いささか古い新聞記事(2016年5月)ですが、知人から紹介された興味深い記事です。
Corriere della sera 3 maggio 2016 (modifica il 3 maggio 2016 | 08:11)
「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」イタリア最高裁の判決とは。
まるで「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンのようなストーリー。
«Ha rubato per fame, non è reato»
La sentenza che assolve il clochard
La Cassazione decide di non punire il giovane che aveva portato via würstel e formaggio, per un valore di 4 euro, dagli scaffali di un supermarket. Per questo
era stato denunciato. Una storia che pare raccontata a Dickens o Hugo
「彼は飢えゆえに盗みをはたらいたのであり、これは犯罪ではない。」
イタリア最高裁は、スーパーマーケットで4ユーロのソーセージとチーズを盗んだ青年に無罪を言い渡した。この決定を受け、青年は無罪放免となった。このまるでディケンズやビクトル・ユーゴーのような物語を以下に紹介しよう。
まさにディケンズやビクトル・ユーゴーが描いた、無慈悲な社会の歯車の中で弱い者たちが虐げられていた19世紀の物語のようだ。しかし、これは紛れもなく、今日イタリア最高裁がだした判決なのだ。犯罪に関する第5章 判決18248号。盗みが常に犯罪とされるべきではない。その犯罪がどうして行われたかによって判断されるべきだと。
イタリアではいまでは100人に16人のひとが、充分な1日の食事をとれないという危機や貧乏ゆえに最終的に犯罪に手を染めている。私たちはかってあった橋の下で飢えて死ぬと言うような路上の死はなくなったものと思っていたがそんな非情へ後戻りするような状況がもしイタリアで急速に増えているとすれば、イタリア最高裁のこの判決はその状況を考慮したものだ。
ロマーン・オストリアコフは英雄気取りではない
青年の名前はロマーン・オストリアコフ。彼はこの苦しい時期の代表や英雄を気取っていたわけではない。彼がスーパーで1箱のグリッシーニの支払いのために並んでいたときに、ポケットにわずか4ユーロ7セントの1本のソーセージと2切れのチーズを入れていたのは、本当に腹を空かし、ただ生き延びるために、ただ飢えの苦しみから逃れたいためだったのだ。(読者の皆さん、しっかり読みましたね。これが年600億ユーロの買収事件が起る国で、3回の裁判を経てようやく「起った事実は犯罪を構成しない」と明言されたということが重要なポイントなのです。)
しかし、彼が盗みをしたのはこれがはじめてではなかった
ロマーンは意図にかかわらず、やがて持てる者と持たぬ者の世界的な闘いのエピソードのひとつとして記憶されることになるだろう。物語とはそんなものだから。かってRosa Parksがひとりの白人に席を譲ることを拒否したとき、それが人種差別との闘いの1ページになるとは、彼女でさえ想像をしていなかっただろう。彼女の闘いは、De Andreの有名な言葉、「人が飢えゆえに盗みをしてもそれは犯罪ではない」を知らなかったジェノバの裁判官たちによって、1審と2審では深い判断が為されない判決が下された。スーパーで1人の正義感にあふれた客に通報され捕まったロマーンは同様の前科があった。確かに、彼が盗みをはたらいて捕まったのははじめてではない。盗みは確かに悪いことだ。しかし、飢えによる胃けいれんは最悪だ。彼はそうだと考えたに違いない。しかし、今回裁判官は1つの教訓になる決定をした。2015年2月12日、裁判所は彼に6ケ月の懲役と100ユーロの罰金を科した。かわいそうな事にロマーンは控訴する状態でもなかったし、裁判もこれで終わると思われた。しかし、まさにビクトル・ユーゴーの物語のような出来事が起ったのだ。検事総長のAntonio Lucisanoが動いたのだ。判決を軽減するために最高裁に異議を申し立てたのはまさしくこのAntonio Lucisanoだったのだ。Lucisanoは、ロマーンが犯したのは盗みではないと主張、ロマーンはスーパーのドアから外に出る前に拘束されたのだから、窃盗未遂だと。第5刑事主審裁判官(?)のMaurizio Fumoと報告事務官(?)のFrancesca Morelliもこの要求を受け入れ、判決をすぐに覆した。すなわち、「犯行者の状況と商品の盗みをはたらいたという環境は、彼が食料を緊急に必要とした状況に対応するためにわずかばかりの食べ物を手にしたことを意味する」と。
