昭和35年の鎌倉はまだまだ緑が深く何処ででもキャンプが出来たし、自然の豊かな世界遺産に相応しい町でした。
高校2年の夏に当時鎌倉の唯一のレコード店の楽聖堂のS君と共にボーイスカウトの代表として選ばれ、アメリカのコロラド州のコロラドスプリングスのジャンボリーに参加する事になりその壮行会が行われました。まだジェット機が無くてアラスカ経由の時代でした。今考えると恥ずかしいのですが壮行会というのは鎌倉をパレードして歩くと言う今では考えられない事でした。長谷観音から由比ガ浜通りを県警バンド(?)を先頭に下馬、二の鳥居前までまるで選挙の運動のようにたすきをかけて歩き、当時の市役所(今の生涯学習センター)の前で市長や教育長らの激励やガールスカウトの花束贈呈などそれは高校生の私たちにとっては吃驚するような旅立ちでした。
無論羽田空港にはバスでボーイスカウトたちや学校の友達、父の会社の人達やら海外に行くと言うのはそれだけ大変であったわけです。。この旅行がある意味人生を決めたようなところがありました。
この旅行については詳しく書きませんが、あんな大国と戦争をしたというのが間違いだったと高校生でも分かるような気がしました。又、この旅行の記録を8ミリカメラで撮りましたものを最近CDに落としましたので、1960年のアメリカの模様などが写されているので記録としては良いものが残されたなと思っています。
多分この時のアメリカの友人達は後のベトナム戦争に借り出されて亡くなった人もあるようで、その事も含め一度渡米したいと思っているこの頃です。
さて鎌倉ですがこの頃から(多分山本市長の頃)鎌倉の開発が始まりました。昭和35年から40年にかけて一大開発が鎌倉霊園の開発でした。ご存知のように西武の堤さんと山本市長の関係が取りざたされて鎌倉が段々大手のデベロッパーに侵食されていきました。西武系、東急系、野村系、三菱系、その他あらゆる開発者が土地を買い始め、所謂旧市内は辛うじて残されましたが、回りの山々はブルドーザーの餌食になっていきました。
スカウト活動にのめりこんでいましたから、毎週山に入りあるはずの獣道や木々が無くなっていると言うのが本当に残念でした。
ここに持ち上がったのが古都保存法の成立の原点になった御谷(おやつ)騒動でした。ご存知でしょうが八幡宮の左側奥、つまり巨福呂坂(こぶくろざか)の手前を直進する谷戸の開発阻止を文化人や原実さんと言う郷土史家らが反対運動を起こしてくれたのでした。この原さんが呼びかけて川端先生や大仏先生、小林秀雄さんなど錚々たる人たちが運動を展開して京都、奈良、鎌倉の3市の首長の共闘で古都保存法が成立したのです。
この鎌倉を救ったのが原さんと安田三郎さんと言うカメラマンでした。この方の写真が多くの記録を残しているはずなので鎌倉市としてもキチンと整理して保存して欲しいと思っています。
高校の生意気盛りを材木座と由比ガ浜の中間の砂山で(まだ逗子までの有料道路が無かった)5月の連休くらいから泳ぎウクレレもって遊びまわっていました。やはり女の子は必要なので毎朝一緒になる清泉女学院の娘や横須賀学院の娘などを誘って太陽の季節張りに遊びほうけていました。僕らにすれば裕次郎や慎太郎はよそ者で、生まれて育った我々の方が太陽族に近いと思っていましたから、余り興味はありませんでした。ヨットは言うに及ばずフロートという今のサーフボードと同じような波乗り遊びもやりましたし、蛤も取れて絶好の遊び場所になっていつも砂山集合と言って半年間は肌を焼いたものでした。
映画の殿堂の松竹が大船にありましたから多くの芸能人が身近に居たせいもあって余り興味はありませんでしたが、それでも多少のミーハー的なところもあったので思い出すまま書いてみます。
佐田啓二:大塔宮へ行く分かれ道から少し行った左側の三角地帯。
原節子:浄明寺境内 現在は居られない。
小林十四郎:小町通入ってすぐ右側
三井弘次:扇が谷今小路左側
宇佐美淳:笹目
伊藤雄之助:笹目
井川邦子:小町辻説法通り コーヒー店井川 お元気でお店をやられている。
月丘夢路:前に書いたとおり妙本寺門前
新珠美千代:西御門
殿山泰司:雪ノ下
など等この他にも演劇や芸術関係に携わる人は数多居るわけでこれらの方達が沢山の財産を残してくれたお陰で文化的、歴史的な価値などが生まれてきたのだと思えます。
まだ、ご健在な方も居られるので詳しくは申せませんが、寅さんのおばちゃんこと三崎千恵子さんやアニメソングの水木一郎さんなども鎌倉市民である事は大きな誇りであると思います。
さて大学生になると酒は呑めるようになってきたので少し大人の話と鎌倉駅周辺のお話を致します。
このブログを書き始めた頃に丁度『鎌倉小町百六番地』と言う本が鎌倉春秋社から発売になりました。これは上智大学の名誉教授、磯見辰典さんが上梓された本で戦前の鎌倉小町周辺のことを書かれた本ですが、戦後を書いている私のこの拙文と併せて読んでいただくと今日までの変遷が分かるかと思います。
先生とはカトリック教会の集まりでお目にかかり、スカウト運動にも協力して頂いた関係でお世話になりました。
又先生のいとこ達の呑ンベーも友人なので駅前から小町の歓楽街(?)のお話を次回からさせて頂きます。
