前田ときさんの
川柳
99歳あとは神さま仏さま
の川柳を読み
何と月日の過ぎるのが早いことか・・・
と身につまされた。
ときさんには
もっともっと元気にエッセイを書き続けていて欲しい
と祈る気持ちである。
私達も早や伊達に移住して20年目になろうとしている
私もも二度と第二の故郷でもある伊達
2人の出会いの地である伊達に戻ることは考えずに
それぞれ伊達紋別駅を出発した。
しかし
40年後に再会し
この地に
帰って来た。
私は帰ることは考えたことが無かったが
再会して突然が伊達に移住したいと言った。
37年間わき目もふらずに走り続けてきた教員生活
思春期の少年に翻弄されながら
目を背けず
挑んできた現役時代
私生活では二人の子供を育てながら・・・
同僚に
1人でよくやってきましたね
子供さんもぐれずに・・・とよく言われた。
思春期の息子は危ない時もあったが
母の職業を理解し
踏みとどまっていた。
現役時代は必死だったせいか
辛いともあまり思わなかった。
退職した日は
とめどなく自然と涙が流れた・・・。
人知れず頑張って来た自分への涙である。
その直後の
との再会である。
その頃は
まだまだ現役時代の夢をみて
うなされていた。
子さんには伊達で辛かった現役時代を癒して欲しい
とも言われた。
だが
東京での過酷な生活・・・癒されたかったのは
本人でしょう・・・。
ここに何度も書いたが
私は田舎のお嬢さん
高校を卒業してすぐ札幌の大学へ
は一年伊達でバイトをして貯金し
一年後
住む家も決めずに上京
すぐ葉書が来た
手紙も転々として
一年後に住所が定まったという状況である。
だが
の偉いのは
最初から編集の仕事に携わっていたことである。
仕事をしながら夜は大学
順調に卒業
そして25歳の若さで無謀にも旅人という月刊誌を創刊
その後
魚の専門誌の編集
ウナギの養殖でマスコミに取り上げられ
30歳でダウン
殆ど寝なかったという。
退院して
大手の会社の社長の道楽で造った
第二会社に就職
水処理・・・濾過で特許を取る。
健康がすぐれず
55歳で会社倒産と同時に退職。
そして病弱だった妻が59歳の時に逝去。
その時
なんの虫の知らせか
私が退職しますと一通の葉書をに出した。
クラスメートからの住所を聞いて知っていた私は
数十年その住所を大事に保管していた。
もう
お孫さんもいるだろうと思っていたのに
は妻の突然の死で呆然自失だった。
20代の初め
私から文通を絶って数十年の月日が経っていた。
長くなったが
ここから
本論
さてさて
伊達に移住してどうだったか
10年間は2人で旅行しながら
伊達の自然に触れ
魚釣りなど楽しむ
は毎日数時間は某カフエで創作
その間
四冊の本を出した。
私は10年過ぎてから
長生大学へ
友達も増え生活も充実した
楽書きの会の同人にも誘われ
地方紙にエッセイが掲載されるようにもなった。
その頃からは体調がすぐれず
ペンを置く。
終の棲家になった
ここ第二の故郷伊達で
私達はこれから人生の最終章に
入ろうとしている。
未知の世界を恐れずに進もう・・・。
嬉しいことに
いつの頃からか
本間昭南の名が
Wikipediaに載るようになった。
本人はそれほどでもなさそうだが
ミーハーな私は超嬉しい
伊達ゆかりの著名人に作家として載っている。
就職した年22歳
編集者として道内取材の
・・・・連絡船 22歳