日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

許せ。なぜ責める

2010年02月09日 | Weblog
許せ。なぜ責める


お前がどれほど完成された人間か。それほど立派な人間か。。そんな立場にあるの
か。お前だって本音ではそうなんだろう。
自分がやりたいことを、他人がやるからといってなぜ責める。
人間、皆おもいおもいに生きているのに、自分の意に染まぬといってなぜそれが
悪い。
何も良い。かもいい。太陽は、神は正も邪も生かしているではないか。
許せ。ゆるせ。許す度合いで人はその器の大きさがわかる。
清に邪あり、濁に邪なし。許せ。人も己もあるおおらかに楽しく、楽天的に明る
く、健康に生きる信念を持って生きよ
といいつつ生きている。そして時々我がいやになる。

死刑容認85%内閣府調査

2010年02月08日 | Weblog
死刑容認85%内閣府調査

容認はその理由として次のようなことをあげている
1,被害者や遺族の気持ちが収まらない
2,凶悪犯は命で償うほかはない
3,廃止すれば凶悪犯罪が増える
などであるが、私が根本的に問題にしたいのは被害者の人権である。死刑を求刑されるような人間の犯罪は問答無用的に完全に被害者の人権を抹殺している。
これは重大なことで人の命は地球より思いといわれるたった1つの命である。それを恣意的に抹殺したのだから、その償いは加害者の命でもってあがなうのは当然のことである。責任を感じて自殺するような感覚を持っていない人間に対してはほかからの力でもって命を奪う。つまり死刑を執行するのは当然のことである。
もし自らの命でもって被害者の人権を踏みにじり抹殺した責任をとらなくてよいということがまかり通れば、命の尊厳を社会的に保証したつまり(生命財産を)保証することによって成り立っている国家存立が問われる所まで問題は行き着くのではないか。

死刑反対論は
1,国家による殺人は認められない
2,取り返しのつかないえん罪の可能性
3,生かして罪を償わすべきだ。
などがあるが、この意見は凶悪犯によって命を奪われた被害者の人権には何の踏み込んだ生存権の回復や社会正義が含まれない。
最近国際的には死刑廃止論が定着しつつあるが、国連人権委員会 の勧告なんてくその役にも立たない。説得力のない空理空論だと私は思う。何の罪も落ち度もない人がある日突然奪われた人権は なんとしても生存権の略奪としてその報いを受けるべきだ。それも命という究極のとリカ絵師のつかないを奪ったとなるとその罪は重い。その罪に該当するのは己の命の抹殺によって償うほかには償うものがない。反対論の代表的な3つの理由の1つ1つに被害者の悔しさ、無念、恐怖、苦しみまた間接的には社会の治安に対する不安などを考慮などを当てはめて、それでも正当な反論が出来るのかどうか、検討してから反対論を主張してほしい。
被害者や遺族、社会正義の観点からも死刑制度は実効あるものにしなくてはならない。
これに関して法務大臣に一言言いたい
あなたが死刑反対論者であるなら、法務大臣になる資格はないのだ。国民は執行をあなたにゆだねているのだ。それを己の主義で執行書にサインしないとは完全に職務放棄していることだ。あなたがサインをしてけりをつけなければ、死刑制度は有名無実化するのだ
あなたの職務怠慢によって法の執行がゆがめられるのだ。個人的に賛否のあることは十分理解できるが、それなら法務大臣の職務をうけなければよい。指名されたときに自分の信条を通して断るべきだ。にもかかわらず法務大臣の職に就くとはどういう神経だ。大臣病患者だとしか思えない。大臣は法務関係に詳しいものである必要はない。職務を忠実に果たすことが国民から求められ、その権限を付託されていることを肝に銘じるべきだ。
執行書に署名が出来ないというのなら、即刻辞職すべし。のうのうとその職にとどまることは許されないことを肝に銘ずべし。不適格者であることを自覚すべし。