高校2年の夏に当時鎌倉の唯一のレコード店の楽聖堂のS君と共にボーイスカウトの代表として選ばれ、アメリカのコロラド州のコロラドスプリングスのジャンボリーに参加する事になりその壮行会が行われました。まだジェット機が無くてアラスカ経由の時代でした。今考えると恥ずかしいのですが壮行会というのは鎌倉をパレードして歩くと言う今では考えられない事でした。長谷観音から由比ガ浜通りを県警バンド(?)を先頭に下馬、二の鳥居前までまるで選挙の運動のようにたすきをかけて歩き、当時の市役所(今の生涯学習センター)の前で市長や教育長らの激励やガールスカウトの花束贈呈などそれは高校生の私たちにとっては吃驚するような旅立ちでした。
無論羽田空港にはバスでボーイスカウトたちや学校の友達、父の会社の人達やら海外に行くと言うのはそれだけ大変であったわけです。。この旅行がある意味人生を決めたようなところがありました。
この旅行については詳しく書きませんが、あんな大国と戦争をしたというのが間違いだったと高校生でも分かるような気がしました。又、この旅行の記録を8ミリカメラで撮りましたものを最近CDに落としましたので、1960年のアメリカの模様などが写されているので記録としては良いものが残されたなと思っています。
多分この時のアメリカの友人達は後のベトナム戦争に借り出されて亡くなった人もあるようで、その事も含め一度渡米したいと思っているこの頃です。
さて鎌倉ですがこの頃から(多分山本市長の頃)鎌倉の開発が始まりました。昭和35年から40年にかけて一大開発が鎌倉霊園の開発でした。ご存知のように西武の堤さんと山本市長の関係が取りざたされて鎌倉が段々大手のデベロッパーに侵食されていきました。西武系、東急系、野村系、三菱系、その他あらゆる開発者が土地を買い始め、所謂旧市内は辛うじて残されましたが、回りの山々はブルドーザーの餌食になっていきました。
スカウト活動にのめりこんでいましたから、毎週山に入りあるはずの獣道や木々が無くなっていると言うのが本当に残念でした。
ここに持ち上がったのが古都保存法の成立の原点になった御谷(おやつ)騒動でした。ご存知でしょうが八幡宮の左側奥、つまり巨福呂坂(こぶくろざか)の手前を直進する谷戸の開発阻止を文化人や原実さんと言う郷土史家らが反対運動を起こしてくれたのでした。この原さんが呼びかけて川端先生や大仏先生、小林秀雄さんなど錚々たる人たちが運動を展開して京都、奈良、鎌倉の3市の首長の共闘で古都保存法が成立したのです。
この鎌倉を救ったのが原さんと安田三郎さんと言うカメラマンでした。この方の写真が多くの記録を残しているはずなので鎌倉市としてもキチンと整理して保存して欲しいと思っています。
高校の生意気盛りを材木座と由比ガ浜の中間の砂山で(まだ逗子までの有料道路が無かった)5月の連休くらいから泳ぎウクレレもって遊びまわっていました。やはり女の子は必要なので毎朝一緒になる清泉女学院の娘や横須賀学院の娘などを誘って太陽の季節張りに遊びほうけていました。僕らにすれば裕次郎や慎太郎はよそ者で、生まれて育った我々の方が太陽族に近いと思っていましたから、余り興味はありませんでした。ヨットは言うに及ばずフロートという今のサーフボードと同じような波乗り遊びもやりましたし、蛤も取れて絶好の遊び場所になっていつも砂山集合と言って半年間は肌を焼いたものでした。
映画の殿堂の松竹が大船にありましたから多くの芸能人が身近に居たせいもあって余り興味はありませんでしたが、それでも多少のミーハー的なところもあったので思い出すまま書いてみます。
佐田啓二:大塔宮へ行く分かれ道から少し行った左側の三角地帯。
原節子:浄明寺境内 現在は居られない。
小林十四郎:小町通入ってすぐ右側
三井弘次:扇が谷今小路左側
宇佐美淳:笹目
伊藤雄之助:笹目
井川邦子:小町辻説法通り コーヒー店井川 お元気でお店をやられている。
月丘夢路:前に書いたとおり妙本寺門前
新珠美千代:西御門
殿山泰司:雪ノ下
など等この他にも演劇や芸術関係に携わる人は数多居るわけでこれらの方達が沢山の財産を残してくれたお陰で文化的、歴史的な価値などが生まれてきたのだと思えます。
まだ、ご健在な方も居られるので詳しくは申せませんが、寅さんのおばちゃんこと三崎千恵子さんやアニメソングの水木一郎さんなども鎌倉市民である事は大きな誇りであると思います。
さて大学生になると酒は呑めるようになってきたので少し大人の話と鎌倉駅周辺のお話を致します。
このブログを書き始めた頃に丁度『鎌倉小町百六番地』と言う本が鎌倉春秋社から発売になりました。これは上智大学の名誉教授、磯見辰典さんが上梓された本で戦前の鎌倉小町周辺のことを書かれた本ですが、戦後を書いている私のこの拙文と併せて読んでいただくと今日までの変遷が分かるかと思います。
先生とはカトリック教会の集まりでお目にかかり、スカウト運動にも協力して頂いた関係でお世話になりました。
又先生のいとこ達の呑ンベーも友人なので駅前から小町の歓楽街(?)のお話を次回からさせて頂きます。
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