↑畑ノ原窯跡(復元) 波佐見町村木郷
波佐見に陶芸の技術が伝わったのはおよそ400年ほど前。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に連れ帰った朝鮮の陶工達によって伝えられたといわれています。タイトルにある「登窯(のぼりがま)」とは、上の写真のようにいくつもの部屋が階段状に並んでいる窯(階段状連房式登窯)のことで、江戸時代から昭和初期にかけて陶磁器を大量生産するために使われていたそうです。
内部の構造はこんな感じです↓
しばらく波佐見町に住んでいたこともあり、焼き物の歴史に興味を持った私は、昔からの窯元が多く軒を並べる中尾山に何度となく足を運びました。そこではお気に入りの窯元で器を購入したり、地元の人たちといろんなお話をしたり、昔の窯跡を訪ねたり。自然もたくさん残っていて、訪れる度に四季を感じることができるステキな場所です。そこにある中尾上登(なかおうわのぼり)窯跡は、今は畑や民家になっていて案内板がないと気づかないような所ですが、全長が160メートルもあり、世界最大規模の登窯といわれてきました。
中尾上登窯跡 ↑高温で焼けた跡?
ところが今、それよりも大きな規模の登窯が発掘されているというのです。その名も大新窯(おおしんかま)跡。四季舎の気さくなおじさんに場所を教えてもらい、最近作られたと思われる表示をたどっていくと、竹藪の方へ入っていきます。本当にこんな所にあるのか?と思いながらもさらに表示をたどっていくと…
ありました
畑ノ原の登窯とは比較にならないほど一つ一つの部屋が広く、写真にも入りきれません。たまたま発掘調査中の方がいらっしゃったのでお話を伺ったところ、幅約8メートル、奥行き約5メートルの部屋が階段状に39室も並んでいるとか。全長は170メートルを超え、その大きさからこの大新窯跡が世界最大規模の登窯であると推測されるそうです
窯の中にはいろんなものが落ちていました。その名も、タコハマ・ヌケ・トチン
ちょうど回収される寸前でした
○の中のようにヌケやトチンの上にタコハマをのせ、4つの足の部分に茶碗を1つずつ並べたものを部屋にズラリと敷き詰め、一度に大量の茶碗を焼いたそうです。ヌケやトチンが安定するように、当時床には砂が敷き詰められていたそうです。
同じ登窯でも畑ノ原登窯と異なるのは屋根の素材。畑ノ原登窯は土でつくられているのに対し、大新窯は全て煉瓦(トンバイ)でつくられていたそうです。現存する同じつくりのものが永尾郷にあるこの智恵治(ちえじがま)窯跡で、この窯は昭和初期まで使われていたそうです。近くで見ると結構大きい!
下の写真は部屋と部屋の間にある壁。火はこんな感じで通炎孔を通って下から上の部屋へと上っていきます。下の部屋から順に焼き上げていく仕組みです。全部の部屋が焼き上がるのに2ヶ月くらいかかったとか。長いなぁ
陶磁器を焼くのに欠かせないのが窯焚き職人。窯焚き職人のお仕事は窯の温度調節です。下の部屋がある程度に達すると、次の段の火床に薪をバンバン投げ入れ、窯の温度をどんどん上げます。これを「攻め焚き」というそうです。幅8メートルの部屋の入り口は片側にしかなく、焚き口といわれる狭い穴から火床に向かって均等に薪を投げ入れる様はまさに神業調査員さんのお話によると、シュートとカーブを使い分けて薪が交互に並ぶように投げていたとか火加減によって作品の出来が決まるので、熟練した職人さんはかなり尊敬されていたそうです。
これらは窯から出てきた失敗作。焼成中に歪んでしまったり割れてしまったり。窯から出てくるまで失敗か成功か分からないのが焼き物の醍醐味、なのかな?
でも長い時間かけて作ったのに、窯から出てきた時に失敗していたらショックだろうなぁちなみに右側のお茶碗の絵柄は筆先を二つに割って描いた柄だそうです。絵付け師さんも筆使いをいろいろと工夫していたのですね江戸時代に波佐見で大量につくられたこのような茶碗は「くらわんか腕」といって、全国各地で広く愛用されていたそうです。
陶磁器の生産が始まって数百年経った今も、波佐見の職人さん達はその伝統を守りつつ、日々新しいものを作り出す努力をされています。手作りの陶磁器を見ていると、色も形も絵柄も一つ一つ違って、職人さん達の個性や人柄を感じます。もともとは水と土と火から人によって生み出された焼き物は、まさに人と自然とのコラボレーション昔の人ってすごい!
今回は人のすばらしさとあたたかさを感じた旅でした。中尾山で出逢った皆さん、いろいろと楽しいお話をありがとうございましたまた伺います!