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出雲の神宝は金印か(古代史逍遥ー4)

2023-01-10 10:49:21 | 古代史逍遥
【大倭と厳奴と邪馬台国】

第10代崇神天皇は北部九州の糸島を本拠地とする五十(イソ)国王であった。

その来歴については、朝鮮半島南部の三韓のうち辰韓に最初の王権を築き、公孫氏を滅ぼした魏の司馬懿将軍が次には半島攻略を狙って来るのを避け、ついに王宮を糸島に移したので和風諡号「ミマキイリヒコ・イソ(五十)ニヱ」と表現された。

また息子の第11代天皇垂仁の和風諡号は「イクメイリヒコ・イソ(五十)サチ(狭茅)」であり、これは垂仁天皇が糸島という狭い地域の中で生まれ育ったことが表現され、さらに青年時代にイクメ(生目・活目)として邪馬台国の一等官として赴任したことがあることも表現している。

糸島の五十王国は崇神と垂仁の2代で北部九州の倭人国家群を糾合し「大倭」に成長したと考えられ、その大倭は魏志倭人伝の記す「国々に市有りて、有無を交易す。大倭をしてこれを監せしむ」とあるように、邪馬台国国家群内の市場取引を監督していた。

邪馬台国は、当時、言わば「大倭」の監視下にある保護国のような立場にあったわけで、その監督者の官名こそが一等官であった「伊支馬(イキマ=イキメ=生目)」だったと考えられる。

では邪馬台国が大倭から監督されるというような危機的状況に陥った原因は何だったろうか?

私見の邪馬台国は筑後の八女だが、北部九州の筑前と福岡県南部の筑後の間には佐賀県小城市から朝倉市にいたる広大な平野部があり、もともとそこを支配領域としていた「厳奴(イツナ)」こと「伊都(イツ)国」勢力が威力を振るっていた。「厳(イツ)」とは武力に秀でていることを示し、大国主が別名「八千矛(やちほこ)神」と呼ばれ、干戈によって国々を治めていたことの表現に他ならない。

しかしこの厳奴(イツナ)と北部九州の海岸部から南へ勢力を伸ばして来た五十王国(大倭)とは、早晩、干戈を交える運命にあった。そして実際に戦闘になった。

これが後漢書も記す「倭国の大乱」で、ついに大倭が勝利し、厳奴の主たちは出雲に流され、一部の者たちだけが佐賀平野の西の山間部、現在の厳木(きうらぎ)盆地に留まることを許された。これが倭人伝に記載の「伊都(イツ)国」である。

この厳奴の残存勢力が伊都(イツ)国として存続を許されたのは、おそらく大陸の漢王朝時代に彼我の交流を通じて漢籍や外交に明るかったからだと思われる。だが、厳奴の大首長である大国主は現在の出雲に流されたと見る(イツナ→イヅマ→イヅモ)。先年、出雲地方で発掘された銅鐸の鋳型が佐賀平野東部の三津永田遺跡から見つかっているのは一つの考古学的証拠である。

(※八女の邪馬台国は、厳奴と大倭との間の戦乱に直接巻き込まれることなく無事であったが、北部九州の大倭によって保護国化され、監督(総督)の置かれている間は良かったが、「大倭」こと崇神・垂仁の五十王国が大和へ東征してしまうとたちまち南の狗奴国の侵攻を許すことになった。

その結果、2代目女王トヨの時に八女邪馬台国は狗奴国によって併呑されてしまう。トヨは辛くも九州山地を越えて落ち延び、宇佐地方に至り小国を安堵された。宇佐神宮に祭られる正体不明の「比女之神」こそがトヨであり、このトヨに因んで現在の大分県域が「豊の国」と呼称されたと考えている。)

【出雲と崇神・垂仁王権】

北部九州から出雲に流された厳奴の首長は八千矛神ことオオクニヌシであった。この神は出雲大社に祭られているが、出雲大社の本殿の向きが西なのは、元の本拠地である北部九州を忘れてはならぬという決意の反映だろう。

