日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

マンデラ尊師

2013年12月16日 | Weblog
マンデラ尊師

27年間も投獄され、 自由を束縛されながらアパルトヘイト撤廃を叫び、人種間の和解を求め、実現する尊師の理想や夢は、人類が目指す理想でもある。
特に人種差別がひどいと言われるアフリカにおいて、尊師の強力な意志の力で、壁をなくそうと努力し、実現した事は、人類の理想の実現でもある。
もっと活躍して欲しいと願う気持ちもあるが、95歳という高齢だから、今はそっと尊師を見送りたい。
世界各国の貴顕4,500人の出席の下で行われた葬儀である。師がどれほど世界平和や人類の理想に向かって活躍し、それが認められていたか。、これは暗黙のうちに物語っている。

自分で自分の事を笑っちゃう

2013年12月15日 | Weblog
自分で自分の事を笑っちゃう

賢しらのことを考えて一丁前の口をきいていても、所詮そこらそんじょの人間である。動物である。基本的な欲望に振り回されての毎日である。
それは本能だから誰もその欲から逃れることは出来ない。
即ち第一時的欲望、自己保存の本能、食欲と 第二次的欲望、種族保存の本能、性欲の欲求から逃れることは出来ない。この二つの欲望に振り回されながら、日々を送っているのが、我が姿である。
おそらく広く言えば、動物も植物も生命体はすべて、この二つの欲望、本能に振り回されながら、生活している現実がある。

鏡に自分の過去や未来を映し出すとき、よくぞ二つのバランスをとりながら、今日まで命を長らえたものだと、つくづく思う。
生存競争の中で、自己実現を目指して戦い抜く姿には、惜しみない拍手を送りたいし、一方では綱渡り的な時期を送ったこともある事に思いを致すとき、よくぞ今日までやってこれたものだと、我ながら感心して自分自身のことを賞めたりして、自分で笑っちゃう事も在る。

金融資本主義について思う 2

2013年12月14日 | Weblog
金融資本主義について思う 2

自由競争をしたら1番から100番まで生まれます。問題は敗者の生活をどうするのかです。共存共栄が国際的にも叫ばれ定着しつつある現在において無制限な、無節操な自由競争が許されるはずはない。

アメリカには懲りない面々がまだまだ存在するのだと情けなく
思いました。今後アメリカ一国主義は立ちゆかなくなるでしょ
う。ドルにかわる新しい価値観が形成されるというのが今後の国際
的な流れになることでしょう。当然のことだと思う。

規制のない金融商品は危険極まりありません。これからの経済もこれを野放しにしてまま運営されていくのか、 はたまたマネーに頼らない実体経済を国連を中心に世界のすべての国が参加して進めていけるのか
まさに、重要な時期にさしかかっていると思います。

かってホリエモンや村上フアンドが騒がれたが、日本の場合
実体経済、ものつくり経済こそ価値を創造するものと自覚する必
要がありました。資本主義の根本まで立ち至って人類の安寧を
保証するという次元まで立ち返って資本主義の前提条件を勘案してもの申すならともかくも、時価総額の極大化が即利益という生半可な知識の持ち主もまたものいう株主ともてはやす浅薄なマスコミに大きく取り上げ られて大勢の人が迷惑をしたことを、今から振り返ってみると
漫画みたいですよ。
堀江の奇妙な哲学の茶番劇を激しく攻撃したが、
これは正解だったと今でも思っています。

金融資本主義について 1

2013年12月13日 | Weblog

金融資本主義について 1

5回にわたり放送されたリーマンンショックに関する放送。私もみてました。資本主義経済の大前提はこの経済システムが人類全体の安寧を求めるところにあって、無制限なマネー資本主義でないということが再確認され実行されることが今後の問題でしょう。
それは公益資本主義といってもよいし、公共資本主義といって
もよい。古くは大河内教授が言われたように修正資本主義
福祉資本主義ということだと思います。
自由競争の大切さは理解できるが野放図な自由競争は社会を格差社会に分断し自由競争の敗者は生存さえ許されないという人類の危機を招きます。
そういう自由経済システムは人類の安寧な生存にとって害のあ
るシステムだから何らかの改変や修正や制限を加える必要があ
ります。宇沢教授が金融工学のでたらめさを明確に指摘しておられたのは実にその通りで感服しました。

