鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

日南線・神話の旅②

2018-09-10 10:28:34 | 古日向の謎

青島が鴨着く島で、この島でホホデミと海神の娘トヨタマヒメが結ばれた結果生まれた皇子ウガヤフキアエズの誕生地が、ここから海岸沿いに30キロほども南に行った日南市の鵜戸神宮だというのには無理がある。

トヨタマヒメがお産の際に「元つ国(竜宮)の姿になるので覗かないで欲しい」と言って産屋を作ったのだが、作り終えないうちに「御腹堪え難くなって」生まれてしまい、ホホデミが隙間から覗いたらヒメは「八尋鰐(書紀ではサメ)」の姿になって苦しがっていて、ホホデミを驚かせた。

ヒメはもうこれまでと海中に帰り、産み落としたウガヤ皇子を妹のタマヨリヒメに託して渚に置いていってしまうのだが、そこが鵜戸神宮のある海岸窟だったという。トヨタマヒメは海中に戻る前に自らの乳房を岩窟内の岩に引っ付けて行ったので、今もなおその「お乳岩」からは水がしたたり落ちており、その水で練った「お乳飴」が妊婦や産婦へのお土産になっているそうなのだが、ここまでくるとなおさら無理だろう。

鵜戸神宮には申し訳ないが、かっては人跡稀れな海岸の絶壁を形成する奇岩と岩窟、その中に建つ色鮮やか秀麗な神社の自然美と人為の見事な融合には感じ入ることやぶさかではないが、神話への仮託(後付け)もここに極まれりという感じでしかない。

このような場所でどうやって新生児を育てられようか? 誰でも感じる疑問だろう。

ホホデミとトヨタマヒメが「鴨着く島」青島で結ばれて懐妊し、ウガヤ皇子を生むとすれば鵜戸神宮のようなところではなく、比較的遠浅であり現に海水浴場さえある向かい側の青島海岸沿いのどこかに「ウガヤ皇子誕生地」なる聖なる空間を設け禁足地として別宮扱いしておけばよかった。その方が神話に仮託するにしても一貫性があったろう。

青島駅から伊比井駅までは海岸沿いのコースだが、そこからさらに南の鵜戸神宮への海岸は山塊が海に迫って道路しか通じていないので、列車は西へ長いトンネルを抜けて山塊をくぐり、広渡川の流域に入る。

※この青島駅から伊比井を経て北郷(きたごう)駅までの車窓風景はまさに唱歌「汽車」の歌詞(今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るとぞ、思う間もなくトンネルの、闇を通って広の畑)そのものので、懐かしい風景が展開する。

さて北郷駅で降り、駅前からコミュニティバス「清流号」で北西に5キロ、約10分の乗車で下宿野の「潮嶽(うしおだけ)神社」に着く。

この神社に祭られているのは「ホスセリ(古事記ではホデリ)ノミコト」で、弟のホホデミ(古事記ではホオリ)と釣り針の所在をめぐって(別言すれば生業の是非をめぐって)争って敗れた天孫二代目三兄弟の長男で、隼人の祖ということになっている(三兄弟とはホスセリ=海幸彦、ホホデミ=山幸彦、ホアカリ=尾張氏の祖で、天孫二代目の正統はホホデミ)。

神社の宮司さんに一時間ほど話を伺う時間があったが、宮司さんによれば主祭神がホスセリ(隼人の祖)であり、常駐の神主がいて祭祀・祭礼を行っているのは南九州でもここ潮嶽神社のみだそうである。そういえば「隼人の本場・鹿児島」にも無い御祭神だ。

電車とは別に車では二度ほど日南海岸線沿いを走っているが、北郷町に入るのは初めてで、地図で潮嶽神社の位置を確かめたら北郷町自体も山の中であり、潮嶽神社は町の中心部からさらに北西の山中に入ったところにあったので、相当な山奥だろうと思っていたのだが、油津港にそそぐ広渡川がゆったりと近くを流れ、その上流らしからぬ流れが広々とした河谷を形成していたのは意外だった。

それでもホスセリは別名「海幸彦」なのであるから、海の近くならまだしもこんな山中になぜ祭られているのかが気になるところだ。

宮司さんによれば「弟との争いに敗れた兄のホスセリは満潮に乗り磐船(いわふね=頑丈な船)を操って潮を越して当地まで流れ着き、ここに宮居されたのが始めという。地名も「潮嶽の里」となり、宮居の故地に建立された神社も潮嶽神社となった。その時代は神武天皇の頃であると伝えられているという。

「満潮に乗って流れ着いた」という下りは、ホホデミ(山幸彦)が竜宮からもらってきた「潮満玉」「潮干玉」によって潮の上げ下げを自在に操られてしまったホスセリ(海幸彦)の逃避行が思い浮かぶ。

南九州から東征に出たのはホホデミ・ウガヤ・神武・タギシミミという天孫正統系の人々だったが、東征には参加せずに南九州に残った人々の正統はホスセリ(海幸彦)系だった。ところが唐新羅連合軍との海の会戦(白村江の戦い=663年)で完膚なきまでにやられた南九州鴨族はじめ九州全体の海の民(航海交易生業民)は半島の利権を完全に失い、列島内に逼塞せざるを得なくなった。

この海の民が敗残者として貶められ、律令制度下の公地公民(戸籍制度)・口分田(耕作民化)・仏教の国教化という足かせを受け入れざるを得なくなったのが奈良朝成立までの大きな動きで、これに対して北では蝦夷が反乱し、南でも隼人が大規模な反乱を起こした(720~721年)。

これによりますます南九州土着の人々は「化外の民」となり、「隼人の司」が置かれて王朝の特別監視体制下に入ることになった。今でこそ「薩摩隼人」と言えば、維新の功業者としてまぶしい目で見られることが多いが、当時は「」に等しかったのだ。

その日陰者の祖先であるホスセリ(海幸彦)は堂々と祭られるべき存在ではなかったにもかかわらず、ここ潮嶽神社では隼人がだった時代からずうっと存在し、祭祀が行われてきたのである。奇特と言わざるを得ない。

由緒書きに「南九州の総産土神」とあったが、天孫正系のホホデミ系の人々が南九州を去ったのちに残されたのがホスセリ系の人々であったわけで、橿原王朝を築いた正系と並ぶ王統が南九州にあったのだから、その祖先が「総産土神」であっておかしくはない。言いえて妙である。

※子供に「隼人」と名付ける親が後を絶たないが、隼人君に一生に一度は潮嶽神社を参拝させてもよいのでは? 

                   (日南線・神話の旅②終わり)

 

 


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