偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。ルカによる福音書6章42節
自分の目に丸太があることに気付いていなければ、それを取り除くことはできません。
しかし、どうやって気付くのでしょうか。神によって気付かせていただくのです。
神に出会うということはそういうことです。
自分の目の丸太に気付かせていただくとき、丸太はすでに取り去られつつあるのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。ルカによる福音書6章42節
自分の目に丸太があることに気付いていなければ、それを取り除くことはできません。
しかし、どうやって気付くのでしょうか。神によって気付かせていただくのです。
神に出会うということはそういうことです。
自分の目の丸太に気付かせていただくとき、丸太はすでに取り去られつつあるのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
聖書の中で、人間は三つの状態によって描かれています。
(1)エデンの園においてーーーー神とともに歩み、全く罪のない者としての状態
(2)堕落以後ーーーー神との交わりがなく、神のかたちは罪によってそこなわれた者としての状態
(3)恵みにより贖われてーーーー神ご自身の義が、イエス・キリストに対する信仰によって、罪人に与えられた状態
聖書は一貫して、すべての人は罪を犯したと述べています。
「神を敬う人は地に耐え、人のうちに正しい者はない」(ミカ七・二)
しかし同様に一貫して、すべての者は「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ三・二四)と述べています。
罪はすべての人に及ぶ事実です。
救いはすべての人に与えられる可能性があります。
しかし、神が備えてくださったこの救いに対する応答は、各人が自分で決めることです。
人はそれを受けることもできますし、拒むこともできます。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より
イエスは、地上でただひとりである。
かれの苦痛を感じとって、分けあってくれる者がいないどころか、それを知ってくれる者もいない。
ただ天とかれご自身だけが、それを知っているだけである。
イエスは園におられる。・・・・イエスがおられるのは、業苦の園。
かれは、おそろしい夜のさ中に、この苦しみとこの孤独とを忍ばれる。
イエスがなげきをもたらされたのは、ただこの時一回きりで、これまで決してなかったと思う。
しかし、この時には、あまりの痛みにもう耐えきれなかったように、うめかれる「わたしの心は悲しみのあまり死ぬほどである。」
イエスは、世の終わりまで苦しみもだえておられる。このあいだ、ねむってはならない。
きょうを生きる言葉一日一篇より
わたしは、さいごの苦悶の中でも、あなたのことを考えていた。
あなたのために、こんなにも血をながした。
わたしは、ほかのどんな人よりももっと親しい友だ。
わたしはあなたのために、ほかのだれよりも多くのことをした。
ほかの人は、わたしがあなたのことで苦しんだほどには苦しまないであろし、あなたが不実で、薄情であるときに、
あなたにかわって死のうとはしないであろう。
けれども、わたしは死んだ。そしてこれからも死ぬつもりであるし、また、今も死につつある。
わたしの選んだ者たちにおいて、また、聖なる秘跡において。
きょうを生きる言葉一日一篇より
願いのある者は、自分を愛してくれる人の所に行くのです。
その人は彼の願いをかなえてくれるでしょう。
御自分を父と呼ばれる神ほどあなたを愛しているくれる人はいません。
あなたの願いをもって神の御前に行きなさい。
子供のように頼りきった謙虚で従順な心から出る願いは、私たちに害を与えるものでなければ何でも聞き入れられます。
子供のようでありなさい。そうすればあなたは、子供のように父から贈り物に次ぐ贈り物を与えられるでしょう。
M・バジレア・シュリンク著 「愛のまなざし 神の子の日ごとのよりどころ」より
地震によって明らかになったのは、
たった5分先のことさえわからない
わたしたち人間の無力さ
原発事故によって明らかになったのは、
自分の能力を過信して思い上がるわたしたち人間の愚かさ。
弱さを思い知ったなら、
謙遜な心で互いを支え合いましょう。
片柳弘史著 「こころの深呼吸 気づきと癒しの言葉366」より
どんな幸福な生活にも数多く起る試練や心労を、堪えがたい重荷だと考えるか、
それとも自分の生活原則を実行し修練するために、神から授けられた機会だと見るかは、
ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方次第ですべてが決まるのである。
この後の方の見方は、もちろん信仰があっての初めてできることであり、またそれが信仰の最も明らかな利益の一つでもある。
希望
十字架は重いが、不思議なことに、
おまえがそれを担うやいなや、それがおまえを担ってくれる。
初めは闇夜だが、行く手は真昼の明るさ。
この道を進むものは「勇者」と呼ばれる。
おまえの力は小さくても
おまえの帰依した主の力は偉大だ。
おまえの星はくらい夜空に輝きわたり
今日は死にーー明日はいのちによみがえる。
眠られぬ夜のために ヒルティ著より
われわれは、やがていつか、葬られるであろう。
やがていつか、一群の人々が、どこかの墓地に出かけていくであろう。
