8月8日は7時50分に現地の旅行会社がホテルにピックアップに現れ、隣国ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルに日帰りバス旅行の日。昨晩は部屋に入ったのが深夜で、このホテルのロケーションと部屋がいかに素晴らしいかを十分認識せずベッドに潜り込んだ。明け方旧市街の教会の鐘の音と海鳥の鳴き声と波の音で目が覚めて、窓を開けて目に入ってきた景色を見て感動した。ザグレブは小さな首都で、そのなかでもバスタブ有り・交通至便・巨大ホテルチェーン以外のホテルという基準で選んだホテルだったので、ホテル・ドブロヴニクは便利な普通のホテルだった。このエクセルシオールはアメニティもあたしの大好きなロクシタン、バスローブもあるしバスタブとシャワーが別々、広さも十分、その上バルコニーから旧市街がいつでも堪能でき、目の前のアドリア海にはヨットが停泊中、と、夢のようなホテルだった。
予定通り旅行会社が現れ、モスタルへの旅の始まりだ。ドブロヴニクはクロアチアの中では南端にありしかも飛び地。ヴェネチアとアドリア海の覇権を争う海洋・交易都市国家だった時代に、ヴェネチアの攻撃から身を守るため、ドブロヴニクの北の土地をオスマントルコに割譲し、自分より強大なオスマントルコを「傭兵」化した。そのためクロアチアでありながらも、ドブロヴニクは途中ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境を越えなければ、陸路スプリットにもザグレブにも行くことが出来ないのである。
なので、今日はクロアチアから一旦ボスニアに入り再びクロアチアに戻ってモスタルに行く前に再度ボスニアに入ります。帰りも同様に一度クロアチアに入り再度ボスニアを通ってからクロアチアに戻ることになります。都合6度国境を超えることになり、「理論上は3回もボスニアに行った」といっても嘘じゃないお得な一日になります、とガイドが説明して笑いを誘った。
少し離れた場所の橋の上からは、スタリモストがきれいに見える。ネトレヴァ川両岸に発展したモスタルは交易で栄え、15世紀中頃からはオスマン帝国に支配され、軍事の要衝としても発展した。1566年に吊り橋が石橋に架け替えられたものの、1993年ボスニア紛争時に砲撃で破壊される。トルコでオリジナルの石橋の図面が見つかったことや、石切り場の場所が特定できたことなどから、ユネスコなどの復元支援は同じ図面・同じ石を使って行われたため、「破壊前の橋より新しいけど古い」橋に復元されたと歓迎されているという。トルコはモスタルに領事館を置き、石橋保守修復の技術交流を行っているという。
今でこそエキゾチックな町並みと世界遺産登録で観光客が大勢訪れる観光地だが、つい20年前には隣人が殺し合う激戦の地だったこの地を、旅行会社のガイドは「過去のとらわれ人」と呼んだ。世界遺産登録により町並みを変えることは出来ず、当然観光地としての収入や雇用はありがたいとしても、誰もが忘れたい記憶を忘れさせてくれない痕を残したままにしなければならない生活。外から訪れるものは「平和の象徴」などと簡単に口にするけど、今でも川を挟んでキリスト教徒とイスラム教徒が別々に住んでいるモスタルの住人にとっては、橋一つで平和を語れるほど生易しいものではないはず。観光客って薄っぺらいよな、と自嘲的な気分になる。
右傾化が指摘される日本、戦争のこと知らない人がゲーム感覚で虚勢張ってるだけだろうけど、悲惨な思いをさせられるのは決定権を持たない市井の人々。選挙の時だけ「票」としてお願いされるけど、センセは身分が保証されたらあたしたちの安寧なんて知ったこっちゃなくなる。「主権者」のはずなんだけどね、我々。事が起こると一番痛みを味わう存在。日本の学校で戦後の歴史を教えないのは、日本を「過去のとらわれ人」にせず、普通に戦争できる国に改造するためだったのかも、と思えてくる。帰りの車中ではいろいろと考えさせられた。薄っぺらかろうがなんだろうが、この目で見ることに意味があるのだと思えた。
車は再び国境を3度越えて、ホテルに戻ってきた。主人は日本を出る前から「アドリア海で泳ぎたい」との希望を表明していたので、まだ明るいからプライベートビーチに行くことにして、部屋で水着に着替えて向かったのは・・・、ビーチというよりはテラスの端に金属の階段が取り付けられた砂浜無しのプール的入り方をする海だった。しかも足がつかないくらい深い(笑)。やっほ~とか言いながらあたしも暫く海に浸かってアドリア海を満喫、そして、写真を撮ってほしいという主人を何枚か撮影
心地よい疲れを感じつつ、「明日はいよいよドブロヴニク散策だね~」などと会話しつつ徒歩で新市街のホテルに戻りましたとさ。
目の前に見える島と明け方の旧市街
朝食は海に面したベランダで。シャンペンもあったけど自重(苦笑)