芸能人と麻薬

2010年02月07日 | Weblog


芸能人と麻薬


今でこそ華やかなスポットライトを浴びているが、本質的には昔からいわれる、かわらこじきと何ら変わらない
今日のことはわかるが、明日の仕事のことはわからない。明日の仕事の確約がないほど不安なものはない。毎日出勤すれば仕事があって、給料がもらえるという安定感はない。

芸能人はこの安定感と対極にいる。当たれば千金が手にはいるし、当たらなければ水も飲めない。そういう極端な世界が芸能の世界である。芸能界に長くいて諸般の事情に詳しく、それに慣れた人間ならいざ知らず、魔が指したような幸運で脚光を浴びてこの世界に入る若者は、そこには大きな落とし穴があることを知らず完全に浮かれて、まるで自分が偉くなったように自信を持つ。ところが人気という潮がさっと引いたときに、そのあまりの落差についていけず精神的に大きなダメージを受ける。

華やかな世界に見えるが、絶頂と孤独が同居し、天国と地獄の落差は激しい。 浮き沈みの激しさ…精神的不安が動機がそこにある。さらに悪いことにはちやほやされるから、まるで自分が特権階級の人に見えてしまう。のぼせ上がるのだ。

年端もいかず世の中の仕組みにも疎い若い芸能人が、こんなはずじゃなかったと落胆するのも無理はない。不安やストレスを抱いている人ほど、鬱病(うつびょう)の薬をのむか、一時的に自分をごまかす麻薬に傾いていくのもわからないことはない。

しかし麻薬はあくまで麻薬である。それは直接本人の心身をむしばんで最終的には廃人にしてしまうばかりか、犯罪まで誘発することにもつながる。

歴史的には19世紀にある国がある国の国民を麻薬患者にしようとことだってある。
その事に気づいて国民改革運動に康有為が巳を挺した話も歴史上には残っている
いずれにせよ。麻薬は人類史上から撲滅しなければならない問題である。




私の神観(神に対する見方)

2010年02月06日 | Weblog
私の神観(神に対する見方)

1, 神をどうでも良いと思えば、神の方も私をどうでもよいと言う感じで対応
スらだろう。真剣になればそれなりの対応はある。

2, どうも神は毎日私を見つめているようだ。 そして時々私の神に対する思いを試すことがある。お前はどれほど真剣になって神と取り組んでいるのかと。
それはいやなことである。しんどいことである。困難なことである。信仰をやめたくなる気になる。
がしかしこの神の試練を乗り越えて、なお神に食らいついていったときには、褒美が貰える。想像さえつかない喜び事が現実に起こる。こういう事は何回も経験した。それは偶然の出来事かあるいは、神の恩寵かわからないけれども、私はそれを恩寵と思いたい実際にそう思う。

人間にとって神の存在は必要なのだろうか。それは人それぞれであるが、太古の昔から、人間には常に神があった。存在の有無は各人の問題にせよ、態勢的には厳然として神はいた。

仏教の伝来以来日本固有の神と仏教が神仏習合した。(させられた)だから我々は神仏を一体と考えがちだが、神と仏は異質のものだと思う。神棚と仏壇が同居するのは 納得がいく。しかし神を祀る神社とお寺が同居するかというとそうではない。春日大社と東大寺は同居 するのではなくて、別居している。そこに仕える人は神官と僧である。私の神観(神に対する見方)

1, 神をどうでも良いと思えば、神の方も私をどうでもよいと言う感じで対応
スらだろう。真剣になればそれなりの対応はある。

2, どうも神は毎日私を見つめているようだ。 そして時々私の神に対する思いを試すことがある。お前はどれほど真剣になって神と取り組んでいるのかと。
それはいやなことである。しんどいことである。困難なことである。信仰をやめたくなる気になる。
がしかしこの神の試練を乗り越えて、なお神に食らいついていったときには、褒美が貰える。想像さえつかない喜び事が現実に起こる。こういう事は何回も経験した。それは偶然の出来事かあるいは、神の恩寵かわからないけれども、私はそれを恩寵と思いたい実際にそう思う。

