周りに外敵が居ないと安心してか、長時間羽繕いに専念します。
人の記憶は曖昧である。特に過ぎ去ってしまった過去は、鮮烈な事柄でない限り、記憶から消滅してしまっているが、幾つかのキーワード的な言葉や、関連することから紐解くことが可能な場合もある。最近、書籍棚を整理していたところ、十数年前に頂いた祖母が書き留めた自叙伝なるものが出てきた。既に鬼籍となった叔父が清書したものであるが、黄変し、ページが飛んでいた部分もあったが、ワードで打ち込み、電子ファイルとした。
祖母は明治22年に生まれ、昭和62年2月に94歳で逝去している。明治、大正、昭和の時代に生き、関東大震災、戦争等を経験している。平凡な一人の女性が生きた94年間は、それぞれの時代背景の中で、関係した多くの人物が登場する。多くは亡くなっていて、自分の記憶ともオーバーラップするのであるが、文を追ってみると新たな発見もあり、自叙伝は自己の生き様だけではなく、感情を持った人間の行動そのものが如実に表現されているので、彷彿とする世界が繰り広げられる。事実は小説よりも奇なりである。
自分は自叙伝など何の役に立つのかと、どちらかといえば敬遠する部類にはいることとして過ごしてきた。頂いたものも、殆ど目を通すことなく、本棚に積まれている。中には頂いた方には失礼とは想いながらも破棄したものもある。しかし今回、電子ファイルを作る中で、執筆者との関係が、より深いものになったことは、まんざらでもないと思うようになった。
自叙伝すなわち自分史は、人は死して名を残す類のもので、良いことばかりを書き連ね、又は、言い訳の正当化が関の山と高をくくっていたが、書き方によることで、亡き方の姿をよみがえらせる発見をした。平凡に生きることは非凡であるからだとの逆説は将にその通りで、平凡な日常が書かれていれば書かれているほど読み手に伝わる感動は強いものとなる。文章は、時間の経過を一瞬のうちに掻き消し、当時のリアリティ・再現性に貢献する。
百年近くを生きていれば、いろいろな経験をするであろう。イベント的な出来事は、歴史資料を見れば分かるが、当時、そこに存在した人間の思いや、信条までは分からない。過去は取り戻すことが出来ず、歴史を再現できないため、自叙伝は大変貴重なのである。
金子みすずが書いた詩のように、何時までも古さを感じさせないのは、人として変わらない世界を見ることが出来るからであろう。将に古いことは変化するものと変化しないものとの共存である。何ら変わらない世界は、タイムマシーンに乗っているようで、当時の世界へ連れて行ってくれ、記憶を呼び覚ましてくれる。