捨てられる42キロの食べ物
最終判決が言い渡され、物語は終わった。さて、私たちにはもはや、腹を空かした泥棒(それは貧しい年金生活者であったり、絶望の移民たちだったりするかも知れない)のレシートの立て替えをしてくれるようないい警察官などいない。私たちはもう一つのこんな判決からもほど遠い状況にある。それは、フロジノーネの町で2年前にあった事件で、自分の子どもたちのために10ユーロの鶏肉の盗みをはたらいた女に無罪を言い渡したというもの。裁判のレベルは違うかもしれない。戦後のネオレアリズモのように、あの暗い時代のように、生きていくために手に入れられるものは引ったくってでも手に入れる、そんな時代に戻っているのだろう。商業者連合(Confcommercio)は、窃盗犯罪の20%以上が飢えを理由としていると警鐘を鳴らす。統計によれば、毎日新たに615人が貧困に陥っている。法律は、私たちが共に生きていくための体制を守るものなのだから、裁判所が事実を公的な記録に残さないと言うことは考えられない。こうした判決を本気で非難する者の愚かで辛辣な批判を止めさせなければならない。 飢えに苦しまなくてもよいわれわれ1人ひとりは、無頓着や満腹や飽きたからと言って毎年42キロの食べ物を無駄にしている。もしも、ゴミ箱を開ける時、ほかの貧しい人々のことを頭に思い浮かべる人が1人でもいれば、ロマーンの人生も価値あるものに違いない。
(原文)
https://www.corriere.it/cronache/16_maggio_03/genova-ha-rubato-fame-non-reato-sentenza-che-assolve-clochard-c3b57e3a-10f3-11e6-950d-3d35834ec81d.shtml
Corriere della sera 3 maggio 2016 (modifica il 3 maggio 2016 | 08:11)
「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」イタリア最高裁の判決とは。
まるで「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンのようなストーリー。
«Ha rubato per fame, non è reato»
La sentenza che assolve il clochard
La Cassazione decide di non punire il giovane che aveva portato via würstel e formaggio, per un valore di 4 euro, dagli scaffali di un supermarket. Per questo
era stato denunciato. Una storia che pare raccontata a Dickens o Hugo
「彼は飢えゆえに盗みをはたらいたのであり、これは犯罪ではない。」
イタリア最高裁は、スーパーマーケットで4ユーロのソーセージとチーズを盗んだ青年に無罪を言い渡した。この決定を受け、青年は無罪放免となった。このまるでディケンズやビクトル・ユーゴーのような物語を以下に紹介しよう。
まさにディケンズやビクトル・ユーゴーが描いた、無慈悲な社会の歯車の中で弱い者たちが虐げられていた19世紀の物語のようだ。しかし、これは紛れもなく、今日イタリア最高裁がだした判決なのだ。犯罪に関する第5章 判決18248号。盗みが常に犯罪とされるべきではない。その犯罪がどうして行われたかによって判断されるべきだと。
イタリアではいまでは100人に16人のひとが、充分な1日の食事をとれないという危機や貧乏ゆえに最終的に犯罪に手を染めている。私たちはかってあった橋の下で飢えて死ぬと言うような路上の死はなくなったものと思っていたがそんな非情へ後戻りするような状況がもしイタリアで急速に増えているとすれば、イタリア最高裁のこの判決はその状況を考慮したものだ。
