この夏、たった一つの予定が 「フランス映画 『めぐりあう日』 を観る」
だったので、8月31日になって慌てて岩波ホールに行きました。
公式サイトです。(予告編あり)
↓
http://crest-inter.co.jp/meguriauhi/
この映画は、「冬の小鳥」のウニー・ルコントが監督・脚本を担当している。
映画の原題は「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」。
(思潮社版、笹本孝訳は「わたしは、おまえが狂熱的に愛されることを、
心の底から祈っている」)
英題は、「Looking for her」。
原題は、アンドレ・ブルトンの著書 『狂気の愛』 の終わりにある、
娘にあてた手紙から取ったのだという。
プログラムの中で、次のように書いている。
「私にとって特別なこの文章も突然に記憶から浮かび上がってきて、
映画の題名として不可欠のものとなりました。
すぐに、私は映画がこの手紙の一節で終わるだろうということも直感しました」
そして実際に映画の最後では、美しい映像とともに、この『狂気の愛』の一節が朗読される。
この映画にとって、原題がいかに大切なものであるかが、観終わってから分かる。
タイトルが長すぎるのなら、せめて英題と同じ「Looking for her」にして欲しかったです。
「めぐりあう日」では曖昧で、甘すぎて、映画にそぐわない気がしました。
映画では産みの親を知らずに育った女性が、実母を探すためにフランス北部の港町
ダンケルクに息子を連れて引っ越してくる。
だが「匿名出産」という壁に阻まれて、なかなか実母の居場所にたどり着けない。
映画は極力言葉を排し、安易な感情移入を排し、まるでドキュメンタリーのように進んでいく。
ダンケルクは第二次世界大戦でヒトラーに破壊された町で、戦後、町の復興のために
様々な人種が移り住むようになった移民の町である。
息子が転校した学校も、人種によるいじめが横行している。
そして彼も、容姿からアラブ系に見られていじめに遭う。
少しずつ事実が明らかになっていく過程で、主人公の母親はこの町に出稼ぎに来ていた
アラブ系の妻帯者と恋仲になり、彼女が生まれたことが分かる。
彼女はアラブ系の容姿をしていないが、その息子に受け継がれていたのだ。
私はこのことに衝撃を受けた。
主人公は、実の親の名前や住所どころか、国籍も人種すら知らずに生きてきたのだ。
自分のルーツを知らされないまま生きて来なければならなかった不確かさ、そして孤独。
更にはこの映画の監督であるウニー・ルコントは、9歳の時にフランス人の養女になり、
韓国という国を捨て、使い慣れた言葉を捨て、彼女の周りの人々とも離れ、
言葉が通じない、生活習慣が全く違う、知っている人が誰もいない国に来て、
養父母がいるとはいえ、9歳の女の子がたった一人で生きていかなければならなかったのだ。
(フランスに来るまでのことは、映画「冬の小鳥」に描かれています)
安易な同情、安易な共感、そして観客を誘導しようとする安易な作為、こうしたものを
一切排したこの映画に、観終わった後に微かな違和感を覚えた。
この違和感についてずっと考えていたのだが、今はそれが何となく分かる気がする。
それは、私自身がどんなに否定してこようとも、お膳立てされた感動、お膳立てされた結末、
お膳立てされた絆に、馴(な)らされてしまっていたのだ。
それで、観終わった後に、やや突き放されたように感じたのだと思う。
この映画は、一人の人間のいいようのない寂しさや苛酷さ、そしてその尊厳や美しさ、
更には心の底にある熱く強い思いを、静かに多弁に語っている。
フランス映画の奥行きの深さを感じさせる作品だ。
主人公のセリーヌ・サレットと、母親役のアンヌ・ブノアが素晴らしい。
主人公は理学療法士をしているが、偶然、何も知らずに実母に施術することになる。
その時のマッサージの手の動きが、言葉以上に多くを物語る。
あまりに気持ちが良さそうなので、私もマッサージを受けたくなったほどだ。
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(画像はお借りしました)
