秋月辰一郎(あきづき・たついちろう)氏は
医師で 平和運動家、大正5年生まれ。
長崎に原爆が落とされた時 勤務する浦上第一病院で被爆した。
平成17年10月 89歳で死去。
本当は 秋月氏をよく知る人や 著作を精読した人が書いた
伝記とか評論を読んだ方が
詳しく正当に理解できるのかもしれない、と思った。
けれど これだけいろんな人が
氏の著作を 自分の良いように(?)引用してるので、
私は 氏の言葉そのままに触れたいと思った。
枝豆(茶豆)の花。
今年のは 紫色の花が咲いた。
コンパニオン・プランツとして キュウリと一緒に届いたが、
都合により(笑)、別々に栽培している。
玄米屋さんのブログでは
『死の同心円-長崎被爆医師の記録』(講談社)は
絶版という事だったが、
「長崎文献社名著復刻シリーズ 2」 として、
なぜか、去年 復刊されている。
が、どうやら品切れらしく、
アマゾンには出物があるが
それなりの値段がするので、注文する気は出なかった。
氏の著作としては 他に
『長崎原爆記――被爆医師の証言』というのが
弘文堂から出版されており(昭和41年)、
それが 平成3年に 『日本の原爆記録』という 全20巻のうちの
第9巻に収めれれているらしい。
これも4500円以上するが
それが まあ
今年の災害を見通していたわけでもあるまいに、
去年の11月に 単行本として発売されてていた。
(発行:日本ブックエース、発売:日本図書センター、平和文庫、1050円)
私は この本を読んでみる事にした。
この本は、原爆投下直後の 秋月医師の 日記のようなものだ。
自身が
「被爆医師である私の1年間にわたる原爆白書といえると思う。」
と綴っている。(p3、まえがき)
当時 氏の 原子爆弾についての知識は 非常に漠然としたもので、
爆風によって傷つかなかった人々が
次々と 原爆症で亡くなっていくのを
「毒ガスを吸ったか、赤痢か、紫斑病か」
と その治療法に思い悩んでいたのだった。
さて、それでは、氏は
「玄米」と言っているのか、
「味噌」と言っているのか、
それとも「塩」と言っているのか、
食べ物・飲み物が出てくるところを チェックしてみようと思う。
本書は
「八月に入ると、土用照りの暑い日が続いた。」
と始まる。
長崎への原爆の投下は
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時02分。
ミニバラ。
この頃 色が薄くなってきた。 栄養不足?
●当時、病院の食事は 玄米の二回食であった。 朝食がこれから始まろうとしていた。(p13)
●「水を飲んではいかんぞ!」 私は大声でどなった。(p31)
(秋月医師は 川の岸辺に集まった被爆者の群れに向かって怒鳴っている。
ここで唐突に「水を飲むな」という言葉が出てくるので 面食らった。
なぜ水がいけないか、の説明は この本では欠如している。常識なのか?)
●「先生! これ食べさせてもいいでしょうか」 見れば、畑に落ちていたきゅうりを、三つ四つ持っている。「うん、食べさせなさい」 焦げた木下先生が力なくきゅううりを食べる。私もきゅうりを一つかじった。 今朝から何も食べていなかった。(p31)
●「おーい! 飯を食おう。 ご飯を食べよう!」 私は大きな声で怒鳴った。 きゅうりを少しかじっただけで、今日は朝からまだ何も食べていない。―――― 看護婦と軽症患者の女の人が 平釜でご飯を炊き、南瓜(カボチャ)の味噌汁もつくった。 梅干を入れて 握り飯を作った。 ―――― 私は、患者に食事を与えた。 握り飯と味噌汁を配る。 ―――― 玄米の握り飯と味噌汁の宴。―――― お茶も飲んだ。(p37~39)
●「先生、酒は飲まんですか」という声が聞こえる。 ―――― 「配給酒がこれだけ台所の隅にありましたけん」 ―――― 庭の草の上で茶碗酒を飲んだ。(p46)
●村井看護婦たちは元気の良い賄婦たちと炊き出しである。 午前十一時と午後五時の二回、玄米飯の南瓜(カボチャ)の味噌汁、わかめの味噌汁をつくっている。(p61)
