日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

我以外人は皆師

2009年04月05日 | Weblog
我以外人は皆師。

とよく言われる。確かに我に無いものを人がもっていることも多い。そこを見習い、我が師とするというのも分からないではないが、人間には好き嫌いと言うやっかいなものがある。嫌いな人が例えどんなによいことを教えてくれたり言ったりしても生理的反感のため、聞く耳をもたない。これでは師たりえない。つまり、人皆我が師というのは一つの極論であり一つの理想すなわち、あらまほあしきこと
なのである。
人間にとって、謙虚であることは大切なことであるが、理想論だけで突っ走るのもどうかと思う

桜花

2009年04月04日 | Weblog
桜花

桜の花が咲いたのに、名残雪がはなびらに覆い被さっている。
寒の戻りかも知れないが、非常に寒い。桜が咲くから暖かい春になったと思うのは、日本人の人情で、自然は人間の思うようには動いてくれない。

今日は4月3日。明日は北朝鮮がミサイルをぶち上げるそうな。
計算上は秋田岩手の上空を通過するらしいが、計算通りに行くかどうか。
花見のこの良き時期にうっとしいニュースである。破片を打ち落とすと言うが計算違いでとんでもない方向に飛んだときはどなるのか。地球上には鬼畜にも等しい輩が居るものだ。

すたれはしたが、日本人のDNAの中には武士道の血が流れている 。
礼節を重んじ、潔しを旨として、誇り高く生きる。それは桜の花に似て
ぱっと咲いてぱっと散るところが桜の花にもたとえられる。

WBCのとき選手集団を侍ジャパンといった。どの試合をみても、そこには侍の誇りが感じられた。どこかの国のように、マウンドに国旗を立てるわけでもなく、正々堂々試合を運び、実力を出し切って、世界一になった。
そこには何のおもいあがりもなか。彼らは堂々と試合を通して、日本人の心の中に潜む侍心を、各人に自覚させてくれた。それがかの感動場面であったようにおもう。

今年の花見は来週かも知れない。花の下で同志や家族がが集まって、がやがやわいわいやるのも、生きている楽しさを味わう事の1つだろう。花見は出来るだけ盛大にやってこの良き季節を楽しんで欲しいものだ。

生かされて

2009年04月03日 | Weblog
 生かされて

生かされて、命ありけり、清滝のせせらぎ、河鹿聞きつつ 京大名誉教授
          工学博士 川畑愛揮先生
              

エネルギッシュ

2009年04月03日 | Weblog
エネルギッシュ

貧乏な国ほど、エネルギッシュに生きている。35度を越す中、50-60Kgもあろうかと、思われるドンゴロスの袋に入った穀物を担いでトラックに積み降ろしいている。
夏の盛りの肉体労働がどれほど、つらいものか私は高校生時代に十分経験済みである。体を使うか、頭を使うかだけどまあ良くやるなとただ眺めているた。
極限に近い生活状態の中からは、見事なエネルギーが湧出するものだ。そのエネルギーによって人はこんな苛酷な労働もいとわないのだなあと、タイのチャイナタウンの雑踏の中でふっとおもった。

方違神社 ほうちがいじんじゃ

2009年04月02日 | Weblog
            方違神社 ほうちがいじんじゃ


堺市内の三国ヶ丘は 和泉 河内 摂津の三の郡の接する所で、この三接点にあるのが有名な方違神社である。歴史は垂仁天皇の時代から祠が祭られ、千年以上の時を経て、現在の神社の形態をとったとのこと。
    
祭神は方違幸大神「かたたがえさちのおおかみ」 と呼ばれている。かたたがえというと
平安時代の書物にはかなりの頻度で出てくるので、詳細は判らなくとも、なんとなく耳に聞き慣れた言葉である。旅立ちの方位や、家移りの方位など、平安時代、いやもっと古い時代から、人はその吉凶を気に掛けて、道中や家移りの方角の安全を神に祈願したのは、現代人から見ると、迷信の類にみえるが、古来の言い伝えは、現代なお脈々と息づいている。古代・現代を問わず、人間の心の中には、神に安全を祈るという気持ちが脈々と流れ、これは未来永劫に続くのではあるまいか。

受付で転居元と転居先の住所を書いて渡し、控え室でしばらく待つと2,3〇人ひとまとめにして、大神の祭ってある祭壇の間に案内されて、御幣でお祓いを受け、祝詞が始める。
聞き慣れたと
 「かけまくも」 からはじまって 「まうしてまうさく」で終わる。終わると今度は鈴を鳴らしてお祓いを受ける。

今日参拝した目的は 兵庫から東京へ転居した子供の日々安寧を願い、幸せと健康な日々を送ってほしいと言う親の切なる願いである。近くにおれば、いざというときは飛んでいけるが、大阪・東京となれば簡単なことではない。親が守る分、神頼みと言うことになる。
そうまでして、子供や孫の安寧を願う親心というのは、悲しいまでの思いである。
子供はそんな親の願いをどこまで受け止めてくれるだろうか。おそらく親の意を受けて、この神様のお札をどれほど大切に扱ってくれるだろうか。
しかし親はそこまでは求めない。多分に親の気休めの部分もある。自己満足である。
親心とはいじらしいものである。
参拝者の祈願は 安産 家作 方違い 家内安全 交通安全など万般OKだがやはり家移りの方除けが多いのは自然である。
本日の参拝者は神奈川 京都 兵庫など遠方の人も結構多い。堺市内の人は20人中4,5人にしか過ぎない。参拝者がかなり全国的なのも、そして方違いの災いよけ(方災除)祈願が多いのもうなずける。 

吉田兼好は人の吉凶は、暦の吉凶によるものではなくて、心がけによって生じるものである。いくらか神信心をしても、その人の心がけによって、吉凶は上昇したり下降したりするものだから、そのことを心がけて置かねばならないという。
彼は暦だけに頼って吉凶を占う人を戒めているのだ。神社出身の人とは思えない発言だが、これは本当だろう。というより説得力がある。
人は心がけによってその吉凶は上昇も下降もする。つまり吉にもなり、凶にも成ると言う考えは現代人も納得するだろう。だがその納得が果たして、方違い神社へのお詣りと言う形になるだろうか。多分現代人は頭の中で消化するのみか、通過させるだけだろう。