優秀な人材がそろっているアメリカでどうしてこんなマネーゲ ームが起きるのか不思議です。グリンスパーン議長がどうしてこのマネーゲームを放置しておいたのか不思議です。

議会から非難されて間違いを認めたがそれは時すでに遅しです よね。それでもフアンドの代表者はまだ金を儲けることが至上 命題だと豪語していたが、彼はまっとうな世界観や価値観や哲学を持たない哀れな人間だと僕は 軽蔑しました。


10-47大黒さん

2013年12月12日 | Weblog
大黒さん

神様にもそれぞれ専門分野があるらしい。例えば大黒さん。
打ちでの小槌を振ってお金を降らしてくれるという、ありがたい神様だ。
「お金が欲しかったら、大黒さんに祈るのが良い」と友人から話を聞いてきた。そんな馬鹿なことを、と、疑う前に、金を我が家に降らせてくれるのなら歓迎だと前向きに考えた。
それが契機になって大黒さんをインターネットで調べた。
通称大黒さんは、いわゆる大黒さんと、お寺の住職婦人を大黒さんというらしい。
普通の大黒様は、大きな袋を肩に掛け、右手に打出の小槌を持ち、米俵の上に立っておられ、その顔はニコニコと笑っておられ、七福神の一人として古くから非常に親しまれた神様であります。続いて元々はインドの神様であったのが仏教の守護神となり、因幡の白兎の神話に登場されるオオクニヌシノミコトと結びつき現在のお姿となりました。
とある。
大きな袋を肩に掛け     大黒様が来掛かると
ここに因幡の白ウサギ    皮をむかれて赤はだか
小学2年生の時に習った唄を思いだした。マイナーメロデイでメロデイを歌うと不思議にも歌詞が思い出されてついてくる

住職婦人を大黒さんと言う事は関係ないから無視をして、打ち出の小槌を振って金を降らせてくれる神様。大歓迎。来年は金回りが良くなるような気がする
欲を道ずれに、早速大黒天のお姿像を買ってきて、足の下にオモチャの一億円札を敷き,金が降ってきますようにと祈った。
御真言は、おんまかきゃらやそわか 。

大英博物館 にて

2013年12月11日 | Weblog
 大英博物館 にて

1、人間に生と死が有る限り、神秘が付きまとう。神秘が有る限り人間は神とは切れない縁で結ばれている。その実感が強い。
2、5000年前の人骨を見て父を思い出した。
3、英国は世界中の宝物を奪って自国にもって帰り、大英博物館に収容した。それを自国だけで独占せず人類の文化遺産として保存し世界に向けてオープンした。

もし英国がこうしなかったら人類の文化遺産が守れたか、散逸や破壊や消滅があったに違いない。大英博物館は正に英国の手柄であり、英知である。
といいたいところだが、さて本心はどうだったんだろう。
              

当たり前のことが

2013年12月11日 | Weblog

当たり前のことが

-10度の吹雪の夜道に体を濡らしながら、やっと家にたどり着いた。家
の玄関の扉を閉めると、家の中の暖かさが体中に染み渡る。
さらに床に入ろうとすると、電気毛布のおかげで、布団の中はほかほかである。
早速その中に潜り込むと、先ほどまでの寒さが思い出された。
暖かい布団に潜り込んで、ぬくもりのありがたさが身にしみた。

-10度の寒さ冷たさ、おまけに吹雪ときている。こんな夜はキツネもたぬきも寒かろう。どのようにして暖をといるのだろうか。
人間として生まれてよかった。
こんな寒い夜でも家に帰れば、室内暖房があり、暖まった布団がある。
僕は布団に潜り込んだこんな場面と、マイナス10度の寒さに吹雪の中を足早に歩く場面と比較することによって、家庭がどれほどありがたいものかよくわかった。
考えれば当たり前のことである。これこそ家庭の日常風景である。しかしそれは吹雪の中を通って初めて感じられる暖かさで、外での寒さが身にこたえないと、家の中の暖かさや、ありがたさがわからず、単なる日常風景として見逃してしまう。
これは辛い塩を舐めたから、砂糖の甘さが分かるのと同じ原理なのだろうか。