●「少しお酒を飲みませんか」真暗な中で一杯ずつ飲む。(p64)
●壕の中にたくさんの人が寝ている。彼らを治療して、疲れて病院に帰る。 玄米飯と、味噌汁を食べる。(p81)
●「とにかく治療はしなければならない」私は看護婦と玄米飯をたべながらつぶやく。(p89)
●玄米飯と味噌汁を食べていると、庭のむこうから、(p92)
●炎天下で南瓜(カボチャ)だとか茄子(ナス)には、ずいぶんと放射能が付着したであろう。 それを味噌汁にして食べる(p98)
●修道士、神学生、看護婦、入院患者と玄米の握り飯を食べる。(p110)
p119から、「秋月式治療法」と題して
「レントゲン宿酔(レントゲン・カーター)」と塩についての記述があるので、
そこからは次回に。
医師で 平和運動家、大正5年生まれ。
長崎に原爆が落とされた時 勤務する浦上第一病院で被爆した。
平成17年10月 89歳で死去。
本当は 秋月氏をよく知る人や 著作を精読した人が書いた
伝記とか評論を読んだ方が
詳しく正当に理解できるのかもしれない、と思った。
けれど これだけいろんな人が
氏の著作を 自分の良いように(?)引用してるので、
私は 氏の言葉そのままに触れたいと思った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/c9/da6c1abc978fb7ea73acb53cc8680cfb.jpg)
今年のは 紫色の花が咲いた。
コンパニオン・プランツとして キュウリと一緒に届いたが、
都合により(笑)、別々に栽培している。
玄米屋さんのブログでは
『死の同心円-長崎被爆医師の記録』(講談社)は
絶版という事だったが、
「長崎文献社名著復刻シリーズ 2」 として、
なぜか、去年 復刊されている。
が、どうやら品切れらしく、
アマゾンには出物があるが
それなりの値段がするので、注文する気は出なかった。
氏の著作としては 他に
『長崎原爆記――被爆医師の証言』というのが
弘文堂から出版されており(昭和41年)、
それが 平成3年に 『日本の原爆記録』という 全20巻のうちの
第9巻に収めれれているらしい。
これも4500円以上するが
それが まあ
今年の災害を見通していたわけでもあるまいに、
去年の11月に 単行本として発売されてていた。
(発行:日本ブックエース、発売:日本図書センター、平和文庫、1050円)
私は この本を読んでみる事にした。
この本は、原爆投下直後の 秋月医師の 日記のようなものだ。
自身が
「被爆医師である私の1年間にわたる原爆白書といえると思う。」
と綴っている。(p3、まえがき)
当時 氏の 原子爆弾についての知識は 非常に漠然としたもので、
爆風によって傷つかなかった人々が
次々と 原爆症で亡くなっていくのを
「毒ガスを吸ったか、赤痢か、紫斑病か」
と その治療法に思い悩んでいたのだった。
さて、それでは、氏は
「玄米」と言っているのか、
「味噌」と言っているのか、
それとも「塩」と言っているのか、
食べ物・飲み物が出てくるところを チェックしてみようと思う。
本書は
「八月に入ると、土用照りの暑い日が続いた。」
と始まる。
長崎への原爆の投下は
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時02分。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/b1/2f2713edd4f3a12bf4d9abc849aea8b6.jpg)
この頃 色が薄くなってきた。 栄養不足?
●当時、病院の食事は 玄米の二回食であった。 朝食がこれから始まろうとしていた。(p13)
●「水を飲んではいかんぞ!」 私は大声でどなった。(p31)
(秋月医師は 川の岸辺に集まった被爆者の群れに向かって怒鳴っている。
ここで唐突に「水を飲むな」という言葉が出てくるので 面食らった。
なぜ水がいけないか、の説明は この本では欠如している。常識なのか?)
