芒種とは稲を播種する時期で、旧暦の5月の始まりでもある。今年は6月5日。
米には早期作と普通作があり、大昔はこの時期に田んぼに水を張って直接稲種(モミ)を撒いたのだが、弥生時代の中期頃からは苗を別に作り、それを田んぼに植えるようになった。
苗作りを別にする利点は、田んぼに早くから水を張っておいて水温を上げてから植え付けができることである。元は熱帯性の植物と言われている稲にとって田んぼの水の温度が高いほど地温も上がり根付きやすいのだ。
いま普通作のための田作りが代かきで一段落し、あとは苗の植え付け(田植え)を待つばかりの地域が多い。
田んぼに水が張られると鏡のようだ。好天気なら水面に青空を映し出すのだが、今日は曇り空である。
見た目からしても、水が張られた田んぼは一種の「太陽光発電所」だろう。
本物の太陽光発電は太陽の光エネルギーを電気エネルギーに変換する装置だが、田んぼは太陽光を稲のでんぷんエネルギーに変換するシステムで、得られたでんぷんを人間が活動のエネルギーとして利用する。
傾斜地は別にして平野部の田んぼは古くは条里制によって短冊状に四角く耕すようになり、条里制が廃れたあとも四角い区画で耕作するのが当たり前になった。
田作りが列島至る所で始まってから約2000年が経つのだが、おそらくどんな古い田んぼでもいまだに現役で米が作られている。いわゆる連作障害にはなっていないのが不思議だが、それは湛水に秘密がある。
水を溜めると土が空気に触れることがなく、そのために酸化が防がれるというのが最大の理由らしい。
土が酸性化すると土壌中の微生物の働きが阻害され、根の張り方が悪くなるのは火山灰土壌という酸性土壌に悩まされて来た南九州の宿命だが、それでも、いやそれだからこそ湛水は必須の条件だった。
もう一つの条件は湛水するための水の確保である。水が豊富なのは当然川や湧水に恵まれていることだ。
鹿児島県では大隅半島部に河川が拓いた大きな平野が多い。当然水資源に恵まれており、古代は大隅地区の方がコメに関しては生産力大であった。
その証拠が大隅半島部に多い前方後円墳である。そこに眠るのは当地の古代首長が中心だが、その大きさもだが古墳時代初期に属する古墳群が肝属平野に見られるのは意外に思われる。
相当古い時代から大隅地区の住人(古日向人)は中央との密接な往来があったというのが古墳時代を研究する学者の見解だが、私に言わせれば、古日向(おおむね713年以前の鹿児島・宮崎)から「神武東征」の類が実際にあったと考えているので、大和と古日向はもともと密接だったのである。
「神武東征」は歴史学から隠されてしまったが、「古日向(=投馬国=国王はミミと称していた)からの列島中央に向けての移住的東遷」は史実としてあったということを私は魏志倭人伝と記紀の探求から探り得ている。
その「移住的東遷」の主は神武の皇子として記紀に記載のタギシミミである。またその弟として古事記にはキスミミがいるが、こちらは大隅に残り、のちに
3世紀にさか上るという塚崎古墳の一部に眠っていると考えている。
田んぼ(米作り)の話から飛躍してしまったが、いずれにせよ弥生時代以降の国力とはコメの取れ高に大きく依存していた。
減反や飼料米という古来からの米の貴重さを貶めるような動きがあるが、SDGs的な観点からしても米作りの重要性はこれからもずっと続くだろう。