日常生活でごく当たり前に思っていることでも、場面が変わればその当たり前が感謝の対象になる。


歌謡祭り

2013年12月09日 | Weblog




歌謡祭り

呼ばれたわけじゃないのに、カラオケ発表会に出席した。行き交う人々は歳の頃は60過ぎの中高年の男女で、ガラガラをひいている。
多分晴れの舞台の衣装が入っているのであろう。

中高年と言えば隠れてしまうが、顔の様子から伺うと、やはり人生にくたびれが出ている。往年の精気がない。干し柿みたいに皺が顔全体に出ている。かく言う自分はもっとくたびれているのだが、幸いに鏡がないから我が姿を映すことなく自分の事は全て棚上げになるのだ。

歳を経るごとにくたびれてくるのは避けようがないが、カラオケを歌って日頃の憂さを忘れようと言うのは理にかなったイベントである。
近頃は審査するよりもこーゆー風景を見ることのほうが楽しいということがわかってきた。

阪田山遺跡

2013年12月08日 | Weblog
阪田山遺跡

この遺跡は一般に言われる遺跡とは、ちょっと趣が違うような気がする。
> 紀州和歌山の白浜にある遺跡であるが、普通の遺跡の感覚でいると中の展示物には度肝を抜かれる。
おおまかな言い方をすれば、この遺跡は白浜美術館とそれにつながる歓喜神社の事を言う。

入場料を払って中に入ると、左手にたくさんの絵馬がある。
読んでみると夫婦和合、子宝に恵まれますように、次は男の子が生まれますように、といった具合に夫婦和合と子宝授かりの絵馬ばかりである。

白浜美術館は美術館と言えばちょっと特殊である。どういう意味で特殊かと言えば、中に展 示されている像はほぼ全てミトーナ像である。
全部で120点ほどあるらしい。
初めて見るとちょっとえげつないかなぁと思うだろうが、僕はインドやネパールを旅していて、こういう類のものはしょっちゅう見ていたから、珍しいと言うよりもインドとネパールを懐かしくさえ思った。

おそらくこれらの男女和合神像はインドのヒンズー教から生まれたものだ。シバ神や妃のパールパーティーなどのミトーナ像が何体もあった。
> どうしてこういう和合像を作るのであろうかと、日本人だったらそーゆー風習がないから不思議に思うかもしれないが、インドでは僕は普通の町の中で何体も見かけたことがある。特にネパールのバクタプルの寺院では庇そのものがこのようなミトーナ像ら成り立っていた。

考えてみれば何も不思議では無い。この世には男性と女性がいて、お互いの性の力の和合において新しい命を生み出すことができる。
その様々な姿を神像にして展示してあるが、神を人間に置き換えればエロチックに思える。近頃はだいぶ解放されたが、日本では、やはりセックスの事は露にすべき事柄では無い。恥じらいというわけではないが、日本では、やはりまだまだ性はタブーの領域に属する。

心理学者のフロイトの説を引用するまでもなく、性の力の大きさは日常生活において実感するところである。またこのように、表面的にそのものずばりをあらわにすることにはちょっと気が引けるんだが…
まあまあ節度を持ってやる程度なら大目に見るほうがいい。

由緒書きによると、この遺跡は1300年以上も昔の事らしい。なんでも大津波に襲われてこの遺跡は埋没していたそうだが、それが昭和30年代に大学教授の力によって発掘されて現代の姿をとっているとの事である。1300年も昔の人が女陰と男根を見るも大きな姿に彫りこんでそれを祀ったらしい。
人間なんて1300年昔だろうと現代だろうとそんなに変わるもんじゃないなと苦笑した。
タイのバンコクにあるワットアルン「暁の寺」の高く聳える中央石塔は下半分が仏教で、上半分はヒンズー教を表しているということである。タイは小乗仏教だけれども、国民の仏教に対する信仰は篤く、その度合いは日本人の比では無い。

