大手前高校の同窓会組織、金蘭会の阪急支部総会は、毎年一回懇親会形式で行われ、アトラクションのコーナーがあります。今年は講談でした。講談師の旭堂南青さんをお呼びして、その熱演にすごく感動しました。赤穂義士外伝 誉の刀鍛冶という人情ものですが、思わず涙してしまいました。いろんな登場人物が生き生きと描写され、ぐーっとその世界に引きずり込まれます。それもそのはず、来年には、真打になられるとのことです。おめでとうございます。この方は、高校同級生の東住吉高校時代の教え子で、終わった後に、楽屋にお邪魔して名刺交換させて頂きました。これからも応援して、見に行きたいと思います。
大手前高校は、1886年9月に大阪府女学校として独立した。創立当初の校地は師範学校と同じ北区常安町(現在の大阪市北区中之島4丁目、大阪大学中之島センター付近)とあります。
放射線取扱い主任者講習会が大阪大学中之島センターであり、受けてきました。
うん?中之島の大阪大学中之島センターといえば、確か母校大手前高校の発祥地だったはずと思い出して、講習会終わってから周囲を散策していきました。
元々あった大阪大学医学部の中之島の地には、現在ポツンと大阪大学中之島センターだけが立っており、周りは駐車場と整地された原野だけが広がっていました。
講習会の窓の外には、堂島川を挟んで、ABCホール、堂島リバーフォーラムがそびえ立っていました。ここは、大手前高校堂島校舎のあった所になります。
帰りには、ダイビル本館横に併設されている中之島四季の丘からの写真を撮ってきました。
関電ビルディングも立派ですね。
そのまま堂島川に沿って歩くと、中之島ダイビル、中之島三井ビルディング、住友中之島ビル、朝日新聞本社ビルと新しいビル群があり、素敵なフレンチ、イタリアンがあり、スターバックスもありました。
中之島四季の丘からは、整地された向こうには、大阪市立科学館、国立国際美術館が見えました。
お弁当は、中之島センター内の食堂で、適塾のお弁当を再現した、適塾御膳です。
是非、大阪府立大手前高校発祥地の碑を建てて欲しいものだと思ってしまいました。
生國魂神社の発祥の地を訪れました。生國魂神社大阪城元お旅所の所です。
大手前高校の同窓会組織、金蘭会の新年互礼会の帰り、訪ねてみました。
中々、グーグル検索でも、生國魂神社大阪城のお旅所が、はっきりと分からなくて、記事とかの文面を頼りにたどり着けました。
丁度、南外堀の西端のところというか、NHKのある上町筋の交差点の所にあります。この辺りから、松屋町筋の本町駅お旅所にかけての範囲で生國魂神社はあったようです。
境内に生えていた木を元に、難波宮が造設されたと、日本書紀にも記載されていたので、沢山の木々が生い茂っていたことでしょう。
歴史は古く、大阪で1番古い神社で、神武天皇が東征の折、淡路島から上町半島の先端の地の石山崎に降りたったときに、生島、足島大神をお祀りして建てられたのが、生國魂神社だそうです。皇紀からすると2600年の歴史があることになります。実際は、もう少し短いかもしれないということですが、それでも、西暦0年より古そうです。
大手前高校時代には、体育の授業、部活で、大阪城内堀コースと外堀コースを走りましたが、外堀コースの途中にある、こんな由緒ある古い神社のあったことは露ほども知らず過ごしていました。
浪切ホールでの7月16日の松竹大歌舞伎公演に行ってきました。
大阪府立梅田高等女学校(大阪府立大手前高等学校)、金蘭会高等女学校(金蘭会中等学校、高等学校)は1910年から1922年までの12年間、細い道路を隔てて隣あってて、遠足や運動会を合同でするリアル姉妹校でした。大手前高等学校は、堂島高等女学校、梅田高等女学校をへて大手前高等女学校になり、戦後大阪府立大手前高等学校に名前を変えていきました。
“金蘭”の名前は明治24年に発足した堂島高等女学校(現在の府立大手前高等学校)の同窓会が明治28年から「金蘭会」と呼ばれたことに由来します。
二人同心其利断金
同心之言其臭如蘭
中国の古典『易経繋辞伝』より
「二人心同じうすればその利(と)きこと金を断つ。同心の言(ことば)はその臭(かおり)蘭の如し」(同じ志を持ったもの同士が協力すれば、何事も成し遂げることができる。また同じ心を持っているもの同士の言葉は、蘭の花のようにかぐわしい雰囲気を醸し出す)≫
また、弘法大師が伝教大師に宛てて書かれた手紙である、国宝の風信帖にも、東嶺金蘭法主と、伝教大師最澄に比叡の峰におられる金蘭の友のお坊さま、という感じで親しみを込めて呼びかけています。
金蘭会の金蘭って言葉、本当素敵ですねー。
