【大隅半島で最も古い塚崎古墳群】
大隅半島の肝属郡肝付町に所在する「塚崎古墳群」には、同じ古日向にある宮崎県宮崎市の「生目古墳群」と並んで最も古いタイプの前方後円墳が築かれている。
生目古墳群は古墳の宝庫といわれる宮崎県の中でも、築造年代の古さと規模の大きさで突出している。前方後円墳が8つあり、そのうち3つが墳丘長100メートルを超えている。
1号墳(136m)、3号墳(143m)、22号墳(101m)がそれで、とくに1号墳は4世紀初めと言われ、宮崎県内の前方後円墳では最初に全長が100mを超えた古墳として名高い。
それに比べると塚崎古墳群内の前方後円墳は規模として最大の「花牟礼古墳(40号墳)」が墳丘長66mであるから、生目古墳群の前方後円墳の長さの半分程度である。
しかし築造年代の古さではそう変わりはない。最も古いと考えられている花牟礼古墳は後円部に比べて前方部の高さが低く、しかも幅が狭い古式古墳の形態を持ち、おおむね4世紀初頭の築造と推定されている。
この古墳の主は、塚崎を含む肝属平野部と肝属川河口域を含む地域を支配した首長であったとみられる。
わたしは鹿児島県と宮崎県の両地域を「古日向」と名付け、またこの領域は魏志倭人伝に登場する「投馬国」そのものであると考えている。
倭人伝によれば、投馬国の王を「彌彌(ミミ)」といい、女王を「彌彌那利(ミミナリ)」といった。
そして記紀によれば、古日向は「鴨着く島」であり、そこで皇孫ホホデミと竜宮の姫になぞらえられたトヨタマヒメとのロマンスがあり、生まれた子がウガヤフキアエズであった。このウガヤフキアエズとトヨタマヒメの妹タマヨリヒメとの間に生まれたのが神武天皇であった。
さらに神武天皇が吾平のアイラツヒメ(古事記では阿比良ヒメ、書紀では吾平津媛)を娶って生まれたのが、ここから問題の箇所となるが、古事記ではタギシミミとキスミミの2皇子、書紀ではタギシミミのみであった。
タギシミミは「神武東征」に参加し、伯父のイツセノミコトやイナヒノミコト、ミケヌノミコトたちが脱落する中、神武とともに橿原王朝を樹立するが、大和で生まれた腹違いの弟・タケヌマカワミミによって誅殺されてしまう。
この誅殺のストーリーは、古日向が天武時代に指向された「大和王権列島内自生史観」による中央集権化、すなわち法律(律令)と仏教の国教化による統治に反発したがゆえに最初期の王権を樹立したにもかかわらず、王化に逆らうものとして貶められたことに起因する。(※この点については当ブログのカテゴリー「記紀点描」の綏靖紀に詳しい。)
【キスミミの後裔が塚崎古墳群の主】
さてこの塚崎古墳群を築いたのは当地の豪族であるが、その豪族の出自は投馬国王であったキスミミ(岐須美美)で、キスミミ(岐須美美)については先のブログ「塚崎古墳群と東田遺跡」で述べたように、肝属川河口の港(岐=ふなと)を擁する肝属ラグーンを支配地とした「美美(ミミ=投馬国王)」だろう。
肝属川河口のラグーンは大陸から鴨をはじめ多くの渡り鳥が蝟集する所で、鴨はまた「鴨船」の象徴でもあり、南九州から北部九州、瀬戸内海、遠くは朝鮮半島への水運の一大拠点でもあった。
ここを支配していたのが兄のタギシミミが「神武東征」したあと、母のアイラツヒメと現地に残った大隅最大の首長キスミミ及びその一族であった。
わたしはタギシミミすなわち投馬国王による「神武東征」の年代を中国の史書『魏志倭人伝』や『後漢書』に記録されている「桓帝霊帝の時代(西暦148年~188年)に、倭国で大きな争乱があった」という西暦140年代から180年代の頃と考えているので、4世紀初頭以降の築造という塚崎古墳群に眠る被葬者はキスミミ本人ではなくそれより100年から120年くらい後の子孫だと思う。
ただしここで次の疑問が浮かんでこよう。
――古事記には神武天皇の皇子としてタギシミミとキスミミの2皇子が書かれているが、日本書紀には神武天皇の皇子としてはタギシミミだけでキスミミは書かれていない。書かれていない人物を肝属川河口一帯の豪族と考えていいのか――という疑問である。
まず古事記だが、これは編著者が太安万侶であり、彼は橿原王朝のカムヤイミミという投馬国(古日向)由来の名を持った皇子の末裔であるので、書き落とすことはしなかったのだ。
その一方で日本書紀の方は編集者の代表が舎人親王であり、この人は天武天皇の皇子であったから南九州の天武王権への反発を敵視して「王化に属さぬ蛮族」という視点を持っており、南九州でその巨魁であったキスミミの一族の存在を抹消したのだ。
そのキスミミの一族で天武王権が企てる列島全域を法令(律令)による中央集権的支配に大反発をしたのが「肝衝難波(キモツキナニワ)」という大隅半島の首長であった。
【キスミミの後裔・肝衝難波の反乱】
天武王権(672~682年)の下では九州南部や南島への調査団が派遣され、南九州人が隼人と呼ばれ、またトカラや奄美の人々も大和へ朝貢に出る時代になっていた。
隼人とは天武王権時代に列島の南部を守る霊長の「朱雀」になぞらえて王権側がそう名付けた呼称だが、白村江の海戦で壊滅した九州の海人たちの内、九州南部(鴨着く島)の古日向域の海人「鴨族」にとって本当は苦々しい名付けであった。
さて列島を中央集権で支配しようとした天武王権は、九州南部の古日向(鹿児島県+宮崎県)域を3つの国に分割しそれぞれに「国司」を派遣して統治しようとした。
古日向を薩摩国、大隅国、日向国の3か国に分割し終えたのが713年(和銅6年)の4月のことであったが、大隅の雄族キスミミの一族はこれに異議を唱えた。
『続日本紀』にこの反乱について具体的な記述はないが、同じ年の7月に時の元明女帝(707~715年)は次の詔を出している。
<授くるに勲級を以てするは、功有るによる。もし優異せざれば、何を以てか勧奨せん。今、隼賊を討てる将軍ならびに士卒等、戦陣に功有るもの1280余人に宜しく労にしたがいて勲を授けん。>
功労ある将士に対する勲位を授けるという詔だが、何の戦いなのかは直接記録にはなく、ただ「隼賊」(隼人の賊)を討った戦いであったことが分かるだけである。
戦闘の模様は一切書かれていないのだが、功のあった将士が1280名もいたという点からかなり大規模な戦いであったことが推測できる。
わたしはこの戦いで死んだのが肝衝難波という当時の大隅の首長であったとみる。そしてこの人物はキスミミの苗裔であり、「吾こそは大隅に残ったかの橿原王朝を築いた神武(タギシミミ)の後裔だ。大隅は我らの王国である。大和王権の勝手にはさせぬ」という自負を持っていたに違いない。
しかしついに大隅のキスミミ王権は敗れ、天武朝以降に指向された列島中央集権国家の一部に組み込まれた。
天武天皇の皇子である舎人親王が日本書紀を編纂し終えたのは720年(養老4年)であったが、その7年前の713年にこのキスミミの後裔である肝衝難波が王権に楯突いたことにより祖先のキスミミのことが抹消されることになった。
古事記(712年に完成)には書かれていたキスミミ皇子のことが日本書紀には書かれていないのは、そうした理由があったからである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます