書記には記されていないのだから、当たり前と言えば当たり前だが、即日の出家という記事の唐突感は全く以て不可解である。
また即位後の記事として「天武天皇紀・上」の即位前記には、あれだけ書かれていなかった「大海人皇子」が幼名として取り上げられている。これは舒明紀の皇極天皇との間の子として「葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女・大海皇子」と造作したことに対する「〆め」のようなものである。
天皇はまた「天文・遁甲(トンコウ)を能くする」と書かれており、このような学問を誰からどこで習ったという記事も当然ながら皆無である。
そしてさらに「和風諡号」を見てみると、それは「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」である。最初の「天渟中原」(あめのぬなはら)とは天から見た地上の中心という意味で、「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」に近い意味だろう。「瀛(おき)」は大陸から見た日本列島を「瀛洲(エイシュウ)」と言ったことから日本を指している。
その日本を治める「真人」(まひと)が、天武天皇の属性であった。真人は道教における「神人」と言って良いから、天武天皇のこの和風諡号は、「豊葦原と言われるはるか海の向こうの日本を神のごとく治める天皇」と解釈される。
ところが「真人」には道教の神に相当する人物という意味に加えて、藤原鎌足の長子であるのちの留学僧「定恵」(貞慧とも書く)の本名が「中臣真人」だったことをも想起せざるを得ないのである。
この定恵こと中臣(藤原)真人が天武天皇であってみれば、天皇が天智天皇の譲位の申し出を断ったその日に剃髪して法服(僧衣)を身に纏って吉野に隠遁したことも、天文や遁甲を能くしたことも了解される。
また孝徳天皇の5年(653年)の遣唐使船で唐に留学し、向こうで13年も学んだ挙句に白村江の戦役の後に唐から遣わされた終戦処理の交渉団(団長は劉徳高)の船で帰って来た(665年)ことは、「はるか海の向こうの日本(瀛洲=エイシュウ)を神のごとく治める」ための帰国だったと解釈できよう。唐としても中国語を理解できる「留学僧中臣真人こと定恵」を天皇に据えれば、倭人をコントロールしやすいと踏んでの天皇交代劇だったのだろう。
しかし唐の思惑は外れた。一つは新羅が敗戦後の百済のみならず、唐によって敗れた高句麗までをも征服して半島を統一したこと(675年)と、天武天皇の後継となった天智天皇の娘の持統天皇の強力なリーダーシップによって列島を日本独自の律令体制でまとめ上げたことである。唐の制度に倣うばかりでなく日本古来の祭政をうまく制度化した功績は大きい。
鎌足は同時に「大織冠」を授けられ、「内大臣」という臣下としては最高の位に上った。しかし藤原氏となった鎌足はその翌日に死亡したから、鎌足自身は藤原姓が与えられたといっても、もうすでに意識朦朧であったに違いない。
しかしその後の藤原氏の大活躍の発火点になったことは間違いなく、平安期からは藤原氏の専制体制と言ってもよい時代になり、「五摂家」を生み、全国にその名を取り入れた「佐藤・伊藤・斎藤・・・」などを輩出した一大姓勢力である。。
この「藤原」は大和国の高市郡(橿原市)に見える地名であり、おそらく見事な山藤(栽培種以前の野生のフジ)の繁る一帯だったがゆえに付けられた地名であったろう。
669年に姓として授けられる前に、藤原という地名が登場するのは、允恭天皇の時代と推古天皇の時代である。
允恭天皇(第19代 在位412~443年)の6年(417年)、皇后・押坂オオナカツヒメの妹の衣通姫(ソトオリヒメ)というたいそうな美人を後宮に入れようとして、皇后にねたまれ、衣通姫のために「藤原宮」を建てたという記事があるのが、藤原の初見である。
藤原という地名の所に建てたので宮の名が「藤原宮」となったのだが、この藤原宮は約280年後の694年に持統天皇が唐式都城として建設した後述の藤原宮と同じ宮名である。ただし宮の建設地は重なっていない。允恭天皇の藤原宮の方がより飛鳥の村に近かったようである。