そういえば日本でも、この性に関することがお経に書かれている。それは司馬遼太郎さんの「空海の風景」を読めば、その中に詳しく書かれているからよくわかる。

そんなことを考えていると日暮れが近くなってきた。
さぁぼつぼつ宿の方へ帰ろうか。 冷たい夕風が通り過ぎて行った。

湯快リゾート・パートⅡ

2013年12月07日 | Weblog
湯快リゾート・パートⅡ

いつ来ても、いつ入っても温泉は良い。湯の温度は何度あるのか知らないが、僕にとっては最適の温度で、ついつい長湯したくなる。

無色透明のお湯にひたって、心を解き放った。いつもは1人しか入れない湯船につかって開放感を味わうと言うことがまずない。
広い空間と湯ノ花の香りに、湯煙と透き通るお湯が目について、何か広々とした気持ちになる。

男湯のドアを開けて広い湯船を見渡せば、黒髪も、はげちゃびんも一様にタオルを四折にして頭に乗せらている。広い湯船といえども15人もこんな格好をしていれば、湯船は河童の池と間違うばかりである。
「人間カッパ いとおかし」清少納言ならこう書きそうだ 。

面白いのはこのリゾートホテルは、男湯と女湯が入れ替わることである。
おっちょこちょいの僕には、女湯に入れるとは興味深々の-話である。

普通女湯などは絶対に覗けない。そういう法律がある。そしてその法律に違反すれば犯罪になる。 だから女湯に入れると知ったときには少し興奮した。どこの風呂屋でも温泉でも、女湯に男が入ると言う事は考えられないことだから、これは一体どういうことかと頭をかしげた。
謎はすぐ溶けた。時間帯によって入浴する場所が変わるというだけのことである。
喜び勇んでというわけではないが、非常に興味を持って女湯の中に入っていくと中は男性用のものと少しも違わなかった。
当たり前の話である。
時間帯によって男湯になったり女湯になったりするわけだから、中の設備にはほとんど同一のものしか置いてない。

男湯の方にもベビーベッドが置いてあった。最初男湯に入ったときにベビーベッドが目についたから、ベビーベッドに寝かせるような子どもと入浴するお父さんがいるのかなと思ったが間違いだった。
女湯の残り香でもあるのかなと思ったけど、それは淡い期待で、とんでもない間違いであった。女湯がしまるとそれから一斉に清掃が始まる。その清掃が終わった後はこの女湯は男湯に変わる。

ひいき目に見て女湯の空間は確かに広いとは思うが、使い勝手は男湯の方が良いと思った。理由は単純である。どちらの方が時計が見やすい場所に設置されているか。ただそれだけのことである。

ぐだぐだつまらないことを考えたが、なにはともあれ、温泉の快適さは今日いちにちの命に喜びを与え、広げる。

愉快リゾート

2013年12月06日 | Weblog
愉快リゾート

パソコンで愉快リゾートと入力すると上記のように変換する。
本日僕がやってきた愉快リゾートは本名が湯快リゾートである。
1泊2日の旅だったけれども、本当に愉快リゾートであった。楽しかった。
温泉を目当てににやってきたのだが、庶民感覚の価格、食べ物、サービス.
そのどれもが僕の気にいったものばかりだった。

本日の宿泊地、湯快リゾート白浜御苑に到着したのは3時近かった。冬は日暮れが早いのでほんの1、2時間散歩できるところはないかと、フロントの観光案内パンフレットを見ていたら、歩いて10分ぐらいのところに、阪田山遺跡というのがあった。
この遺跡の見学記は後ほどに書くことにして、日暮れ間近な時に宿にたどり着いた。

「お帰りなさい.どちらに散歩されましたか。」
「ええ、ちょっと阪田山遺跡へ行ってきました」

彼女の素朴で素直な一言で僕の心に春風がふっと吹いた。
それから僕たち夫婦の写真のシャッターを、クリスマスツリーを背景にして押してもらった。
カメラを持っていっても、いつも僕が撮るから、妻の写真ばかりである。
夫婦が2人一緒に撮ってもらうとすると、誰か他の人にシャッターを押してもらうように頼まなければならない。ここでもまた彼女は機転を聞かせて、私がシャッターを押してあげますよ、と声をかけながらシャッターを押してくれた。旅という見知らぬ所では、ちょっとした親切がとてもありがたく感じられる。
今回の旅で夫婦揃って写真に写ったのはこの1枚だけである。


マニュアル通りのサービス方法のおもてなしも大切なことであるが、そんなことよりはもっと自然で、ありのままの姿で、心から接してもらえることがおもてなしの大きな値打ちであると思った。

