御成小学校では低学年は女性の大須賀コマ先生と高学年は小関邦衛先生が担任であった。小関先生はご健在でこの正月も年賀状を頂いた。なんと嬉しい事で我々が還暦になっても同窓会に何度も出ていただいた。是非長生きをして頂いてこの先も同窓会に出ていただきたいものです。この年代は子供の人数が多くて確か7組か8組まであったような気がします。やはり戦時中の生めよ増やせの時代だったのかと思われます。
同級生の思い出の中で近所に引っ越してきた松竹の女優月丘夢路の妹というHYという可愛い女の子が居まして、何度か遊びに行った記憶があります。彼女の家は妙本寺の門前にあり大きなお屋敷でした。確か卒業までは居なかったと思いますが今どうなさっているか会って見たい気もします。又、韓国の大学教授をお父さんに持つ周鄭華さんという色白の美人でした。まだ対日感情も悪い当時でしたし、李承晩大統領の頃で帰られてからどうなっているのかも分からず同窓会でも話題の人でした。クラスでいつも1番の北里大学の教授になったS君、河童の漫画家清水昆の息子のS太郎は画伯となり、航空自衛隊の航空指令になったO君など多彩な人達が居ました。
又女性たちも凄くて目黒雅叙園の社長夫人にもなったMHさんや銀座の老舗バーマリのママのIKさんなど自立したり大手企業の重役婦人になったりと多士済々の面々でした。
鎌倉は年中行事が多くて八幡様の祭りは学校が休みになったり、大きな行事があると半日だったりと結構ゆるい学校生活だったように思います。今のゆとり授業よりゆるく、遊んでいてそれでも社会に出て社会的地位の高い所で活躍をした人が多いのはどういうことかと今の教育に疑問を感じます。子供の成長期は人生の土台作りだと胆に銘ずべきと思います。我が家にとっては母が信仰心のある人だったので、巳の日は弁天様、27、28日は荒神様、6月の茅の輪くぐりと大払いは八幡様(札納め)、8月10日は覚園寺の黒地蔵、10月15日は光明寺のお十夜など数え切れない程の寺参り、墓参り、神社回りがありました。でもそのお陰で神や仏に守られたのかもしれません。ついでに言えば母の葬式は仏式と教会で2回行いました。
自慢と言えば母が丈夫に産んでくれたので健康でいられ御成小学校で2年生から6年生まで毎年健康優良児の表彰を受けいつも乳業メーカーから一杯賞品を貰ってきたのが唯一の自慢です。
これには訳があるのかもしれないと思えたのは大人になってからですが、家の斜め前には小児科の大塚医院、裏には秋庭医院、道路に出ると楠医院、前田眼科、無論針ガ谷産婦人科も近くにあり、その全ての病院とも父が親しかったので一寸出来すぎかなとも思いました。中でも前田医院の女医先生はいつも行くと子供がいないせいもあって抱きしめてくれるのです。遊び場にもなっていました。又家の前の大塚医院は養老静江という日本でも女医の草分けの先生でいつも和服でエプロン掛けで診察し、夜はご飯を食べさせてくれるほど身内のような先生でした。
この先生の往診が駅前から人力車の車夫が迎えに来るのですが、その車夫も当時としては背の高い格好良い人でした。今たむろしている観光車夫とは比べ物にならない粋なオジサンたちでした。ちなみにこの養老先生の息子が日本の頭脳と言われる『バカの壁』を書いた彼です。子供の頃はよく一緒に遊び山に昆虫採集に行きましたが、楽しい時代でした。
小学校4年生の時に八幡宮の平家池の森でボーイスカウトの神奈川連盟のキャンポリーというキャンプ大会が開かれました。私の長兄と次兄が入っていたのでまだスカウトにはなれなかったのですが、翌年5年生になり鎌倉第2隊というところに入隊致しました。これがある種自分の人生を変えたように思えます。
ちなみに鎌倉は横須賀に近いせいもあって進駐軍の援助が受けやすく、戦後すぐにボーイスカウト運動が発展してきました。当時材木座の鈴木さんが第1隊、小町の松田さん第2隊、カトリック雪ノ下教会の第3隊の3隊が昭和25年位から活動していました。青少年教育の大事な事が言われ始めた頃だと思いますが、その頃のスカウト運動は金持ち坊ちゃんの遊び場的な認識しかありませんでした。確かにその面ではバックに居た大人は大物でしたが決して内容的には遊びではなかったのです。