出雲大社の宮司は千家氏(中世の一時期から北島氏も神職を得ていた)だが、現在の宮司は千家尊祐氏で84代続いており、2世紀後半の倭国大乱の結果厳奴が出雲に流されて祭祀が始まったとすると現在まで84代約1800年の系譜ということになり、1代が22年ほどとなり、代数と年数に整合性が得られよう。

千家氏の始祖は天照大神の五男子の二番目「アメノホヒ」であるのは、北部九州の厳奴と大倭との戦いこそが「国譲り」だったことを端的に示している。高天原系の天つ神が、敗れた側の国つ神である大国主を祭り、二度と干戈を交えないようにするための方途として第一級のやり方である。

さてこの出雲には神宝(シンポウ=かむたから)があるという。

日本書紀によると、崇神天皇の60年7月に崇神天皇は次のように臣下に告げた。

<武日照命(タケヒナテルノミコト)が天から持参した神宝は出雲大社にあるというが、ぜひ見たいものだ。>

そこで矢田部氏の遠祖である武諸隅(タケモロスミ)を出雲に派遣した。

しかし、この時に神宝を管理していた出雲振根は筑紫国(九州)に出かけていて留守だった。ところが振根の弟の飯入根(イヒイリネ)は兄に相談もなく神宝を崇神王権に上納してしまった。

筑紫から帰って来た兄の振根は怒り心頭で、ついに弟を殺害した。

その事情を下の弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)と子のウカヅクヌは崇神王権に訴えたところ、王権側から吉備津彦(キビツヒコ)と武渟河別(タケヌナカワワケ)が派遣され、振根は殺されてしまう。

崇神王権はついに出雲を徹底的に叩く政策に出たようである。

厳奴(イツナ)は北部九州において宿敵として戦った相手だが、首長の大国主は生存を許されて葦原中国を天孫に譲り、自分は「百足らず八十隈手に隠れて侍らわん」と出雲の地を隠居の地として鎮まったわけだが、その出雲には「神宝」があるとして、それを差し出させることが最終の目的だったかのようである。

【出雲の神宝とは】

その神宝が崇神王権側に奪われ、当時の首長で神宝を管理していた出雲フルネが殺害されたことで、出雲では神祭が行われなくなってしまった。その時に丹波の氷上の人が「子どもが神がかって不思議な歌を唄いました」と朝廷に奏上したのだが、其の歌とは、

<玉藻の鎮め石 出雲の人祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御宝主。 山河の水泳(くく)る御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主。> 

意訳してみると、「水の中で藻が付着した石を出雲人が祭っている。本当の立派な鏡を押しのけてしまうような素晴らしい神。これこそが水底にある宝の中の宝だ。山川の水によって洗われている御魂が静かに居付いているような素晴らしい神。これこそが宝の中の宝だ。」となる。

前半の「宝の中の宝」までと後半の「宝の中の宝だ」までの二つの文は、同じ「宝の中の宝」を少し表現を変えて形容しているのだが、共通しているのは「宝の中の宝」が水中にあるということである。

また、その宝の貴重なことは、前半の文中の「本当の立派な鏡」を押しのけてしまう、つまり鏡よりも数段上の宝というほどだというのだ。

当時の貴重品は何と言っても祭祀の必須アイテムである「鏡・玉・剣」だろう。この中でも「鏡」こそは天孫降臨の際に天照大神が孫のニニギノミコトに「鏡を私の形代にしなさい」と言ったのであるから、最高の御神だったはずである。

しかしながら、それを上回る貴重な宝だというのである。

その宝を求めて崇神天皇は武諸隅を出雲に派遣し、その結果、神宝の管理者出雲フルネが筑紫(九州)に出かけていた留守の間に上納させることに成功したようだが、宝がどんなものであるかは不明であった。

