今日は7月30日、あと一日を残して7月も終りますね。天気予報では、台風5号の影響を受け、九州から西日本にかけ大雨の警戒が必要な地域があるとのことでしたが、こちら宇部では朝からどんよりと曇って今にも雨が降りそう。だからか気分が悪くなりそうなくらい湿度が高い。しかし、結構強い風が吹いて…これも台風の影響なら雨でも降ってくれるといいのにと…でも、結局は降りませんでした。
さて、本日は第5土曜日。だったら予定なしでのんびりとと思ったもののやるべきことがたくさん溜まっていて、どれから手を付けましょう。ではブログから片付けるとしますか。
この7月30日というのは、歳時記を見ると歌人・小説家の伊藤左千夫、同じく小説家の幸田露伴、谷崎潤一郎の3人の文豪の忌日になっています。左千夫は元治元年(1864)千葉県生まれで、大正2年(1913)48歳没。露伴は慶応3年(1869)に江戸で生まれ、昭和22年(1947)80歳没。潤一郎は明治19年(1886)の東京生まれ、昭和40年(1965)79歳没。
歳時記には晩夏として、「左千夫忌」・「露伴忌」(「蝸牛忌」とも)・「谷崎忌」(「潤一郎忌」とも)がありました。その例句として…
左千夫忌を昨日に矢切の渡しかな 大井戸千代
雑巾バケツに水は六分目露伴の忌 三木敬子
老いてこそ姉妹美し谷崎忌 三木敬子
みると、後の2句は同じ作者の作品。はて?三木敬子さんってどんな方かしらと興味が湧いて調べてみると…次のような記事が見つかりました。
『我が庵は天城おろしの風の宿』 著者:三木敬子・四六判上製・発行:2004年2月・光陽出版社
★孤独と静寂に包まれた独居の庵。重症筋無力症に悩まされる著者は天城高原の仙女となり、その難病を奇跡的に克服しつつある。俳句と文で描かれた仙女生活と自然の移ろいは生きることの確かな喜びを伝える。風と木々、雪と星夜、野鳥と野生動物、草花、そして人…。孤独の中から生まれた珠玉の俳句エッセイ。
どうも三木敬子が本名で、天城仙女というのが俳号らしい。それが著者名になっているのもありました。もし、この方の句でなかったとしたら…心から謝ります。ゴメンナサイ!
ではなぜこれらの句に目が留まったのかというと、最初の「左千夫忌」の句は、以前上京した時柴又を案内して貰い、この〝矢切の渡し〟を舟で対岸へ渡り、〝野菊の墓〟の小径を歩いたことがあったからなんです。もう何年前になるのかしら、懐かしい!
「谷崎忌」の句は、恐らく潤一郎の小説『細雪』からの発想でしょう。映画も見ましたものね。
中で一番ハッと心に響いたのは、「露伴忌」の句でした。
それは、高校の国語の教科書に載っていた幸田文の随筆、確か『父・こんなこと』の「水」の中の、掃除をするくだりだったでしょうか。その描かれている場面を今でもよく覚えています。それが〈雑巾バケツに水は六分目〉という言葉からすぐ連想できたのです。
その文とは…
―バケツには水が八分目汲んであったが、「どうしてどうして、こんなに沢山な水が自由になるのか」と六分目にへらされた。小さい薄べりを持ってきて廊下に敷き、その上にバケツを置く。
「いいか、はじまるぞ、水はきついぞ。」―
―「うちの廊下を御覧、どう思う」というから、黒く光っていてなかなかいいと云ったら、「よくはない、下の上か中の下くらいだ。こういう光りかたはよくない」と云う。「おまえになぜ黒いかわかるだろう」と訊くから、木が黒くなる木なんだろうと云ったら、上を向いて笑われ、「そんなやつあるもんか。長年なすくったぼろ雑巾の垢のせいだ。結構な物を知らない困った子だ」とあわれまれた。―
―「水のような拡がる性質のものは、すべて小取りまわしに扱う。おまけにバケツは底がせばまって口が開いているから、指と雑巾は水をくるむ気持で扱いなさい、六分目の水の理由だ。」すくない水はすぐよごれるから度々とりかえる、面倒がる、骨惜みをするということは折助根性、ケチだと云う。―
これを読むと、皆さんもウ~ンなるほどと思うでしょう。
幸田文さんの実母は幼い頃に亡くなり、継母は家事一切できない人だったとか。それで露伴が母親代わりに文さんをしつけたのだそうです。そのしつけ方には、道理が通っていて、何事も家事の所作には〝美しさ〟がなければならない、効率的に事が運ぶように工夫することも必要だとも。
とにかく文さんへの露伴のしつけ方はとっても面白かったです。それは当然作者の表現力の巧みさにもよるのですが、しかし、露伴の理屈にはなるほどと唸らせられるほどの説得力があって…それはひいては文さんの父親の見方に左右されるものかとも思います。まるで屁理屈とも思えるような言い草でも〝お父さんの言うことは間違いがない〟と思う文さんの父親崇拝の…今でいうならファザコンとでも言えるような感情ですかね。しかし、それはいい意味でのファザコンで、根底に父への心からの尊敬と愛情があったからでしょう。
生徒達に教えるというより私自身学ぶことが多くて、とっても好きな教材でしたから、今になっても忘れられないのです。そういえば私もあの頃は何にでも必死だったような…いや、いや、今でも必死ですよ…特に俳句には、ねッ!
写真は、〝フウセントウワタ〟の花と実で、季語にはまだなっていません。ハリセンボンのようなとげのある果実がユニークな観賞用のトウワタ(唐綿)です。とげといっても鋭いものではなく、柔らかい突起で、庭で楽しむほか、切り花やドライフラワーにも利用されています。葉腋から花柄を伸ばし、反り返った花弁をもつ乳白色の花が集まり、下向きに咲きます。紫色の副花冠には蜜がたまるので、アリが寄ってきます。果実が成熟すると縦に裂け、ワタというよりもむしろシルクのような冠毛のついたタネが飛散するそうですが、それはまだ見たことがありません。
忌日の句は余程親しいか、その人に対する造詣が深くなければ詠むなと言われていました。
確かに名前しか知らない人の忌日では、〇月〇日ということだけの季語になってしまいますものね。
〈感性と論理の境目〉…難しい問題ですが、詩歌というのはどちらかというと感性に偏ってくるかと…
しかし、ただ感性だけではその人個人のもの。
するとそれを裏付けるだけの論理も必要かと。でも、それが出過ぎると嫌がられますし、感性だけだと甘いと言われ…。
要するにその境目が重要になってくるのですかね。
いや懐かしさかな
よく分からなければ詠めないな
>雑巾バケツに水は六分目露伴の忌 三木敬子
解説されると分かってくるし、良さも分かってくな
感性と論理の境目
感性だけでは喜怒哀楽になっちゃうか