第97回金蘭会セミナーで、立命館大学客員教授 の金岡克弥さんのロボットに関する講演がありました。「今、日本で、異端のロボット工学者が成すべきこと」
補足、この分野は「マンマシンシナジーエフェクタ(MMSE、人間機械相乗効果器)」という技術で、一言でいうと人間のパワーを増幅する機械という事です。
小楠公義戦之跡碑に、京阪天満橋駅から大川沿いの堤防の上で遭遇しました。
楠木正行は、真に忠孝、友愛、仁義の人、日本精神の化身であると言われたそうです。忠孝両全、情あつく、知勇に優れたとも賞賛されてます。小楠公とは、楠木正成の嫡男のことです。
医師になり、京都第二赤十字病院にもいた事があるものの、赤十字と楠木正行の関係は知らなかったので、その素敵な人物像を知るにつれ、すごーく感動しました。
日本が1919年、国際赤十字に加盟するときに、以下の住吉の戦いの渡辺橋の話しは、加盟各国の委員に感銘を与え、加盟に大きな手助けになったと言われています。
1336年湊川の戦いで、父楠木正成の戦死より11年後、挙兵した楠木正行は、得意のゲリラ戦法を駆使して、紀州隅田城を攻略し、続き河内八尾城を攻略。 1347年8月、北朝は、細川顕氏を大将に兵3千を正行討伐に派遣し、藤井寺で合戦となりますが、正行は、一直線に本陣を奇襲する戦法で、兵700で、細川顕氏を撹乱し、完勝しました。
次に北朝の足利尊氏は同年11月、山名時氏と細川顕氏を総大将に、9千余騎に増やして住吉浦に時氏を、天王寺に顕氏を布陣させ、住吉の合戦になります。対する楠木正行軍は2000人。
天王寺を巻き込んだ戦を避けた正行は、山名時氏に照準を定め、同年11月26日の未明、500余騎で瓜生野から住吉浦の時氏本陣に奇襲をかけました。時氏軍は安倍野にも陣を分けており、不意を突かれて大混乱、しばらく1時間ほど膠着状態でしたが、正行軍は、和田賢秀らの加勢により山名時氏は重傷を負い、さらに弟の山名兼義は、殺されてしまいます。そのため、山名時氏軍は、総崩れとなり、我先にと、北へ北へと敗走しました。正行軍は徹底的にこれを追撃し、大川の渡辺橋まで追い詰めました。大勢の軍勢が、1つの渡辺橋に集まったため多くの兵が橋から極寒の大川に次々と落ちて行きました。その頃の大川は、大和川も少し上流で合流して今より川幅の広いものでした。
大川を超えて北に退却するには、渡辺橋しかありませんでした。さらにその当時は、上町台地の周りはぬかるんだ湿地帯であり、とても兵を容易に動かせない状態でした。上町台地大地北端では、まさに袋のネズミ状態になってしまう訳です。
京阪電車天満橋駅北側の大川堤防沿いの見晴らし良いところに、小楠公義戦之跡碑があり、母校大手前高校の町歩き会のときに紹介していただき始めて知りました。碑文には、
「正平2年11月26日、楠木正行は渡辺橋で山名時氏、細川顕氏軍と合戦し快勝。橋から大川に落ちた敵兵五百数十人を救出、寒天に凍りつくのを温め、衣食と薬を与えた。恩に感謝した敵兵は帰順し、翌年正月5日、正行が四条畷で戦死するとき全員共に討死する。正行は真に忠孝、友愛、仁義の人だ。まさに日本精神の化身である。明治の初めわが国が赤十字に加盟するおり欧米人はこの話を聞いて感動し、容易に加盟が認められた」。
との内容が、刻まれています。この碑は昭和15年、皇紀2600年事業の一環として大阪市東区教育会が、建てたものだそうです。綺麗にメンテナンスされていて古さを感じなかったです。
その翌年1月の四條畷の戦いでは、幕府軍六万に対して楠木軍三千と圧倒的不利の中で戦うのですが、6時間の大激戦の末に自害して戦いは終わります。この戦いには、先の渡辺橋から川に落ちて助けてもらった敵方の将兵が恩義を感じ数多く楠木正行の家来となり、最後まで戦い抜いたそうです。
この時楠木正行は、23歳、なんと慈悲深い、忠孝、正義の人なんだろうとすごく感銘を受けました。
のちに楠木正行は、京都宝筐院に葬られるのですが、室町幕府二代将軍足利義詮が亡くなる時、尊敬する楠木正行の横に埋めて欲しいと言われたそうです。敵将からも尊敬され、愛されていたんですね。本当素晴らしい。
日本の歴史で、聖徳太子、空海、上杉謙信の尊敬する人達に加えさせてもらいます。
3月20日、大阪城リレーマラソン2016が開催され、大手前高校57年卒を主体としたチーム、走ってまえ大手前に加えて頂き、大手前高校昭和50年卒の僕は大学以来の2キロを、えーい走ってまえ🌸と何とか心臓を止めずに無事に走ってきました。10分そこそこで走れたようで、大きな迷惑を、かけずに済んだようです。よかったー。
