伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

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遠い日の記憶

2011-02-27 15:02:29 | 元同僚
 2日続いて道新に同じような記事が出てい
 た。

 25日の「まど」に掲載された記事を見てまち
 がいないあの時通ったお店だ・・・と確信した。


 「まど」欄の記事より


 「優しくほほ笑む女性の遺影が19日、札幌中
 央区のホテルに飾られた。ススキノの老舗おで
 ん屋「小春」店主の小野寺春子さんをしのぶ会。

 道内外から約130人の常連客が駆けつけ、1月
 に90歳で亡なった名物おかみとの別れを惜しん
 だ。

 小野寺さんは1945年に夫を亡くし、48年に古書
 店隣に店を開業。

 店は大学教員や学生、作家らが集う場となった。」




 私がまだ20代の中頃札幌の新設校の中学校に転
 勤した。

 その時一緒に転勤して来た同僚にS先生がいた。

 彼女は道内一の有名校札幌の南校に一番で入学し
 てしまったという超才女でおまけに三田佳子ばりの美
 人さんだった。

 まちがってお嬢様大学のH大に入学した田舎育ちの私
 にとって、それはそれは憧れのまぶしい存在だった。

 だが歳の近いせいもあり女子も少なかったので、すぐ仲
 良しになった・・・。というより頭のきれる彼女に随分とお
 世話になってしまった。

 転勤してすぐ公務分掌が管理になった私に大先輩はその
 日のうちに学校の図面を作成せよとのこと・・・・。

 図面・・・と聞いただけで頭の痛くなる私。

 放課後、一緒に帰ろうと待っていたいたS先生は数時間
 経っても終わりそうにない私の手元を見て、

 どれどれと・・・・・さっささっさと「こんなの簡単じゃナイー」
 と定規を片手にいとも簡単にまるで魔法のごとくに1時間
 足らずで作成してくれたのである。

 頭脳明晰で私とは頭の構造が段違いだった・・・・・。

 あの遠い日の嬉しかったできごとはいまでもわたしの脳裏
 に鮮明にこびりついてはなれない・・・。


 あの時代はなんでも手作りでテストだってガリ版刷りだった。



 前置きが長くなったが

 さて本題に入る・・・・・・。

 S先生の父上は当時ススキノで、靴屋さんをやっていて、「小
 春」の息子さんとは幼馴染ということで、小春には彼女に連れ
 られ、時どき行っていたのである・・・・。


 なつかしかった・・・・・・。


 春子さんは亡くなる前日まで和服姿で店に立っていたそうで
 ある。


 すごいなあー


 私もそうありたいもの・・・・・と思っているのだが・・・・・・・・。




 今日のララ


 蒲団をかぶせられても

 「わいは、動かないのじゃニャン」


 
コメント
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