だったので、8月31日になって慌てて岩波ホールに行きました。
公式サイトです。(予告編あり)
↓
http://crest-inter.co.jp/meguriauhi/
この映画は、「冬の小鳥」のウニー・ルコントが監督・脚本を担当している。
映画の原題は「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」。
(思潮社版、笹本孝訳は「わたしは、おまえが狂熱的に愛されることを、
心の底から祈っている」)
英題は、「Looking for her」。
原題は、アンドレ・ブルトンの著書 『狂気の愛』 の終わりにある、
娘にあてた手紙から取ったのだという。
プログラムの中で、次のように書いている。
「私にとって特別なこの文章も突然に記憶から浮かび上がってきて、
映画の題名として不可欠のものとなりました。
すぐに、私は映画がこの手紙の一節で終わるだろうということも直感しました」
そして実際に映画の最後では、美しい映像とともに、この『狂気の愛』の一節が朗読される。
この映画にとって、原題がいかに大切なものであるかが、観終わってから分かる。
タイトルが長すぎるのなら、せめて英題と同じ「Looking for her」にして欲しかったです。
「めぐりあう日」では曖昧で、甘すぎて、映画にそぐわない気がしました。
映画では産みの親を知らずに育った女性が、実母を探すためにフランス北部の港町
ダンケルクに息子を連れて引っ越してくる。
だが「匿名出産」という壁に阻まれて、なかなか実母の居場所にたどり着けない。
映画は極力言葉を排し、安易な感情移入を排し、まるでドキュメンタリーのように進んでいく。
ダンケルクは第二次世界大戦でヒトラーに破壊された町で、戦後、町の復興のために
様々な人種が移り住むようになった移民の町である。
息子が転校した学校も、人種によるいじめが横行している。
そして彼も、容姿からアラブ系に見られていじめに遭う。
少しずつ事実が明らかになっていく過程で、主人公の母親はこの町に出稼ぎに来ていた
アラブ系の妻帯者と恋仲になり、彼女が生まれたことが分かる。
彼女はアラブ系の容姿をしていないが、その息子に受け継がれていたのだ。
私はこのことに衝撃を受けた。
主人公は、実の親の名前や住所どころか、国籍も人種すら知らずに生きてきたのだ。
自分のルーツを知らされないまま生きて来なければならなかった不確かさ、そして孤独。
更にはこの映画の監督であるウニー・ルコントは、9歳の時にフランス人の養女になり、
韓国という国を捨て、使い慣れた言葉を捨て、彼女の周りの人々とも離れ、
言葉が通じない、生活習慣が全く違う、知っている人が誰もいない国に来て、
養父母がいるとはいえ、9歳の女の子がたった一人で生きていかなければならなかったのだ。
(フランスに来るまでのことは、映画「冬の小鳥」に描かれています)
安易な同情、安易な共感、そして観客を誘導しようとする安易な作為、こうしたものを
一切排したこの映画に、観終わった後に微かな違和感を覚えた。
この違和感についてずっと考えていたのだが、今はそれが何となく分かる気がする。
それは、私自身がどんなに否定してこようとも、お膳立てされた感動、お膳立てされた結末、
お膳立てされた絆に、馴(な)らされてしまっていたのだ。
それで、観終わった後に、やや突き放されたように感じたのだと思う。
この映画は、一人の人間のいいようのない寂しさや苛酷さ、そしてその尊厳や美しさ、
更には心の底にある熱く強い思いを、静かに多弁に語っている。
フランス映画の奥行きの深さを感じさせる作品だ。
主人公のセリーヌ・サレットと、母親役のアンヌ・ブノアが素晴らしい。
主人公は理学療法士をしているが、偶然、何も知らずに実母に施術することになる。
その時のマッサージの手の動きが、言葉以上に多くを物語る。
あまりに気持ちが良さそうなので、私もマッサージを受けたくなったほどだ。
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(画像はお借りしました)