今日はいつもより早く、夜7時頃には帰宅できたので、部屋で一人、久しぶりに自分のアルバムの楽曲をiTunesで聴きながら、その曲を書いた時の事を思い出していました。
(普段はちょっと照れくさくて、あまり自分の曲をゆっくり聴くことはありませんが。笑)
ものづくりをしている人達が、お客さんに喜んでもらいたいと思って、良い商品を作っているのと同じように、僕たち音楽をやっている人間も、誰かの顔を思い浮かべながら曲を書いたりします。
2月にリリースしたキボウノヒカリというアルバムの「生まれ変わっても逢いましょう」と、「キボウノヒカリ」は父親に聴いて欲しくて書いた曲。
「ありがとう。そしてさようなら。」は、父の葬儀で父親を送る為に書いた曲。
父に聴いて欲しかった2曲は、父の最期の誕生日となった今年2月3日に、病室で父に聴いてもらいました。
前者は父親に「ありがとう」という気持ちを、後者は父になったつもりで、「オヤジはこの先もずっと僕の中で生き続けて続けていくから。人間はそうやってこれまでも、そしてこれからも命のバトンリレーをしていくのだから」と、そんな思いを込めて書いた曲です。
誰かを思って書いた曲が、その人に聴いてもらえるだけで、とても幸せなことだと思います。
それに加えて、その思いが相手にうまく伝わるかどうかなんて、本当に奇跡みたいなものだと思ったりもします。
父に聴いて欲しかった曲に、自分が込めた思いが伝わったかどうか、正直わかりません。
こんな気持ちで書いたのだと、口に出した瞬間に、その“思い”が砕け散ってしまうような気がして、口にすることがためらわれ、父にもただ「聴いてみてよ」と言っただけでした。
このブログにも歌詞をアップロードしてありますが、両曲共に命の終わりを感じさせるフレーズがあり、その曲を生前に父に聴かせたことが良かったかどうかも、正直わかりません。
(「ありがとう。そしてさようなら。」は曲の性質から、生前父には聴かせず、父の亡骸の前で何度も何度も流しました)
でも哀しい時に涙がこぼれるように、嬉しいときに笑顔がこぼれるように、自分の中からこぼれおちた音楽は、その時の自分という人間の一部なんだと思っています。
良いとか、悪いとかはではなくて、それがその時の自分自身なんだと思います。
誰かを思って書いた曲が、その人に聴いてもらえたことは、とても幸せなことだと、自分は思っています。