ロマーン・オストリアコフは英雄気取りではない
青年の名前はロマーン・オストリアコフ。彼はこの苦しい時期の代表や英雄を気取っていたわけではない。彼がスーパーで1箱のグリッシーニの支払いのために並んでいたときに、ポケットにわずか4ユーロ7セントの1本のソーセージと2切れのチーズを入れていたのは、本当に腹を空かし、ただ生き延びるために、ただ飢えの苦しみから逃れたいためだったのだ。(読者の皆さん、しっかり読みましたね。これが年600億ユーロの買収事件が起る国で、3回の裁判を経てようやく「起った事実は犯罪を構成しない」と明言されたということが重要なポイントなのです。)
しかし、彼が盗みをしたのはこれがはじめてではなかった
ロマーンは意図にかかわらず、やがて持てる者と持たぬ者の世界的な闘いのエピソードのひとつとして記憶されることになるだろう。物語とはそんなものだから。かってRosa Parksがひとりの白人に席を譲ることを拒否したとき、それが人種差別との闘いの1ページになるとは、彼女でさえ想像をしていなかっただろう。彼女の闘いは、De Andreの有名な言葉、「人が飢えゆえに盗みをしてもそれは犯罪ではない」を知らなかったジェノバの裁判官たちによって、1審と2審では深い判断が為されない判決が下された。スーパーで1人の正義感にあふれた客に通報され捕まったロマーンは同様の前科があった。確かに、彼が盗みをはたらいて捕まったのははじめてではない。盗みは確かに悪いことだ。しかし、飢えによる胃けいれんは最悪だ。彼はそうだと考えたに違いない。しかし、今回裁判官は1つの教訓になる決定をした。2015年2月12日、裁判所は彼に6ケ月の懲役と100ユーロの罰金を科した。かわいそうな事にロマーンは控訴する状態でもなかったし、裁判もこれで終わると思われた。しかし、まさにビクトル・ユーゴーの物語のような出来事が起ったのだ。検事総長のAntonio Lucisanoが動いたのだ。判決を軽減するために最高裁に異議を申し立てたのはまさしくこのAntonio Lucisanoだったのだ。Lucisanoは、ロマーンが犯したのは盗みではないと主張、ロマーンはスーパーのドアから外に出る前に拘束されたのだから、窃盗未遂だと。第5刑事主審裁判官(?)のMaurizio Fumoと報告事務官(?)のFrancesca Morelliもこの要求を受け入れ、判決をすぐに覆した。すなわち、「犯行者の状況と商品の盗みをはたらいたという環境は、彼が食料を緊急に必要とした状況に対応するためにわずかばかりの食べ物を手にしたことを意味する」と。
捨てられる42キロの食べ物
最終判決が言い渡され、物語は終わった。さて、私たちにはもはや、腹を空かした泥棒(それは貧しい年金生活者であったり、絶望の移民たちだったりするかも知れない)のレシートの立て替えをしてくれるようないい警察官などいない。私たちはもう一つのこんな判決からもほど遠い状況にある。それは、フロジノーネの町で2年前にあった事件で、自分の子どもたちのために10ユーロの鶏肉の盗みをはたらいた女に無罪を言い渡したというもの。裁判のレベルは違うかもしれない。戦後のネオレアリズモのように、あの暗い時代のように、生きていくために手に入れられるものは引ったくってでも手に入れる、そんな時代に戻っているのだろう。商業者連合(Confcommercio)は、窃盗犯罪の20%以上が飢えを理由としていると警鐘を鳴らす。統計によれば、毎日新たに615人が貧困に陥っている。法律は、私たちが共に生きていくための体制を守るものなのだから、裁判所が事実を公的な記録に残さないと言うことは考えられない。こうした判決を本気で非難する者の愚かで辛辣な批判を止めさせなければならない。 飢えに苦しまなくてもよいわれわれ1人ひとりは、無頓着や満腹や飽きたからと言って毎年42キロの食べ物を無駄にしている。もしも、ゴミ箱を開ける時、ほかの貧しい人々のことを頭に思い浮かべる人が1人でもいれば、ロマーンの人生も価値あるものに違いない。
(原文)
https://www.corriere.it/cronache/16_maggio_03/genova-ha-rubato-fame-non-reato-sentenza-che-assolve-clochard-c3b57e3a-10f3-11e6-950d-3d35834ec81d.shtml