伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

田舎暮らしの日々とガーデニング 時々ニャンコと

小説を発信中

  
  
  
  

  

モンキー・パンチさん・・・道下俊一院長と浜中診療所そしてウーマンリブ

2019-04-22 02:18:19 | ニュース
 モンキーパンチさんが11日81歳で肺炎のため死去

 ルパン三世の原作者モンキーこと加藤一彦氏が

 釧路管内浜中町の出身だということが

 昔道下先生のエッセイがドラマ化され初めて知った。

 道下先生が釧路赤十字病院浜中分院の院長時代、レントゲン技師の助手として働いていた

 のが当時霧多布高定時制のパンチさんだった。

 道下先生に才能を認められ推されたのがきっかけ。


 話はがらりと変わるが

 道下という名に記憶があった。


 個性的な美人で

 高校時代留学して

 F大の英文科に席を置き私とは同学年だった

 同じ文学部だったので何度かキャンバスで顔を見たことがあった。

 その彼女が後年週刊誌を賑わせていたので驚いた。

 調べると道下先生とは親戚のようだった。


 ネットより


ウーマンリブ論客の道下匡子さん「とても腹立たしい毎日」
公開日:2015/12/24 07:00 



 道下さんが樺太から北海道に引き揚げてきたのは3歳の時。それからの苦難を極めた生活は第2回蓮如賞受賞作「ダスビダーニャ、わが樺太」(95年)に詳しい。その後、小学生の時にHBC(北海道放送)にスカウトされ、ラジオ、テレビで活躍。60年、アメリカ・ウィスコンシン州の高校に留学し、帰国後、藤女子大に入学。64年に奨学金を得て、ウィスコンシン州立大学ジャーナリズム学科に転入した。

「全米にベトナム反戦や黒人運動が燃え盛ってた時期でしたから、私も授業の一環としてデモや集会の取材をしました。後にジェーン・フォンダと結婚する反戦運動家のトム・ヘイドン率いるSDS(民主社会学生同盟)も参加した1968年、シカゴの民主党全国大会での歴史的なベトナム反戦デモも目撃してます」

 69年に帰国してからはアメリカ文化を発信する東京アメリカン・センターに就職。97年まで勤めた。





 同じ樺太出身者として彼女の本も読んだ

 記憶の糸が彼女に辿りついた。

 青春時代の忘れられない女性である。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 期日前投票・・・一票差が天... | トップ | ジャコシカ115 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ニュース」カテゴリの最新記事