●「先生! これ食べさせてもいいでしょうか」 見れば、畑に落ちていたきゅうりを、三つ四つ持っている。「うん、食べさせなさい」 焦げた木下先生が力なくきゅううりを食べる。私もきゅうりを一つかじった。 今朝から何も食べていなかった。(p31)
●「おーい! 飯を食おう。 ご飯を食べよう!」 私は大きな声で怒鳴った。 きゅうりを少しかじっただけで、今日は朝からまだ何も食べていない。―――― 看護婦と軽症患者の女の人が 平釜でご飯を炊き、南瓜(カボチャ)の味噌汁もつくった。 梅干を入れて 握り飯を作った。 ―――― 私は、患者に食事を与えた。 握り飯と味噌汁を配る。 ―――― 玄米の握り飯と味噌汁の宴。―――― お茶も飲んだ。(p37~39)
●「先生、酒は飲まんですか」という声が聞こえる。 ―――― 「配給酒がこれだけ台所の隅にありましたけん」 ―――― 庭の草の上で茶碗酒を飲んだ。(p46)
●村井看護婦たちは元気の良い賄婦たちと炊き出しである。 午前十一時と午後五時の二回、玄米飯の南瓜(カボチャ)の味噌汁、わかめの味噌汁をつくっている。(p61)
●「少しお酒を飲みませんか」真暗な中で一杯ずつ飲む。(p64)
●壕の中にたくさんの人が寝ている。彼らを治療して、疲れて病院に帰る。 玄米飯と、味噌汁を食べる。(p81)
●「とにかく治療はしなければならない」私は看護婦と玄米飯をたべながらつぶやく。(p89)
●玄米飯と味噌汁を食べていると、庭のむこうから、(p92)
●炎天下で南瓜(カボチャ)だとか茄子(ナス)には、ずいぶんと放射能が付着したであろう。 それを味噌汁にして食べる(p98)
●修道士、神学生、看護婦、入院患者と玄米の握り飯を食べる。(p110)
p119から、「秋月式治療法」と題して
「レントゲン宿酔(レントゲン・カーター)」と塩についての記述があるので、
そこからは次回に。
食は大事やと思う私ですが、良いと分かっていても続けることができません(汗)と言うか、意思の問題やろうと思います。
で、私はあんまり気にしないで何でも好きなものを食べています。中国産は食べませんが、加工されたものの中に混じっていても分かりませんね。
藁にあんな多量の放射線物質が含まれていたとは、それを餌とした牛にかなりの量の放射性物質、その藁を触って束ねた?農家の方、餌として土地出して与えた酪農家の方、考えたら怖いですよね。
次々に起こる問題に愕然とします。
キュウリのコンパニオンプランツなら一緒に植えないと効果ないんじゃ?茶豆って初めて聞いたけど、野生のマメにこんな花が有ります。
餌として取り出して与えた酪農家の方
でした
牛を出荷した農家の方の悲鳴といいますか、怒号といいますか、
哀しい声が テレビから流れましたが
観光業や 漁業関係者の方々も 同様だろうと思います。
「身体に良い健康的な食事」で一番大切な事は 続けられるかどうか、だと思います。
私の玄米食のように 時々 思い出した時にだけ食べる、
というのもアリだと思います(笑)。
ミニバラ、お褒めいただき、嬉しいです。
一本の枝に いくつもの花が重なって咲いて、ブーケのようになります。
こんなのが欲しい、と思い続けている時にみつけた一株、
買い方はまるっきり衝動買いでした(苦笑)。
震災直後、地震・津波被害もさることながら、この原発の事態にはぞっとしました。これから長い間、放射能に苦しめられるのか・・・と思っていた懸念が現実の物となっています。
これだけの多くの悲しみを引き起こしているにもかかわらず、まだ原発を再稼動させようとしている人達がたくさんいることに信じられない思いです。
経済が・・・と言う声も聞きますが、一旦事故を起こせば、そんな目先の利益なんか吹っ飛んでしまうことがまだ理解できないんでしょうかねえ。
利権が絡んでいるんでしょうけど・・・
と思いますよね。
しかも、汚染は これから先もずっとずっと続くのです。。。
憎むべきは「利権」というヤツなんでしょうか?
消費者のわがままもまた 同様かと思いますが
私自身もまた その「わがままな消費者」そのものです。
CO2の削減は変更しないけど 原発は廃止の方向?
きっとすごく頭のいい人がいるんでしょうね。
私には見当もつきません。
そして これから一体 どういう方向を向けばいいのか?も わかりません。
水の禁止は、毒が溶けてたり、病原菌が入っている可能性を考慮したんだろうね。
そして 爆心地にいて、それからずっと爆心地で過ごした人々のお話です。
それから、とにかく、放射能ってのは、我々シロウトには わけわからんのです。
なかなか次の記事に進んでいかず、
申し訳ありませんデス。。。