日常生活で食べ物の贅沢と言うのは、どういうことか、いろいろ考えたことがあるが、
結論は体調に合わせて、好きなときに、、好きなだけ、好きなものを、食べるというのが食べ物の最高の贅沢ではないだろうか。
山海の珍味を目の前にして、という贅沢もあるが、僕はむしろお仕着せの山海の珍味よりは、自分の体調や自分の気持ちにあわせて,好きなものを好きなだけ食べると言うのが、食べ物の最高の贅沢だと考えている。

おいしそうな食べ物を目の前にして贅を凝らして作られた料理を食べることの喜びはもちろんのことではあるが、何よりもその日の体調に合わせて、自分の好きなものを、好きなだけ食べられるというのが最高だとぼくは考えている。
そしてここではバイキング形式で自分の好きなものを選んで好きなだけ食べた。庶民の味としては、この価格でこれだけの物を食べることが出来たらもう僕は満足だ。

一言でリゾートと言ってしまうと、その中身の極め細やかなことがわからなくなるが、、要は、温泉に浸かって心を癒し、日頃の憂さを解き放ち、体を休めて癒やし、好きなものを好きなだけ食べて、腹を満腹にし、素朴な人情のふれあいがあれば、最高の旅だと僕は思っている。

つけくわえればフロントには愛想のいい美人のM嬢がいる。見ているだけで心がワクワクしてくる。バスに乗る前にお礼の挨拶をしようと思ったが、彼女は接客に忙しそうだったので、お礼を言わず仕舞いだった。

満足の旅。愉快リゾート・湯快リゾート・白浜御苑の旅。

今の音楽状況を立て直す

2013年12月05日 | Weblog
今の音楽状況を立て直す。

いつの時代でも歌は人々によって求められている。歌は人々の思いを乗せて月日を送っていく。
そのためには良い歌、例えば「花は咲く」のような歌を、数は少なくてもいいから、質の良いものを志向することである。

良い歌を息長く、決して回転お早くさせないこと.繰り返し繰り返し、聞かせる、歌わせることである。

少し前までは女性の場合は20歳を過ぎるとオバハンと言われる時代があった。40代50代では化石とさえ言われる時代もあった。
人生80年代を迎えているこんにちに、おいてである。これは誰が考えても不合理な話である。
その反動かどうかはしらないが、今は青年、中高年といった具合に唄の相が若年はポップス、大人は演歌という風に分化してしまっている。
少子化の影響もあるのかも知れないが、若年層が歌う歌も少なくなってきたような気がする。今の若い子が歌う歌は詞も曲も起承転結が不明瞭で、
心に残るものがない。フオークさえも中高年の唄になっている。
出来ることなら、全世代共通で歌えるような唄がほしい。

マスコミは世相の移り変わりを最も敏感に反映するが、一方では、世相をリードする面もある。特にNHKは売上高や利益を追求しているわけではないから、少々古くさくてピント外れだと言われようとも、良い歌をじっくり育てるべきである。
そこへ立ち戻って、すべてを原点に戻すことが、案外、起死回生の妙薬となるかもしれない。

やっかいな核のゴミ

2013年12月04日 | Weblog
やっかいな核のゴミ

1,処分場の確保問題
地方自治体に声を掛けて、立候補するように求めたが、どこも立候補しなかった。そこで処分場問題は白紙になり、それらしきところを政府がさがすことにした。日本の場合地震国だから10万年の間にどれほど大きな地震が幾たびやって来るか判らない。処分場が決まったとしても、処理の仕方が未だはっきりしない。無害になる10万年までには何が起こるか知れたもじゃない。その一方で、10万年の時間の中では人類はモット安全確実な処理格納法を編み出すに違いないとも空想をする。

2,処理費用は
原発電力会社が全面的に責任を負うと思うが、多分国家の追加支援がなければ、どうにもならない時が来るはずだ。つまりり最終的には国民が負担しなければならないのだ。この費用は当然原子力発電のコストになる。火力、水力、新エネルギ発電に比べて、どうしてコストが安いと言えるのか。