この時の藤原宮は2年足らずで放棄され、大和の外の河内に新しく「茅渟(ちぬ)宮」が造られた。姉の嫉妬が苦しく感じられてならない衣通姫のたっての願いで、飛鳥からはるかに遠い河内の茅渟に造営された。首尾よく行ったようだが、姉の嫉妬は止まず、「頻繁に出かけたら、人民の負担となるから、回数を減らしなさい」とくぎを刺されている。
さて、推古天皇(第33代 在位593~628年)の時代に登場するのは「藤原池」である。推古天皇15年(607年)の記事に、「今年の冬、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る」とあり、河内国でも「戸苅池・依網池を作る」とある。いずれも灌漑用の池であろう。またこの年には小野妹子と鞍作福利を隋に遣わしている(第1回遣隋使)。
その後の地名由来の「藤原」については、天智天皇の正式な即位年7年(668年)のこととして、次の記事があるのみである。
<7年(668年)2月、古人大兄皇子の娘・倭姫を立てて皇后とす。ついに4姫を納れり。(省略)遠智娘(オチのイラツメ)は1男2女を生む。第一を太田皇女、第二を鵜野(ウノ)皇女ともうす。ウノ皇女は、天下を保ちたまふに及び、飛鳥浄御原宮にまします。後に宮を藤原に移したまふ。>
ウノ皇女はのちの持統天皇のことで、夫の天武天皇亡き後に「藤原宮」を造営している。
天武天皇から持統天皇の時代は、663年に白村江の海戦で唐・新羅連合軍に完膚なきまで敗れ、半島の権益を失って列島だけの自立国家にするため唐に倣った「法治国家」(律令体制)樹立を目指していた時代であった。
都城の建設もその一環であり、持統天皇の4年から8年にかけ、4年の歳月をかけて竣工している。南北1キロ、東西1キロ(100ヘクタール)の大陸式の都で、朝堂院はじめ唐の都城を模した本格的な「天子の城」である。
この本格的な法治国家観による都城の名をなぜ「藤原宮」としたのだろうか?
もちろん付近に地名としての「藤原」があり、上に述べた「藤原池」のある地域であった。そこに展開する都城が藤原宮であってさしたる不思議はないのだが、一点だけ不審なのは「藤原氏」という地名ではない「姓(氏)」の存在である。
藤原姓は最初に触れたように、中臣鎌足の死の直前に天智天皇によって与えられた姓であった。その姓は鎌足の出生地でもあった地名・藤原から採ったものだろう。その藤原姓が669年に始まり、藤原宮が完成した694年頃には鎌足の後嗣の藤原不比等も官僚として中堅どころを担っていた。
父が大殊勲のある内大臣鎌足であり、それへの賜姓によって藤原氏が生まれたのはいいとしても、新しく建設された巨大な大陸式都城に「藤原宮」という名を名付けるのはいかがなものか。たとえ功労第一等の内大臣とはいえ、天皇の臣下に過ぎないのである。
その姓と同じ名称を新式都城に使うのは普通はためらうはずである。史上の事例では淳仁天皇の幼名が「大伴皇子」だったため、天皇側近の大伴氏は「伴氏」に名称変更されている。
「藤原宮」は天皇の名ではなく都城の名だが、それでも当時は中堅官僚であった鎌足の長子・藤原不比等の「藤原」の字を避けるか、あるいは逆に「藤原宮」名を優先して藤原氏の名称を例えば「藤井氏」などのように変えるのが普通ではないかと思うのである。
ところがそれをしなかった。
そこで考えられるのが、天武天皇の出自である。私は天武天皇は孝徳天皇の4年(653年)に唐に僧として留学し、白村江戦役の終了後の665年に唐の使者・劉徳高の船で帰って来た藤原鎌足の長男・真人(僧籍名・定恵)ではないかと考えている。
つまり天武天皇とは鎌足の長男中臣真人(藤原賜姓後は藤原真人=僧籍名・定恵)であり、であれば藤原姓は藤原宮とは同格ということになり、藤原を共有して怪しまなかったとということになる。
天武天皇の幼名とされる「大海人皇子」という人物が、天智天皇紀にほとんど登場せず、登場した時は「皇弟」「大皇弟」と書かれるのみで、一向に「大海人皇子」としては出てこない不審もこれで氷解される。「大海人皇子」という名の皇子の実体はなかったのである。
