縄文ミュージアム
霧島市には国分郷土館(旧国分市)、隼人史跡館、隼人歴史資料館(旧隼人町)があり、隼人の歴史に関しては多くの伝承とともに見過ごせない所である。
昨日は猛暑の中だったが、以前から見たいと思っていたホテル京セラ内にある「縄文ミュージアム」と兼ねて行ってみた。
東九州道の国分インターで降り、国道10号線を隼人町方面に数キロ走り、霧島温泉郷への道をとって約2キロ、大きな円筒形のホテルが聳え建つ。
本館と別館を繫ぐ渡り廊下、というには長さが30mはあり、幅も高さも4mはあろうかという規模の一直線の施設の片側を縄文遺跡の展示に当てている。
ホテルの宿泊者や利用者でなくても無料で見られるのは有難い。
ただ展示は常設なのだろうか、鹿児島の縄文と言えば同じ国分市の上野原遺跡出土の早期の遺物を中心に展示してあるのかと思っていたのだが、他の縄文時代、特に2021年に世界文化遺産となった「北海道・北東北の縄文遺跡群」の展示がクローズアップされていたのは意外だった。
これは青森県の「是川石器時代遺跡」で、是川遺跡と言えば「朱の漆を使った器物」が出土したことで有名だ。
面白いのが、ガラスケース内の左端に見える二本の「楽器」で、角状の先端に糸らしきものを取り付けて弾いて音を出す琴の一種らしい。
北海道・北東北の縄文遺跡群の登録された遺跡の総数は、北海道が6つ、青森県が8つ、岩手県が1つ、秋田県が2つの合計17遺跡が対象となっており、このミュージアムでは是川遺跡の他に、同じ青森県の「三内丸山遺跡」と秋田県の「大湯環状列石(祭祀)遺跡」とが展示されていた。
その他にも各地の縄文遺跡が取り上げられていたが、地元霧島市の上野原遺跡の物を除くと、残りの縄文遺跡の出土地はほぼ中部(長野・石川)より東の物ばかりであった。
たしかに縄文時代と言えば東日本に多くの遺跡があり、発掘もされていて出土品の形象も多種多様なので「縄文時代は何といっても関東と東北だ」というイメージが定着しており、西日本の縄文時代は軽く扱われる傾向にある。
しかしこの霧島市上野原で発掘された縄文早期の土器群は「縄文というより貝文土器である」と発掘者の誰かが言っていたように、中期以降の「縄目文様」とは一線を画している。
しかも約10000年前後と古い。縄文中期より3000年以上も前に南九州では特有の土器(壺型を含む)を創造しており、東日本の縄文文化とは一味も二味も違った形象である。
古さでは青森県の「大平(おおだい)丸山遺跡」の土器が16000年前だそうだが、この16000年前と縄文中期の6000年前との隔たりは実に1万年である。この1万年の間、東日本では人々はどうしていたのだろうか?
また鹿児島では上野原遺跡が10500年くらい前から始まり、7500年前の鬼界カルデラの大噴火によって壊滅したとされるが、その一部は海に逃れるかして生き延びたと思われるし、上野原遺跡の始まる前の11500年に起きたという桜島大噴火(現在の桜島の基礎が噴出した)の前に南九州に暮らしていた人々の痕跡は、この桜島火山灰によって埋もれてしまったのかもしれない。
南島の種子島からは約3万年前の生活遺跡が発掘されているので、鹿児島本土でも同様の時代の遺物が桜島火山灰層の下に眠っているかもしれない。
国分郷土館
ホテル京セラからほぼ東方向へ5キロほどで国分高校に至るが、ここは島津家の16代当主義久が領有していた「舞鶴城」の跡地で、昔をしのぶ門構えの前を通り過ぎ、そのまま前方の丘に登っていくと最上部にあるのが「城山公園」で、観覧車のある遊園地となっている。
国分郷土館は遊園地より一段下にある。一階建てだが、鉄筋コンクリート造りのがっしりした建物である。
中に入ると靴を脱いでスリッパになるが、入ってすぐ右手が「資料室」で、長い廊下の向こうが「民俗資料室」である。
資料室に入ってしばらくすると館長(もしくは管理人)らしき人から案内を受け、見て回ったが、ここには出土の土器の類はなく、中心は国府(大隅国府)関連であった。
国府の跡地とされる国分市立向花(むげ)小学校の建設中か改築中かに発見された「三環頭太刀」が目玉であった。
この類の太刀は半島由来ということで、この太刀を手元に置いていた(墓に副葬した)のは国府の主、つまり大隅国司だろうと考えられている。半島由来のこの太刀はまず大和王権の府庫に入り、国司に任命された者に賜与されたのだろう。
逆にこの太刀の発掘によって、向花小学校界隈に国府が存在したというのが証明された面もあった。
展示室の中には何と「調所広郷」が使用していた太刀と脇差(小太刀)があったのには驚いた。
説明によると、調所家は古くからの現鹿児島神宮の社家の一流で、戦国期に島津氏によって圧迫されて逃れたのだそうだ。鹿児島神宮への寄進領は当時島津氏に次ぐ2500町もあり、その意味では島津氏の敵でもあった。
調所広郷は島津26代重豪に見出されて茶坊主から出世を果たし、孫の斉興時代には家老職まで上り詰め、放漫財政だった鹿児島藩の財政立て直しに成功するのだが、幕府によってご禁制の唐物輸入の咎めを受け自害している。
その一方で五大石橋などの建設も行っており、単なる倹約家ではなかった。一説によると斉興と開明藩主斉彬との間の確執に翻弄されたのだという。
民俗資料室では何といっても、止上(とがみ)神社の王面と神王面の展示が一大特色である。
止上(とがみ)神社の創建ははっきりしないが、もともとは現地の隼人がはるか後ろに聳える「尾群(おむれ)山」が神の宿る山として崇拝されていたのだが、のちに社殿が建てられたのだという。
止上神社の現在の祭神は鹿児島神宮と同じ「ヒコホホデミ、トヨタマヒメ」という、皇室の祖先だが、現地隼人は単純に山の神だったのかもしれない。
奈良時代の初めに起きたいわゆる「隼人の反乱」(719年~720年)で朝廷軍に敗れた現地隼人はそれ以降、「祟りを為すから」と、厳しい表情の王面と神王面を象徴とした神幸祭が行われるようになったという。
鼻が高く、目力を極限にまで表現した「神王面」。隼人の怨霊を制圧するためだろうか。
宇佐神宮では隼人の怨霊をニナに移して海に逃すという儀式を行っており、これが「ホゼ祭」(「浜下り」)の起源だという。
その他珍しいところでは「青葉の笛」の伝承がある。
天智天皇が南九州を巡錫していた時に、国分の北東から流れ出る郡田川の上流で珍しい竹の一種「ダイミョウ竹(コサン竹)」を進呈されたが、節と節の間が長いので笛にしたところ良い音色が出た。そこで天皇が都に帰った後も青葉竹を奉納するようになったというのだ。
天智天皇は間違いなく九州には到来している。
しかし母の斉明天皇が朝倉宮で亡くなり、半島の百済が滅亡し、それどころか救援に行った数万隻という軍船が壊滅したので、唐新羅から追われる身となった。
その時点では九州から引き揚げたに違いなく、もし南九州にやって来たとすれば、朝倉宮という対新羅戦の大本営に着いて間もない頃だろう。南部九州に新羅戦への健児を求めて来たのではないだろうか。
いずれにしても国分の長い歴史が垣間見える伝承である。
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