無形は、簡単に言えば、ブランド、歴史・・有形は、技術力、機動力・・・
情報が発達していないのであれば、技術力を重きを置くだろう。
今は、情報は世の中にあふれかえっている。
誰でも、発信できる。
つまり、発信できるというだけではある。
安易な、「できる」が「俺様世代」をふやし、「私、女優よ世代」を育てる。
しかし、彼らは、いつか、「もの足りなさ」という壁に当たる。
「無形価値」「有形価値」双方に同じく、「もの足りなさ」を感じるかも知れない。
技術力だけではだめだ・・・
単なる老舗だけではだめだ・・・
そこに、双方に「もの足りなさ」が発生する。
過去のものに、磨きをかけて、再発見する、もしくは、原点回帰、という手法がとられる。
一時的に、その「もの足りなさ」を埋めることはできる。
その処方箋は、ある意味、どこでもあるし、わかりやすい。
僕は、「同一化価値」というか、目の前のことについて、「一緒に考える」
多分、やりたくないことのひとつでしょう。
無形、有形のどちらかに偏っていれば、当然、「一緒に考える」という行為は、めんどくさくなる
自分に価値を置くからだ。
相手には価値は置かない。
「一緒に考える」ということは、双方に価値を置かなくては成り立たない。
不安がある人と助けようとする人
過去にこだわる人と未来にこだわる人
地元にこだわる人と都会にこだわる人
日本にこだわる人と外国にこだわる人
「価値」がなくなるほどの「価値」がある、そのことが多分「一緒に考える」ということだろう。