次回鎌倉のボーイスカウト運動についてお話いたします。
同級生の思い出の中で近所に引っ越してきた松竹の女優月丘夢路の妹というHYという可愛い女の子が居まして、何度か遊びに行った記憶があります。彼女の家は妙本寺の門前にあり大きなお屋敷でした。確か卒業までは居なかったと思いますが今どうなさっているか会って見たい気もします。又、韓国の大学教授をお父さんに持つ周鄭華さんという色白の美人でした。まだ対日感情も悪い当時でしたし、李承晩大統領の頃で帰られてからどうなっているのかも分からず同窓会でも話題の人でした。クラスでいつも1番の北里大学の教授になったS君、河童の漫画家清水昆の息子のS太郎は画伯となり、航空自衛隊の航空指令になったO君など多彩な人達が居ました。
又女性たちも凄くて目黒雅叙園の社長夫人にもなったMHさんや銀座の老舗バーマリのママのIKさんなど自立したり大手企業の重役婦人になったりと多士済々の面々でした。
鎌倉は年中行事が多くて八幡様の祭りは学校が休みになったり、大きな行事があると半日だったりと結構ゆるい学校生活だったように思います。今のゆとり授業よりゆるく、遊んでいてそれでも社会に出て社会的地位の高い所で活躍をした人が多いのはどういうことかと今の教育に疑問を感じます。子供の成長期は人生の土台作りだと胆に銘ずべきと思います。我が家にとっては母が信仰心のある人だったので、巳の日は弁天様、27、28日は荒神様、6月の茅の輪くぐりと大払いは八幡様(札納め)、8月10日は覚園寺の黒地蔵、10月15日は光明寺のお十夜など数え切れない程の寺参り、墓参り、神社回りがありました。でもそのお陰で神や仏に守られたのかもしれません。ついでに言えば母の葬式は仏式と教会で2回行いました。
自慢と言えば母が丈夫に産んでくれたので健康でいられ御成小学校で2年生から6年生まで毎年健康優良児の表彰を受けいつも乳業メーカーから一杯賞品を貰ってきたのが唯一の自慢です。
これには訳があるのかもしれないと思えたのは大人になってからですが、家の斜め前には小児科の大塚医院、裏には秋庭医院、道路に出ると楠医院、前田眼科、無論針ガ谷産婦人科も近くにあり、その全ての病院とも父が親しかったので一寸出来すぎかなとも思いました。中でも前田医院の女医先生はいつも行くと子供がいないせいもあって抱きしめてくれるのです。遊び場にもなっていました。又家の前の大塚医院は養老静江という日本でも女医の草分けの先生でいつも和服でエプロン掛けで診察し、夜はご飯を食べさせてくれるほど身内のような先生でした。
この先生の往診が駅前から人力車の車夫が迎えに来るのですが、その車夫も当時としては背の高い格好良い人でした。今たむろしている観光車夫とは比べ物にならない粋なオジサンたちでした。ちなみにこの養老先生の息子が日本の頭脳と言われる『バカの壁』を書いた彼です。子供の頃はよく一緒に遊び山に昆虫採集に行きましたが、楽しい時代でした。
小学校4年生の時に八幡宮の平家池の森でボーイスカウトの神奈川連盟のキャンポリーというキャンプ大会が開かれました。私の長兄と次兄が入っていたのでまだスカウトにはなれなかったのですが、翌年5年生になり鎌倉第2隊というところに入隊致しました。これがある種自分の人生を変えたように思えます。
ちなみに鎌倉は横須賀に近いせいもあって進駐軍の援助が受けやすく、戦後すぐにボーイスカウト運動が発展してきました。当時材木座の鈴木さんが第1隊、小町の松田さん第2隊、カトリック雪ノ下教会の第3隊の3隊が昭和25年位から活動していました。青少年教育の大事な事が言われ始めた頃だと思いますが、その頃のスカウト運動は金持ち坊ちゃんの遊び場的な認識しかありませんでした。確かにその面ではバックに居た大人は大物でしたが決して内容的には遊びではなかったのです。
次回鎌倉のボーイスカウト運動についてお話いたします。
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