中坊が学校を休んでいる時の授業ノート。
「友達に見せてもらいなよ」と言うと──もちろん、写させてもらうものもありますが──ほぼプリントばかりだったりします。
そんな話から、数学もノートを使わないといわれました。
「どういう事?」
聞けば、プリントを配られて自分で解いて、分からなければ教科書を見て解く。それでも分からなければ先生に聞く…となっているそうです。
しかも、新しい事を習う時もそうらしい。
「え、最初に先生が黒板でもろもろの説明をして教えてもらってから、プリントを解くんじゃなく?」
──と聞くと、「そう。説明はない」との事。
「どういう事?」
なんかもう、それ以外の言葉が見つからない。しかも、今回の定期テストの範囲の授業からそういう方針に変わったらしく、中坊はこの方針が「嫌」だと言ってます。
ただ、今の中坊が通っている塾はそういうやり方です。
最初こそ不安でしたが、中坊的には意外とそういうやり方が合っていたみたいで「やめたい」と言った事もありません。
塾でそれが可能なのは、学校でベースを習っているからだと思うんです。
でも学校でそのやり方はどうなの?
──と思います。
私が中学の時は、数学の授業で躓きました。
通信教育の教材で勉強する事もありましたが、躓いた人間から言わせると、習っていない事を文章を読んだだけでは理解できません。
何でそうなるの?
──と思っても、その理由が教材に書かれていないから納得できないんです。
だから解けない。
「この公式にあてはめろ」と言われても、なぜその公式になるのか分からないし、色々ある公式の中で、なぜこの問題にはこの公式を使うのかも分からない。
そんな人間が、新しく習う所を自分で本を読んで解けと言われても分かるはずもない。
しかも、そこまで躓くと今度は「疑問を疑問とすら思わなくなる」んですよね。
理由を考えても分からないし、面倒になってくる。だから、「これはこうだから」と言われても、「そういうもんなんだ」と言い聞かせるようになるんです。
故に、本当に理解してないにもかかわらず「分かったつもり」でいるため、先生に聞く事もしなくなる。
その「分かったつもり」が露呈するのは、自分が人に教える時です。
人に教えるのって、本当に理解してないと「相手が分かるように教えられない」んですよね。
そして、本当に理解していない事ってすぐ忘れちゃうんですよ。
だから、発展問題になった時に応用ができないんです。
こういう事を、自分で本当に理解したのは高校に入ってからでした。
高校での数学の先生が、ほんと分かりやすくて素晴らしかった。
あんなに分からなくて苦手だった数学が、3年間、疑問もなく解決して納得できた事で苦手意識がグッと減りました。
それから、分からない事を分からないままにすることもなく、分からなかったら分かるまで聞く、調べる…という意識に変わったんですよね。
そして今、中坊の授業方針で疑問に思ったのは「根拠」を教えてもらっているのかどうか。
例えば方程式のXを使った式で、
「X-5=6」
──という式から「X=〇」にする時、
「X=6+5」
──というように、なぜ「-」の記号が「+」に代わって「+5」が右辺にくるのか、という根拠。
私、高校の時に初めてこの根拠を教わって、目の前が「ぱぁ…」と開けたんですよ。
大袈裟ですけど、ほんと、すごく納得できて腑に落ちたあの衝撃は今でも覚えています。
勉強ができる人は「は、今更?」と思うかもしれませんが、思えば中学の時にその根拠を教えてもらった記憶がないんですよね。
ただただ、「符号を変えて右に持ってくればいい」とだけ言われた気がします。
その事があったので、中坊に教える時にはその根拠をおしえたのですが…。
今回の授業方針の変更の話から、過去にそういう教わり方をしたのか聞いたら、案の定、「符号を変えて右に動かせ」としか教わってないという。
ここで、私はこれだ…と思いました。
「これはこういうものだから、覚えろよー」ではなく、なぜそうなるのかの根拠を教えてもらった方が苦手意識が少なくんるんじゃないか…と。
中学2年の時の「対頂角」とか「平行線の同位角」とかもそう。
何故同じ角度になるのかという理由が、数式で表せた時「なるほど!」と納得できます。
その「なるほど!」があると案外忘れにくく、忘れないという事は、応用問題にも「あの公式が使えるんじゃないか、いや、ここをこうすればこっちの方面から解けるんじゃないか」と色々考える事ができるんですよね。
授業方針が、どういう目的で変わったのかは分かりません。
だから、近々先生に聞いてみようと思います。
そして純粋に、「数学で躓いた人間の気持ち」を伝えてみたいと思います。