ところが時代の垂仁天皇になったその26年8月、垂仁天皇は突然、物部十千根(モノノベトヲチネ)の大連に対して次のように言い出したのだ。

<「たびたび出雲に使いを遣って出雲の神宝を調べさせるのだが、どうもはっきりしない。お前が出雲に行って調べて来なさい。」

そこで物部トヲチネが出雲に出張し、調べて「これこそが出雲の神宝だ」と断定し、そう復命した。物部トヲチネはその神宝を管理することになった。>

これで出雲の神宝探しは一件落着したというわけだが、この時もまた出雲の神宝が鏡なのか玉なのか剣なのか、明確に記されていないのである。

出雲ではオオクニヌシが主祭神だが、オオクニヌシは高天原から出雲に天下ったスサノヲノミコトの6世の子孫であり、ならばスサノヲがヤマタノオロチから得た「草薙剣」こそが出雲で祭るべき至高の神宝のはずである。

それならそうと記されて何の不思議もないだろう。

ところがそのような記載はないのである。

【「漢倭奴国王」の金印こそが出雲の神宝か・・・】

父の崇神天皇は出雲の神宝を求めたが、得られず、子の垂仁天皇の時に改めて出雲の神宝を求めたが、これもどうやらはっきりしない。

そこで神宝探索の最初に戻ってみよう。

崇神天皇の派遣した武諸隅の時、神宝を管理していた出雲フルネは筑紫(九州)に行って留守だった――というのだが、朝廷から使者が派遣されるにあたっては突然やってくるのではなく、あらかじめ何らかの予約があってしかるべきだろう。

その予約がありながら、神宝を管理している肝心の出雲フルネが筑紫に行ってしまって留守をしていたということも通常なら有り得ない行動である。

私はそこに出雲の策略を見るのだ。つまりフルネは神宝が危ういとみて神宝を筑紫に持ち出し、そこに隠したと考えるのである。

九州北部には元来の土着倭人がおり、それを支配していたのがオオナムチことオオクニヌシの厳奴(イツナ)であった。その一国である博多奴(ナ)国は西暦57年に漢王朝に朝貢した。その結果得られたのが「漢倭(委)奴国王」の金印であった。

この金印は漢王朝の藩屏であることを物語るしるしだが、倭国として初めての「大国のお墨付き」であり、当時の倭人の国々のどこも持ち得ない最高の勲章なのであった。博多奴国を傘下におさめるのちの出雲こと厳奴(イツナ)にとっても同様であった。

ところがその後、約100年にして、糸島を本拠地とする五十(イソ)王国の崇神王権が次々に北部九州の倭国を傘下に「大倭」を形成すると、大国主の厳奴(イツナ)と「大倭」の両雄は戦端を開いた。

これが「倭国大乱」であり、後漢書に依れば「桓霊の間」すなわち後漢の「桓帝」と「霊帝」の統治期間(148年~187年)に起きた筑紫最大の戦乱であった。大国主の厳奴(イツナ)は敗れ、出雲に流されたことは上で述べたとおりである。

この時、厳奴(イツナ)は「漢倭奴国王」の金印を大倭に差し出さず、「神宝」として出雲に持参し、深く隠匿したのだろう。

それが崇神王権が大和に開かれ、しばらく経つと「あの漢王朝から貰ったという金印はどうなったのか」と過去を振り返るようになり、それは出雲にあるという疑いに発展し、ついに「神宝を探し出せ」という崇神の要求になったに違いない。

その一報を聞いた出雲フルネは金印を持って筑紫に下り、ゆかりの地である博多沿岸の志賀島の海岸の浅瀬に石の板囲いを設え、その中に金印を隠したのだろうと考えるのである。

まさに「水泳(かか)る」場所であり、もしかしたら出雲から元の本拠地である筑紫北部を奪還しようとして金印に魂を込め、海岸の浅瀬に置いたのではなかろうか。

時は移り天明4年(1784年)、当地は陸地となっており、そこを田んぼとして耕作していた百姓甚兵衛が排水路を改修していた折に金印を見つけたのであった。金印は実に1500年ほどの眠りから覚めたのである。これこそが「出雲の神宝」であろう。






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