そして一つの棺を埋めて、皆家路につくであろう。
しかし、一人だけは帰らない。そして、それが私であろう。
人々が私を、生きた人間の国では余計な邪魔ものとして葬るということーーそれが死の印章であろう。
・・・人生とは何であろうか。それは、墓に向かって急ぐということである。
・・・これが「葬られ」ということである。
また人間が墓の中で忘れられるということが、人間に対する審きである。
埋葬され・忘れられるということより他には、罪ある人間にはいかんともし難いということ、それが、罪に対する神の答えである。
きょうを生きる言葉一日一篇より
愛の父なる神は、あり余るほど分け与えられます。
神は、御自分の子らのためにあふれんばかりの自然の美や、豊かな賜物や才能を与える方です。
もしあなたが貧しいのであれば、それはあなたの心が小さくて、神から大いなるものを何も期待しないためではないでしょうか。
M・バジレア・シュリンク著 「愛のまなざし 神の子の日ごとのよりどころ」より
神はひとりびとりに、自分が罪によって得た報酬を受けるか、
イエス・キリストが十字架上で死なれたことによって買い取られた賜物を受けるか、選択させられます。
もし、キリストによる賜物を受け入れないなら、罪の報酬を受けなければなりません。
聖書は人間を、自由に選択できる立場にある者として描いています。
自分の生涯を神にささげることを拒み、罪の中に生活し続けるなら、
その人は罪が常に支払っている報酬を、毎日受けているのです。
しかし、イエス・キリストを自分の救い主として信じるとき、神の賜物を受けるのです。
聖書はこう言っています。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です」(ローマ六・二三)
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より
聖書全体が、人間は失われた者だと述べています。
人間が失われているというのは、その罪深さのゆえに、神から離れ、
神のみもとにもどる道を見いだし得ない、ということです。
人間の考え出した宗教は、神を見いだそうとする企てです。
しかし、人間が正しいと思っている神に至る道は、たいていまちがっている、と聖書は述べています。
旧約聖書はこう言っています。
「人が見て自ら正しいとする道でも、その終わりはついに死に至る道となるものがある」(箴言一四・一二)
新約聖書においてイエスはご自身をさして次のように言われ、この点を明らかにされました。
「わたしが道であり、・・・わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ一四・六)
人間は、キリストに対する信仰によって、神のみもとに立ち返るまでは、失われた者です。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より
神は愛だ。
如何なる罪人でも
悔改めれば必ず
救われるとは
聖書の教える
真理である。
嫌いな人、敵の
ように思う人
嫌いな人をもつのが
すべてこの世の
人の心なのだ。
この敵に対し
にくい人のために
また、彼らの代わりに
愛を持って
真剣に祈って
あげるのだ。
主イエスは十字架の上から
「知らないで
しているのだから
赦してやって下さい」と
敵のために祈られた。
敵をせめる代わりに
祈りを
にくむ代わりに愛を
そして寛容を
示して
神を崇めたい。
中山吾一著 「一日一詩 永遠の旅」より
この世のために準備していても、きたるべき世のために準備していないばあいもあります。
つまり、つかの間の時のために準備をして、永遠のために準備していないのです。
聖書はこの世での生涯は、きたるべき世の規模の雄大さに比べるなら、影にすぎないことを明らかにしています。
「わたしの日は機のひよりも速く、望みをもたずに消え去る。・・・・あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。
あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎませ ん」 (ヨブ七・六、ヤコブ四・一四)。
イエスは弟子たちに、天にある霊の銀行に預金することに専念するよう、勧めています。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ六・一九ー二一)
これは実際むずかしいことです。
ポールB.スミス著 山口昇訳 日ごとの福音より
佳(よ)き期(とき)は来たれり
春は来たれり
花は咲かんとす
鳥は歌わんとす
小川の氷は解けて
その辺(ふち)に、すみれ笑う
佳き期は来たれり
聖霊(みたま)は降(くだ)れり
栄光(さかえ)はあらわれんとす
讃美は揚がらんとす
心の疑団は釈(と)けて
その内に歓喜あふる
佳き期は来たれり
春は来たれり
春は外よりも来たれり
また内よりも来たれり(信に二・三五二)
続一日一生 内村鑑三著より
主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。詩篇147篇10、11節
「馬」は軍馬のことをさし、力の象徴でありました。
「足の速さ」は事に処する俊敏さを象徴しています。
人間の持つ力や俊敏さでは絶対に突破できない試練が人生にはあります。
巧みに動こうとする者が行き詰まり、神を信じて動かないものが道を見出すのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より