鴨着く島

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この秋、2冊目の歴史本を読む

2023-11-13 10:57:26 | 邪馬台国関連

先に書いた「この秋、2冊の歴史本を読む」の1冊目は右田守男著『サツマイモ本土伝来の真相』であったが、2冊目は天川勝豊著『邪馬台国それは、、、の地に』だ。

10月半ばにとある人が我が家を訪れ、「実はこんな本を書いた人がいて寄贈された。よかったら1か月くらい貸すので読んでみて」と置いて行った本である。

私の著書『投馬国と神武東征』(2020年10月刊)を購入し、さらに最初の著作『邪馬台国真論』(2003年刊)をと言われたが、こちらはすでに絶版になっており、手元には手つかずの蔵書として1冊があるのみだったのでお断りすると、「それなら貸してください」と、天川氏の著書とバーターでということになった。

この著書のタイトル『邪馬台国それは、、、の地に』には面食らったが、それよりも著者のペンネームと著書の分厚さには驚かされた。

ペンネームは「一一一一一」と漢数字「一」の羅列に過ぎず、それを「みついかずひと」と読ませるのだ。隣りにカッコつきで「天川勝豊」とあるので本名は分かるのだが・・・。

本書のページ数は1冊で700ページに及ぶ。大きさはB5版で、各ページの字数もやや多く配され、普通の単行本である46版に換算すると、約1割は多いから800ページに迫る大部である。

これを著者は出版社に拠らずに自費出版しており、発行所を自分の経営する学習塾になぞらえて「学修院」と名付けている。その発行所の場所は宮城県仙台市である。

そのあたりのことは出版上の経済性の問題であり、著者本人の選択であるからこれ以上は穿鑿を容れない。

※一一一一一著『邪馬台国、それは、、、の地に』(2023年7月刊、(有)学修院発行)

さて、本書の内容を私なりに吟味し、取り上げてみたい。

と言ってもすべてをとなると大変な読後感になってしまうので、主として半島の帯方郡にあった魏の郡治所から使者がどのように九州の倭国に到ったか、つまりいわゆる「行程論」を中心に評価することになる。

【帯方郡から狗邪韓国までの7000里】

朝鮮半島の帯方郡は今日の漢江流域にあり、これは魏によって排除される前の公孫氏によって置かれた植民地である。これを踏襲した魏はここから倭国(九州島)に数回の使者を送った。

この見聞をもとに記録されたのが、帯方郡から半島南岸の狗邪韓国までの7000里行程である。

これを私は水行つまり船による行程と考えるのだが、天川氏は公孫氏の時代から水路をとったり陸路をとったりしており、全部の行程を水行のこともあれば、陸路のこともあり、どちらとも言えないと考えている。

氏はしかし「乍南乍東(東しながら、南しながら)」という語句について曲解してしている。

この「東しながら、南しながら」という表現は、韓国の西海岸のリアス式海岸をうまく表現した語句なのだ。手漕ぎの船の場合、運航は「沿岸航法」であり、陸地が見える範囲の沖合を航行することになる。

朝鮮半島の西海岸はリアス式の規模の大きなもので、日本の三陸のリアス式海岸なら凸凹は規模が小さいので(湾入が浅いので)無視でき、北から南へあるいは南から北へ一直線で水行できようが、向こうのは湾入が極めて大きく、言わば半島に近いため凸凹に従わなければ縹渺とした沖に流される危険がある。

とすれば船は海岸の凹凸の地形に従って進めることになる。

このことを表現したのが「乍東乍南」なのである。半島の沖合を一直線に南下しているかと思えば、半島の湾入部に入って(東して)、湾奥の寄港地に寄って行く――これが「乍東乍南」の意味である。

このことを無視して「海路もあったが陸路もあった」という両論併記はいただけない。第一、陸路では魏の天使から邪馬台国への賜与品として預かった大量の物資を運ぶのは危険極まりないのだ(p239~251)。