先日2月27日土曜日に、天満橋カンファレンスが行われました。大手前高校ゆかりの天満橋のホテル京阪天満橋が会場です。大阪市立大学整形外科教授 中村博亮教授の脊椎疾患の診断とピットホールの講演でした。とてもわかりやすく、腰椎疾患の診断、治療をお教えいただきました。放射線科の僕にとっては、明日から臨床に役立つ診断レポートが書けそうな感じです。間欠跛行で1番多いのは腰部脊柱管狭窄症で、2番目がASOだということもためになりますね。中村先生は大手前昭和52年卒です。椎間板ヘルニアで直腸膀胱障害のではじめた患者さんは、緊急手術必要やけど、その他の腰椎椎間板ヘルニア、脊柱管狭窄症はゆっくり待てるとのこと。大阪は結核の脊椎カリエスが多いことも。実際、あいりん地区はアフリカのジンバブエと同じくらいの結核の罹患率の高さと聞いたことがあります。
第195回金蘭会セミナー
金蘭会の副会長岩田和歌子さんは、昭和16年大手前高等女学校卒業で現在92歳で、金蘭会セミナー出席の最高齢の方でいらっしゃいます。このたび、突撃インタビューアーとして、2015年最後の金蘭会セミナーの後のお寿司の食事が終わった頃を見計らって、お話を聞いてきました。同い年のもうひと方もいらして、2人して、例の1938年朝日新聞の、銃を持ち行進する大手前高等女学校生の、写真を眺めながら当時を懐かしみながらお話をして頂だきました。写真は昭和13年当時のもので、岩田先輩は昭和16年卒業だそうです。その頃の大手前高等女学校は今の中学1年から高校2年までにあたる5学年生だったそうです。写真の方は少し先輩にあたるそうでどなたか名前は知らないけど、こんな制服だったよーとこれは夏服やねと。実際に実弾を撃つ訓練されたそうで、怖く無かったでしたか?とお聞きしたところ、大丈夫やよと返事されてました。皆さん逞しい軍国少女であられたようです。その横に座ってられたさらに3歳後輩に当たる先輩が、私もしたかったけど出来へんかってんと、残念がってられました。以外と逞しく、自発的にお国を守ろうという意識が皆にみなぎっていたようでした。無理強いされて可哀想と思ってたところ、そうなんだーと以外な拍子抜けした感じわ受け、92歳の大先輩と恐る恐るでしたが、思い切って飛び込んで話しを聞いて、楽しく昔話を聞かせてもらってすごく嬉しい気持ちになりました。頭がかくしゃくとされて、話し方、内容ともに若い女の方と話しをしてるのと変われへんなーという感覚で感動しました。
心斎橋コンテローゼで、大手前高校同級生の東洋子さんのジャズライブを聴きに行きました。心斎橋も御堂筋は白いイルミネーションが綺麗でした。今回は、西岡君、刀祢圭子さん、殿貝よしえさん、僕 大野浩司の4人の金蘭同級生で聴きに行きました。ほんまこの4人は、西岡君、殿貝さんは幼なじみ以外は、高校の時は接点はなかったんやさかい。安田さん、刀祢さんは大学も同じ薬科大学に行かれてすごく親しいですが。ジャズのメロディはストレス解消にいいと言われてます。頭の中を駆け巡る旋律がなんとも心地よく刺激して、心の凝りを解きほぐしてくれるようです。
岸和田だんじり祭は、9月と10月に行われます。
一般的には9月の方がテレビでも放映されるので、9月のほうが有名です。
国道26号線を挟んで、海側と山側で分かれます。9月は海側の岸和田地区、春木地区、10月は山側の東岸和田地区、八木地区、南掃守地区、山直地区、山直南地区、山滝地区です。
9月の海側ほうが、参加する街の数も多く、岸和田地区-22町、春木地区-13町で、地車の数も多いです。さらに、テレビが放映され、観光客の人数が多く、非常に混雑します。屋台の数も多く岸和田城やカンカン場(有料観覧席)があります。
10月の山側のほうは、観光客よりも地元の人多く、だんじりの通る道は広いところが少ないので、狭い道の場合は、ゆっくりとだんじりが走ります。その分、だんじりを間近で見ることができます。
このように、10月の山側だんじりは、やや規模は小さいけれど、やり回しは、勢い同様で大迫力です。今回観覧しました南掃守地区は、8台のだんじりで、それぞれだんじりの大小が若干あり、迫力のあるやり回しを披露してくれました。
大手前高校の同級生の大場厚子さんが岸和田南掃守地区上松の自宅に招待していただいて、豪華な手料理の数々でもてなして頂き大感激です。
テニス会の錦織圭に刺激されたん会のメンバー、つい一週間前に開かれた大手前高校50年卒の幹事の人などから、呼んでいただきました。僕は、だんじりをまじかに見るのは初めてだったので興味深々。東洋子さん、池田啓子さん、西岡君、浜田君、中村泰治君、杉岡先生、縣先生、僕 大野浩司のメンバーで、大半は、まじかに見るのは初めての面々です。やり回しの観覧は、凄くテンション上がりました。くせになりそうです。特に屋根の上で飛び跳ねてバランスをとってるひとのカッコ良く映ること。
みんな記憶に強く永く残る体験でした。