小楠公義戦之跡碑に、京阪天満橋駅から大川沿いの堤防の上で遭遇しました。
楠木正行は、真に忠孝、友愛、仁義の人、日本精神の化身であると言われたそうです。忠孝両全、情あつく、知勇に優れたとも賞賛されてます。小楠公とは、楠木正成の嫡男のことです。
医師になり、京都第二赤十字病院にもいた事があるものの、赤十字と楠木正行の関係は知らなかったので、その素敵な人物像を知るにつれ、すごーく感動しました。
日本が1919年、国際赤十字に加盟するときに、以下の住吉の戦いの渡辺橋の話しは、加盟各国の委員に感銘を与え、加盟に大きな手助けになったと言われています。
1336年湊川の戦いで、父楠木正成の戦死より11年後、挙兵した楠木正行は、得意のゲリラ戦法を駆使して、紀州隅田城を攻略し、続き河内八尾城を攻略。 1347年8月、北朝は、細川顕氏を大将に兵3千を正行討伐に派遣し、藤井寺で合戦となりますが、正行は、一直線に本陣を奇襲する戦法で、兵700で、細川顕氏を撹乱し、完勝しました。
次に北朝の足利尊氏は同年11月、山名時氏と細川顕氏を総大将に、9千余騎に増やして住吉浦に時氏を、天王寺に顕氏を布陣させ、住吉の合戦になります。対する楠木正行軍は2000人。
天王寺を巻き込んだ戦を避けた正行は、山名時氏に照準を定め、同年11月26日の未明、500余騎で瓜生野から住吉浦の時氏本陣に奇襲をかけました。時氏軍は安倍野にも陣を分けており、不意を突かれて大混乱、しばらく1時間ほど膠着状態でしたが、正行軍は、和田賢秀らの加勢により山名時氏は重傷を負い、さらに弟の山名兼義は、殺されてしまいます。そのため、山名時氏軍は、総崩れとなり、我先にと、北へ北へと敗走しました。正行軍は徹底的にこれを追撃し、大川の渡辺橋まで追い詰めました。大勢の軍勢が、1つの渡辺橋に集まったため多くの兵が橋から極寒の大川に次々と落ちて行きました。その頃の大川は、大和川も少し上流で合流して今より川幅の広いものでした。
大川を超えて北に退却するには、渡辺橋しかありませんでした。さらにその当時は、上町台地の周りはぬかるんだ湿地帯であり、とても兵を容易に動かせない状態でした。上町台地大地北端では、まさに袋のネズミ状態になってしまう訳です。
京阪電車天満橋駅北側の大川堤防沿いの見晴らし良いところに、小楠公義戦之跡碑があり、母校大手前高校の町歩き会のときに紹介していただき始めて知りました。碑文には、
「正平2年11月26日、楠木正行は渡辺橋で山名時氏、細川顕氏軍と合戦し快勝。橋から大川に落ちた敵兵五百数十人を救出、寒天に凍りつくのを温め、衣食と薬を与えた。恩に感謝した敵兵は帰順し、翌年正月5日、正行が四条畷で戦死するとき全員共に討死する。正行は真に忠孝、友愛、仁義の人だ。まさに日本精神の化身である。明治の初めわが国が赤十字に加盟するおり欧米人はこの話を聞いて感動し、容易に加盟が認められた」。
との内容が、刻まれています。この碑は昭和15年、皇紀2600年事業の一環として大阪市東区教育会が、建てたものだそうです。綺麗にメンテナンスされていて古さを感じなかったです。
その翌年1月の四條畷の戦いでは、幕府軍六万に対して楠木軍三千と圧倒的不利の中で戦うのですが、6時間の大激戦の末に自害して戦いは終わります。この戦いには、先の渡辺橋から川に落ちて助けてもらった敵方の将兵が恩義を感じ数多く楠木正行の家来となり、最後まで戦い抜いたそうです。
この時楠木正行は、23歳、なんと慈悲深い、忠孝、正義の人なんだろうとすごく感銘を受けました。
のちに楠木正行は、京都宝筐院に葬られるのですが、室町幕府二代将軍足利義詮が亡くなる時、尊敬する楠木正行の横に埋めて欲しいと言われたそうです。敵将からも尊敬され、愛されていたんですね。本当素晴らしい。
日本の歴史で、聖徳太子、空海、上杉謙信の尊敬する人達に加えさせてもらいます。