【九州島の末盧国と伊都国】

次に大きな行路上の問題点についてだが、多くのというよりかほとんどの研究者が、末盧国(唐津市)から東南ではない糸島市に「伊都国」を比定したことである。

本著ではこの2か国について私と同じく大いなる疑問を投げかけている(p261~280)。

結論から言うと、本書は末盧国こそが多くの論者が「伊都国」に比定している糸島市だとする。そして「伊都国」はさらに九州東南岸の福岡県京都郡(みやこぐん)あたりとしている。今日の刈田町・みやこ町である。

末盧国が糸島市だと、たしかに一大国(壱岐国)から海路1000里の範疇には入っている。

しかし次の「伊都国」を福岡県京都郡に比定したのでは、末盧国(糸島市)で船を捨ててわざわざ陸路をとることになったのか、首を傾げる。刈田町にしろみやこ町にしろ海に面しているのだから、壱岐から直接船で行けばいいだけの話である。

私がかつて出版した『邪馬台国真論』において、「伊都国が糸島市なら、なぜ唐津である末盧国で船を捨てて歩かねばならないのか。壱岐から船で直接行けるのに・・・?」と同じ疑問を感じざるを得ないのだ。

ところが本書の278ページにはこう書いてある(一部に私の補いがある)。

<ところで、末盧国の国都は唐津に比定し、その松浦川沿いを南東に進み、伊都国を有明海沿岸に比定する説があるが、これならある程度、理に適っているとは言えよう。方向も東南だし、各々(末盧国と伊都国)が海に面しているが、別の海だから陸路にするしかないからである。

ではその先の奴国はどこか、肝心の邪馬台国はどこなのかとなると、一人一つの邪馬台国だから、その奴国、邪馬台国の比定で、やはり矛盾が出て来てしまっている。

だが単純な伊都国=前原という説よりは、はるかに合理的であろう。しかしこの場合、多く(の論考で)は狗邪韓国~対馬国間の距離が問題になるし、水行20日、10日、また陸行1月というのがどうしても矛盾を孕むことになる。したがって末盧国を松浦半島に比定した場合は、どう説明しようとも、他をどのように比定しても理に合わないことになるのである。>

この引用文の第一段落は私の説に非常に近い。私は末盧国を唐津に比定し、伊都国への「東南陸行500里」を解釈して松浦川に沿って上った所の「厳木町」を伊都国に比定している(ただし私は伊都国を「イツ国)と読む)からだ。

ところが第二段落で「その先の奴国も邪馬台国もどこか、どの説もやはり矛盾している」と述べ、第三段落で「水行20日、10日、また陸行1月というのがどうしても矛盾を孕む」と述べているのだが、筆者は「水行20日、水行10日、陸行1月」の解釈に誤りがあるのに気付いていない。

この水行云々は、不彌国からの行程としているのだが、そもそもこれが間違いのもとである。

原文ではその部分が「(奴国から)東行至不彌国百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有2千余家。南至投馬国、水行20日。(中略)南至邪馬台国、女王之所都、水行10日、陸行1月。(後略)」とあるのだが、帯方郡から不彌国までの行程は距離表記であり、次の投馬国及び邪馬台国は日数表記になっている。

この違いを考える必要がある。もし帯方郡から邪馬台国まで連続的につまり郡使がやって来たとおりに記すのであれば、そのまま距離表記で表現すべきであろう。

【距離表記の1万2千里と、日数表記の水行10日・陸行1月は同値である】

それをしていないで日数表記になっているということは、不彌国までの行程を踏襲していないわけだから帯方郡からの距離を距離表記とは別の日数表記で行程を表したということである。

要するに「帯方郡から狗邪韓国を経て(中略)不彌国まで距離表記で1万700里」を記述したあとの投馬国も邪馬台国も、どちらも帯方郡からの所要日数ということである。

そしてもう一つ倭人伝には帯方郡から邪馬台国までの距離を「万2千里」(1万2千里)とした記述があるが、これと日数表記の「水行10日、陸行1月」とは同値であることに気付かなければならない。

