猛暑が続いている。
鉢の花も青息吐息・・・水やりで
熱中症になりそう。
ブドウだけはイキイキ
昨日の室蘭民報に
長生大学同級生のSさんの俳句が載っていて
しみじみとした気持ちになった。
・仏前にユリ一輪の朝化粧
猛暑が続いている。
鉢の花も青息吐息・・・水やりで
熱中症になりそう。
ブドウだけはイキイキ
昨日の室蘭民報に
長生大学同級生のSさんの俳句が載っていて
しみじみとした気持ちになった。
・仏前にユリ一輪の朝化粧
我が家は二紙の新聞を購読している。
月一度は札幌に行く私
帰ると未読の新聞が溜まっている。
今日は朝から雨降りで寒い
古い新聞を隅から隅まで読み片付けた。
目にとまった道新の記事があった。
日本最大の歓楽街、新宿歌舞伎町で俳句一家を率いる43歳の
北大路翼氏が紹介されていた。
依存症やニートの若者、職業不詳の弟子たちに「アウトロー俳句」を
指導。露悪的とも評されるが、俳句は現代を生きる処方箋と言い放ち、コロナ自粛の
夜の街を吟行する。
私はこの種の俳句が好きである。
・キャバ嬢とみてゐるライバル店の火事
・太陽にぶん殴られてあつたけえ
・ウーロンハイ一人も悪いものぢやない
・サンダルで銭湯に行くみどりの日
・テロがあっても俺は花見を続けるぜ
番組で
石橋秀野さんという俳人のかたが紹介されていた。
興味があって暫く見ていたが
電話があり中断・・・残念
ネットで調べてみた。
石橋 秀野(いしばし ひでの、1909年2月19日-1947年9月26日)は、俳人。俳句評論家山本健吉の妻。
明治42年(1909年)2月19日、奈良県に生まれる。旧姓藪。文化学院文学部(大学部本科)卒業。文化学院中学部の時、学監与謝野晶子に短歌を、高浜虚子に俳句を学ぶ。大学部では正課に俳句がなかった為、勝手に作って虚子に見てもらっていたという。昭和4年(1929年)、俳句評論家の山本健吉(本名石橋貞吉)と結婚、石橋姓となる。昭和13年(1938年)頃より、横光利一の十日会句会に参加、俳句を復活し、石田波郷、石塚友二らと相知るようになり「鶴」入会。後に「鶴」課題句の選者となり、「鶴」を代表する女流俳人として活躍する。
昭和20年(1945年)には夫の島根新聞社赴任に従い島根県に移住、松江、鳥取の「鶴」俳人達と句会を催した。昭和21年(1946年)7月には夫が京都日日新聞社論説委員となったため京都に転居。しかし戦時中の疎開生活中に病に侵され、昭和22年(1947年)9月26日、京都宇多野療養所にて38歳で死去。約10年間の作品と随筆12編他による句文集「桜濃く」(1949年)は、追悼の意を込め刊行され第一回茅舎賞(1954年=第3回から「現代俳句協会賞」に名称変更)を受賞する。『無量寿院』(福岡県八女市本町)の「石橋氏累代之墓」に眠っている。
代俳句文学史のなかですっぽりと抜け落ちた夭折の女流俳人石橋秀野。その美貌と才気は生前多くの俳人たちに愛されたが、没後はその生涯までもベールに包まれてしまった。夫が、かの文芸評論家山本健吉であるにもかかわらず…。
本書はこれまで証されることのなかったその謎を一人娘の著者が、秀野の代表作とともに評伝式に解き明かし、文学史の空白を埋める一冊となりました。
読み進むにしたがって、自身の命を俯瞰するように見つめる作品は鬼気迫るものがあり、またその句の背景にある悲しいほどに切ない愛の形は、涙なしには読了し得ない感
この本を購入しょうと思ったが
残念只今品切れとのこと・・・。
下書をした筈の記事が公開されていた。
失礼しました。
昨日は冷たい風・・・そんな中
珍しくはイオンに、歩かなきゃ・・・と出かけた。
私は昨夜の寝不足と強風にキャンセル
二時間近く経ってから帰って来た。
行きに30分もかかり足が思うように動かなかったと
嘆いていた。
リックから本を取り出したので
どうしたの・・・と言うと
某カフェが開いていると思ったら閉まっていた・・・と
残念そう
伊達は都会のようにゆっくりお茶したりできる所がないのが残念
それに
今はコロナの時代だし・・・
今の時期カフェで本を読むなんてとんでもない。
先日に春の庭で一句詠んでよ―と頼んでいたのが
できたみたいー
・庭の土 雑草萌出で 染まりゆく
今日は一日氷雨
ウロコの土曜日
これから買い出し・・・。