3,福島事故に学んだはずだ
直接被害金額 間接被害金額 金銭では購う事が出来ない被災者の苦しみ、生活破壊等々

こういうことを考えると代替エネルギーの開発を加速させ、一方では省エネによる節電で所要の電力をまかなえる様に総力を挙げて取り組み 原発を0にするように期限を切って、そのための諸政策を進めなくてはならない。

核のゴミ処理、10万年

2013年12月03日 | Weblog
核のゴミ処理、10万年

現代技術で核のゴミの放射線を無害化するのに10万年かかるそうである。
人類の誕生が百万年昔。新人類クロマニヨンが三万年昔に出現した。
BC 20000年先土器文化の時代に日本列島が大陸から分離。形成された。
これらを考えると10万年というのがどれだけ膨大な時間かがわかる。
既に我が国では核のゴミが1万7,000トンできたそうだ。

昨夜報道ステーションでキャスターが現地フランス北西部の1寒村に建設されつつある核のごみ処理施設、地下500メーターのトンネルからフランス人の技術者の説明を受けながら、40分にわたって生放送後してくれた。
核のゴミから発せられる放射能を直接体に浴びると10秒から20秒で人間は死んでしまうそうだ。

現実に核のゴミが発生しているわけだからいずれにせよそれを処理格納する場所や施設が必要になる。それは避けられない。

昨夜の報道を聞いて、たとえフランスに模範的な収納処理場ができたとしても日本とは地質が違うから、そのまま応用できるかどうかが問題である。
と言うのは、欧州の地盤と日本のように地震が多発する地盤とはおのずと条件が違うからである。単純に考えれば地震発生の地盤というのは大きな壁となって我々の前に立ちはだかる。収納する場所の選定や施設を作るむつかしさを物語る。

小泉元首相の反原発の根拠がここにある。どんなに譲歩しても10年先を目安に原発を全廃していくというのが正しい政治のあり方ではあるまいか。
このまま仮に原発を続けていくとすれば、その膨大な核のゴミ処理費のために、われわれ世代は子孫にどれだけ大きな迷惑をかけるか考えてみるが良い。
核のゴミを無害化にするには現代の技術では10万年かかるそうだ。
フランスの技術者が言っていた。10万年先のことなど考えられない。せいぜい100年くらいしか見通しが立たない。そーゆー現実の中でフランスは核のゴミの処理研究を行いつつある。

以上のような核のゴミ処理問題だが、こういうことを踏まえて将来の原子力発電政策を考える時、やはりこれから先10年位の期限を切って原発を全廃する方向へもっていくのが真っ当な政治ではないかと思う。

歌の世界と商業主義

2013年12月03日 | Weblog

歌の世界と商業主義

だいたい今の歌謡界は商業主義に振り回されすぎる。少しでも多く売りたいという発想から、回転のスピードが速い。新曲も3ヶ月経つと、たちまち新曲ではなくなるという。 。

確かに質の悪いものは三月も経てば嫌気がさしてくる。だから次にまたという新曲を出す。粗製乱造なのである。鉄砲も数打ちゃ当たる式でヒット曲を狙うので、とにかく目新しいもの、変わったものだけがクローズアップされて、心を歌う歌なんて問題にされず、どんなに良い歌でも3ヶ月の回転ペースに乗せられて、お払い箱である。

唯一の例外は「花は咲く」である。被災者を勇気つけ、連帯感をつくり上げるこの歌、はNHKで毎日のように放送されているが飽きることはない。。小学生から大人まで、自分も一緒になっていつの間にか歌っている
良い歌を飽きるまで、しつこく繰り返し繰り返しかけて、これでもかこれでもか式で、売り上げを伸ばすことができないものなのだろうか。

今の状態は1種の麻薬現象のようなものである。薬が切れる前に薬を打つ。そんな状況の下で1億総作曲家の名のもとに、駄作が量産されそれが商業上のベルトコンベヤーに乗って世に出て行く。
多様化とか、世の中のテンポが早くなったとか、人はいうが、それは作る側の論理である。いくら世の中が変わったといってもテンポが早くなったといっても、古来人間の心なんてものはそんなに変わるものでは無い。売らんかなと思うからこそ、うわべの模様を変えて次から次へと粗製乱造を繰り返しているだけのことである。

それが証拠にカラオケで歌われる歌を調べてみれば良い。何十年も昔に作られた歌が今もなお、多くの人々によって歌われているではないか。