水行の10日とは帯方郡から朝鮮半島の西海岸を南下し、対馬海峡(朝鮮海峡)に入ってからは東へ航路を取り、朝鮮半島南岸で倭国に属する狗邪韓国に到り、そこからは対馬・壱岐を通って末盧国(唐津市)までの1万里なのである。

※海峡渡海1000里という距離表記は日数表記では水行1日のことである。

なぜなら、海峡を渡る際は海峡の途中で船を漕ぐのをやめるわけにはいかず、一日のうちにわたる必要があるので、海峡の距離表記1000里を日数表記の1日にしたのだ。したがって朝鮮海峡3000里は日数表記では3日となる。

これを帯方郡から狗邪韓国までの7000里に適用すると日数表記では7日。以上により帯方郡から末盧国まで距離表記では1万里、日数表記では10日となる。

投馬国も同様に帯方郡から水行20日の場所にある国ということになる。

ただしこの日数表記には「悪天候による出航待ち」の日数は含まれない。そんなことをしたら1日待ちもあれば1週間待ちもあるので、日数の書きようがない。あくまでも出航待ちなしの理論値である。※

本書の著者は残念ながら投馬国は「不彌国から南へ水行20日」と考え、また邪馬台国は「投馬国から水行10日、陸行1月」と考えている。

その結果、投馬国は薩摩半島部であり、邪馬台国は宮崎県域であるとしている。邪馬台国を宮崎県とした場合、「水行10日、陸行1月」とあるうちの「陸行1月」を「陸行1日」と改変している。そうせざるを得なかったのだが、ここはやはり首を傾げるところだ。

~(追記)~

著者は「あとがき」(同書700~701ページ)にほとんどの研究者が無視している例として次の箇所を上げて批判している。

<対馬国から一大(壱岐)国に向かう時には、海(対馬海峡の東水道)を渡ることになるのだが、その海のことが魏志倭人伝には「瀚海(カンカイ)」と書かれている。この瀚海とは「広い海」と訳されているが、では何故そこが広い海なのか。物理的には決してそうではない。むしろ朝鮮半島にあった狗邪韓国と対馬の間に広がる海(対馬海峡の西水道)の方が広いのが現実である。だが実際にはそのように、対馬と一大(壱岐)国での間の海で瀚海と書かれているのである。

どうしてそのような記述になっているのか、それを解明し解説した書は無い。>

こう書いているのだが、その部分は原文(読み下し文)では「(対馬島から)また南に一海を渡る、千余里。名付けて瀚海と曰う。」である。

この「名付けて瀚海と曰う」の原文は「名曰瀚海」で、「名を瀚海と曰う」でもよいのだが、この時の「瀚海」は固有名詞であり、決して形容的な意味での「瀚い海」つまり「広い海」ではないのである。

「名曰」(名を~という)を使った漢文は、同じ魏志倭人伝に「其大官曰卑狗」(その大官を彦と曰う)や「官亦曰卑狗」(官はまた彦と曰う)があり、倭人は国の首長を「彦」と言っていたとある。

「彦」は倭人特有の首長を表す固有名詞であり、同様に「名曰瀚海」の「瀚海」も固有名詞であることが分かる。

つまり対馬から壱岐までの海峡を、倭人(の航海者)は「瀚海」と名付けて呼んでいたのであって、決して他を圧倒するような広さの海というような形容ではない。

今日でもさして高い山ではないのに「高取山」とか「高尾山」と名付けているのと同じ類であろう。航海者にとって対馬から壱岐までの海峡は相対的に「広い海」に感じたから「瀚海」と名付けたに過ぎず、客観的な命名ではない。したがってこの部分は特に解釈に困ることはない。

※ただし当時の倭人が「瀚海」という漢字を知っていたとは思われない。おそらく「広い海」「広か海」のように言っていたのを倭人伝の記述の際に魏の史官(陳寿)が「瀚海」と当て字したのだろう。