※「大海人皇子」または「大海皇子」は舒明天皇紀2年(630年)正月条に、舒明天皇と皇極天皇の子供として「葛城皇子(中大兄皇子=天智天皇)、間人(はしひと)皇女、大海皇子」があったことが紹介された後は、書紀の記述に一切登場せず、常に「天智天皇の弟」の意味の「皇弟」だったり(孝徳天皇紀4年条)、「大皇弟」だったり(天智3年2月条・7年5月条・8年5月条)、「東宮大皇弟」だったり(天智8年10月条・天智10年正月条)、初めて「皇太子」(天智10年5月条)が当てられ、さらに「東宮」(天智10年10月条)という名称で最後の登場となった。
その間、一貫して「大海人皇子」とも「大海皇子」とも書かれず、例えば「大皇弟・大海人皇子」というような書き方は一切なく、言わば「大海人皇子」の存在は無視されているのである。つまり「大海人皇子」という人物は舒明天皇と皇極天皇との間の子ではなく(天智天皇の兄弟ではなく)、まったくの造作であると言っているに等しいのだ。
その「東宮」が死の間際の天智天皇から、「東宮なのだから私の死後に天皇になって欲しい。そして我が子の大友皇子を皇太子にしてほしい。」と言われ、はいそう致しますとは言わず、「いえ、次期天皇には皇后陛下がなり、大友皇子を東宮に据えるべきです」と、私の出る幕は有りませんとばかり、即日出家して法服を着用して吉野宮に隠遁したのであった。
ここで「即日に出家した」とあり、法服(僧衣)まで着用した天武天皇だが、大海人皇子時代に仏教を学んだなどという記述は一切見えていない。大海人皇子という人物を主語にした記録が一切書記には記されていないのだから、当たり前と言えば当たり前だが、即日の出家という記事の唐突感は全く以て不可解である。
また即位後の記事として「天武天皇紀・上」の即位前記には、あれだけ書かれていなかった「大海人皇子」が幼名として取り上げられている。これは舒明紀の皇極天皇との間の子として「葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女・大海皇子」と造作したことに対する「〆め」のようなものである。
天皇はまた「天文・遁甲(トンコウ)を能くする」と書かれており、このような学問を誰からどこで習ったという記事も当然ながら皆無である。
そしてさらに「和風諡号」を見てみると、それは「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」である。最初の「天渟中原」(あめのぬなはら)とは天から見た地上の中心という意味で、「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」に近い意味だろう。「瀛(おき)」は大陸から見た日本列島を「瀛洲(エイシュウ)」と言ったことから日本を指している。
その日本を治める「真人」(まひと)が、天武天皇の属性であった。真人は道教における「神人」と言って良いから、天武天皇のこの和風諡号は、「豊葦原と言われるはるか海の向こうの日本を神のごとく治める天皇」と解釈される。
ところが「真人」には道教の神に相当する人物という意味に加えて、藤原鎌足の長子であるのちの留学僧「定恵」(貞慧とも書く)の本名が「中臣真人」だったことをも想起せざるを得ないのである。
この定恵こと中臣(藤原)真人が天武天皇であってみれば、天皇が天智天皇の譲位の申し出を断ったその日に剃髪して法服(僧衣)を身に纏って吉野に隠遁したことも、天文や遁甲を能くしたことも了解される。
また孝徳天皇の5年(653年)の遣唐使船で唐に留学し、向こうで13年も学んだ挙句に白村江の戦役の後に唐から遣わされた終戦処理の交渉団(団長は劉徳高)の船で帰って来た(665年)ことは、「はるか海の向こうの日本(瀛洲=エイシュウ)を神のごとく治める」ための帰国だったと解釈できよう。唐としても中国語を理解できる「留学僧中臣真人こと定恵」を天皇に据えれば、倭人をコントロールしやすいと踏んでの天皇交代劇だったのだろう。
しかし唐の思惑は外れた。一つは新羅が敗戦後の百済のみならず、唐によって敗れた高句麗までをも征服して半島を統一したこと(675年)と、天武天皇の後継となった天智天皇の娘の持統天皇の強力なリーダーシップによって列島を日本独自の律令体制でまとめ上げたことである。唐の制度に倣うばかりでなく日本古来の祭政をうまく制度化した功績は大きい。