予定通り旅行会社が現れ、モスタルへの旅の始まりだ。ドブロヴニクはクロアチアの中では南端にありしかも飛び地。ヴェネチアとアドリア海の覇権を争う海洋・交易都市国家だった時代に、ヴェネチアの攻撃から身を守るため、ドブロヴニクの北の土地をオスマントルコに割譲し、自分より強大なオスマントルコを「傭兵」化した。そのためクロアチアでありながらも、ドブロヴニクは途中ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境を越えなければ、陸路スプリットにもザグレブにも行くことが出来ないのである。
なので、今日はクロアチアから一旦ボスニアに入り再びクロアチアに戻ってモスタルに行く前に再度ボスニアに入ります。帰りも同様に一度クロアチアに入り再度ボスニアを通ってからクロアチアに戻ることになります。都合6度国境を超えることになり、「理論上は3回もボスニアに行った」といっても嘘じゃないお得な一日になります、とガイドが説明して笑いを誘った。
旧市街を抜けてドブロヴニク北部の新港、大型クルーズ船が停泊中
クロアチアからボスニアに入る国境
ボスニアのネウムという町のホテルのカフェでトイレ休憩
ボスニア国内、スイカ運搬中
途中イスラム教徒の町を見学
モスタルではまずトルコ風の民家を見学、東洋の香りがする
オスマン時代の石橋スタリモストが目に飛び込んできた
少し離れた場所の橋の上からは、スタリモストがきれいに見える。ネトレヴァ川両岸に発展したモスタルは交易で栄え、15世紀中頃からはオスマン帝国に支配され、軍事の要衝としても発展した。1566年に吊り橋が石橋に架け替えられたものの、1993年ボスニア紛争時に砲撃で破壊される。トルコでオリジナルの石橋の図面が見つかったことや、石切り場の場所が特定できたことなどから、ユネスコなどの復元支援は同じ図面・同じ石を使って行われたため、「破壊前の橋より新しいけど古い」橋に復元されたと歓迎されているという。トルコはモスタルに領事館を置き、石橋保守修復の技術交流を行っているという。
徒歩でスタリモストに向かうと
内戦の痕が目につくようになり
土産物屋の並ぶのどかな風景と内戦の痕、気持ちの折り合いがつかない
16世紀に完成したカラジョズ・ベグ・モスク
今でこそエキゾチックな町並みと世界遺産登録で観光客が大勢訪れる観光地だが、つい20年前には隣人が殺し合う激戦の地だったこの地を、旅行会社のガイドは「過去のとらわれ人」と呼んだ。世界遺産登録により町並みを変えることは出来ず、当然観光地としての収入や雇用はありがたいとしても、誰もが忘れたい記憶を忘れさせてくれない痕を残したままにしなければならない生活。外から訪れるものは「平和の象徴」などと簡単に口にするけど、今でも川を挟んでキリスト教徒とイスラム教徒が別々に住んでいるモスタルの住人にとっては、橋一つで平和を語れるほど生易しいものではないはず。観光客って薄っぺらいよな、と自嘲的な気分になる。
その橋を見ながら川沿いのカフェで昼食
トルコ風コーヒーにもトライ
カメラの望遠機能を使うと、橋の一部にも砲撃の痕が確認できる
新市街にも「危険な廃墟」の看板のある建物
右傾化が指摘される日本、戦争のこと知らない人がゲーム感覚で虚勢張ってるだけだろうけど、悲惨な思いをさせられるのは決定権を持たない市井の人々。選挙の時だけ「票」としてお願いされるけど、センセは身分が保証されたらあたしたちの安寧なんて知ったこっちゃなくなる。「主権者」のはずなんだけどね、我々。事が起こると一番痛みを味わう存在。日本の学校で戦後の歴史を教えないのは、日本を「過去のとらわれ人」にせず、普通に戦争できる国に改造するためだったのかも、と思えてくる。帰りの車中ではいろいろと考えさせられた。薄っぺらかろうがなんだろうが、この目で見ることに意味があるのだと思えた。
車は再び国境を3度越えて、ホテルに戻ってきた。主人は日本を出る前から「アドリア海で泳ぎたい」との希望を表明していたので、まだ明るいからプライベートビーチに行くことにして、部屋で水着に着替えて向かったのは・・・、ビーチというよりはテラスの端に金属の階段が取り付けられた砂浜無しのプール的入り方をする海だった。しかも足がつかないくらい深い(笑)。やっほ~とか言いながらあたしも暫く海に浸かってアドリア海を満喫、そして、写真を撮ってほしいという主人を何枚か撮影
立ち泳ぎしてアドリア海に浮く主人(笑)
夜の帳が下りる頃旧市街に向かった
まずは腹ごしらえ、旧港のテラスのロカンダ・ペスカリヤへ
食後は旧市街を去りがたくあてどもなく散策
心地よい疲れを感じつつ、「明日はいよいよドブロヴニク散策だね~」などと会話しつつ徒歩で新市街のホテルに戻りましたとさ。
出たり入ったり、ややこしいですね。国境越えの時、パスポート見せるのですか?
プライベートビーチ楽しみにしてたのですが、足が立たない深い海・・・そりゃ私には無理ですね。(いえ、行かないんですけどね)(笑)
厳しいチェックには逢いませんでした。
帰りに一度だけ全員のパスポートを集めて提出させられましたが
ガイドが冷えたミネラルウォーター1本で買収したから
特急で処理してもらったと豪語してました。
真偽のほどは不明ですが。。。
一国二制度の中国の香港とシンセン国境のパスポートコントロールのほうが
よっぽど厳重かつ時間がかかりましたよ。