人間にとって神の存在は必要なのだろうか。それは人それぞれであるが、太古の昔から、人間には常に神があった。存在の有無は各人の問題にせよ、態勢的には厳然として神はいた。

仏教の伝来以来日本固有の神と仏教が神仏習合した。(させられた)だから我々は神仏を一体と考えがちだが、神と仏は異質のものだと思う。神棚と仏壇が同居するのは 納得がいく。しかし神を祀る神社とお寺が同居するかというとそうではない。春日大社と東大寺は同居 するのではなくて、別居している。そこに仕える人は神官と僧である。

介護制度のありかたについて思う

2010年02月05日 | Weblog
介護制度のありかたについて思う

今も昔も同じように、老人の介護は必要であったはずである

今は核家族で、邪魔になる?老人の介護はすべて老人介護施設の方へ送られるようになっているようだ。

歴史的にみると昔はどうか。少なくとも戦前までは、大家族主義で、核家族主義では無かった。老人は、次の若い世代によって支えられ、農作業を手伝い、健康な老人は孫のおもりをした。例え病に倒れても家族の中で支えられていた。

今は、核家族主義が、幅をきかせて、老人といえば、うばすてに近い感覚で、老人ホームへ送り込む。これでは、世代間の人間的な感覚やつながりは立ち消えになってしまう。

子供世代は、親世代を老人ホームに入れ、亡くなれば、葬式をすましてそれで終わりという、人間関係が出来上がっている。
これがはたして望ましい人間関係であろうか。
道徳的な臭いがするかもしれないが、これでは若い世代に自分を育ててくれた親世代に対する感謝の気持ちというものは無いのであろうか。

感謝の気持ちが無いのは異常であり、感謝の気持ちがあるのが正常である。こういうことは人間間世代間の基本的ルールとして社会的に定着していても何もおかしくない。

それどころか、人倫的感覚から見ると、そうあるのが当然である。
介護世代になると子が親を見捨てる感覚の方が、社会的風潮だとしても、それは人倫に反することである。

なぜこういうことになったのか。結局のところ、自分の主張や利益を最大限尊重して、それを妨げるものを排除するという自己中心主義の産物だと思う。全体の風潮がおかしいのである。
こういう風潮が行き着く先は戦前では考えられなかったような親殺し、子殺しにつながって行くのである。



確かに若い世代から見れば、老人は、動作も鈍く、病気がちで、やっかいものに、なる存在ではある。

しかし、その老人によって、次世代ば育てられたのである。つまり、人間的な感覚は、世代間で、つながれていたのである。

若い人たちの世話にならない。これは老人の1種の自己プライドだけど、それで自分の見繕いができるならば、まだしも、己一人をもち兼ねている状態になってからも、そのプライドは捨てられないのは、現実無視もはなはだしい。

本来人間が生きて行くということは、それほど自由なことであろうか。どこかに不自由を背負って、世代間、仲良く暮らす大家族制度は、決して、人倫に反するものではない。邪魔ものではない。それどころか、農作業において、あるいは、健康な祖父母は、孫と同居することによって知らず知らずのうちに、オトナの知恵を若い孫達に教え込んで行く、つまりしつけ教育に大いに役立つということだ。
それは今まで生きてきた大人の知恵の伝承出来ることになる。

こういう感覚を現代の世情に合わないアナクロリズムというならば、僕は、アナクロが正論だと思う。

そこで提案

要介護老人を家族で、引受るならば、国から、介護手当をその家庭に、支給したらどうだろう。それは若い世代の家計を助けることにもなり、介護労働者の増加を防ぎ、新たに作る介護施設不要となって、国家予算にもプラスになるだろう。

現に、私の家では、脳こうそくを倒れた老人の世話を17年間、自宅で介護した。介護費用は、兄弟姉妹が、それぞれ負担した。

持ち回りでどこかの家に負担がかからないように病人を東京、大阪と、転々させたこともある。当番制で2年に1回だったら、病人の親を同居させて、介護できる。

もちろん、さざ波クラスのトラブルは、あったけれども、輪番制で、なんとか
17年間をしのいだ。

その介護に当たるのは、どうしても一家の主婦である。その主婦の労苦に報いるために、そこの家族に、10万円の金を毎月渡したわけである。
嫁さんたちは姑の世話することを、心の底ではどれほどいやがったことであろうか。しかしながら、自分が、外でアルバイトをしなくても、それに見合う分だけの現金収入が確実にあるわけだから、不平不満もある程度抑えることができたらしい。

確かに、介護施設に、入れることによって、寿命が伸びる。ということがあるかもしれない。しかし、介護を必要とする。人間というのは、本来、すでに人間としての機能を失っているわけだから、介護を要する人の命をわずかばかり延命させたからと言って、誰にとってメリットがあるのか。
もし、その心配があるというならば、訪問介護で、そこをしのぐ。事が出来ると思う。

巷間でささやかれているように、現状通りに推移するならば、これからますます要介護老人が増え、介護関係の施設や労働者が、間違いなく増えてくる。その見通しについて、政府は、外国人の介護者を雇うようなことを考えている。

こういうことを考える前に、今一度、古き良き時代の大家族制度に、ついて、その原理原則を現代の世相に、マッチさせること。あるいは修正することを真剣に検討すべきではないか。

























勇気ある無責任

2010年02月04日 | Weblog
勇気ある無責任

保険屋の肩を持ったり、宣伝するつもりは毛頭無いが、
この世に、生きていると、身の周りには、危険なことだらけである。

自分が、どんなに用心し、注意が深くしていても、そういうもの超えて、事故 や災難や病気にかかることはいくらだったであり、免れることは出来ない。
そして、これが一家を背負う大黒柱であれば、あらゆる危険に対して保険をする必要がある。

しかるに、金銭面で物質面の事は保険でカバーできても、その一つ前の段階、例えば被害者にならないようにするには、本人の用心と共に神仏に大難を小難に小難を無難にするように祈るこ、が大切である。
、保険は、その災難によって発生する責任を金銭である程度まではカバーする際に必要である。
それゆえに、保険には加入しないで、生きているというのは、ある意味では勇気ある無責任者といえる。

咲く花はいろいろ

2010年02月03日 | Weblog
咲く花はいろいろ

人はその器量に従って花を咲かせるから咲く花はいろいろである。
1. 毒々しい原色の花
2. 清楚な白百合
3. 平凡そのものの花
4. 泥沼をかいくぐり抜けて清い蓮の花
えんま様はその花をごらんになって地獄行き、極楽行きを決められるのだろうか 

そこにはそこの楽しみがある。

2010年02月02日 | Weblog
そこにはそこの楽しみがある。

どんな世界に住んでいても、そこにはそこの楽しみがある。楽しみを作り出すというのが人間の世界だと、ある人がいった。苦しい世界でのたうち回るだけでなく、その苦しい世界に一筋の光明を見いだして、それを楽しみに転換していく能力があるとは、人間はやはりすばらしい。人間には輝かしい未来がある。夢がある。私はそれを信じる。

演歌は

2010年02月01日 | Weblog
演歌は


声の美しさ独特さもさることながら、心の思い、感情を全面に出して聞く人に強く訴えることが肝要である。心をフレーズごとに乗せればよい。
心、(人間のハートの思い、気分)をむしろオーバーに表現して相手に伝える。
だから歌(心の発想)は大二義的に考え、重視すべきは
心の表現、心の思いの伝え方であろう。極端にいえば演歌は人の心を声に乗せるのが大切でその心を持ち合わせていない人は歌手になれないと言える。
このような意味から歌手は作曲家と同様の心を持ち合わせている必要がある。