愛美は、今となってみれば、ほとんど不満
のたねがない。
まずは、念願の県立高校に合格した。それ
は中学一年生以来、ずっとのぞんでいたこと
である。
愛美のこころから、うれしさとともに、鼻
歌があふれだすほどだ。
三枝子にしてみれば、よくぞ、まあ、あん
な学校嫌いの子がと、いいたくなる。
愛美は中学に進んでから、満足に学校に行っ
たためしがなかった。
真偽のほどは確かじゃないが、彼女はおな
かが痛いと言っては、よく学校を休んだ。
また、こんなことも。愛美がすんなり玄関
を出たから、三枝子がああ良かったと、ほっ
として、茶の間でくつろごうとすると、一階
の南向きの廊下の向こう、雨戸の収納袋あた
りで、がたがた音がする。
さては、ひょっとしたらまだ、と思い、三
枝子がどきどきしながら、お勝手のドアを開
け外に出た。
彼女は家の周りをゆっくり、ぐるりと歩い
てから、玄関先をそっとかいま見た。
ああ、なんてことだろう。愛美が、戸袋に
背中をもたせかけ、たたずんでいるではない
か。
三枝子ががっかりしてしまい、ふうっとた
め息をついた。
愛美が下を向いている。長い毛がだらりと
垂れているので、顔色がよく見えない。
しかし、愛美が泣いていることを、三枝子
はすぐにわかった。
少女のころからの癖で、盛んに、左手で眼
のふちや髪の毛をいじっていたからだ。
とにかく、愛美ともども、三枝子も、おな
かの痛くなる日々を送った。
愛美は、あることが原因で、小学生の低学
年の時分から、クラスのほとんどの女子や男
子からマークされていた。
「やあい、パンダさんが来たわよ」
その言葉が、やっとの思いで教室にたどり
つく愛美の心に、大きなおもしとなった。
中学にあがるころには、両親の必死の思い
のかいあって、長い間、愛美を苦しめつづけ
た、右目のふちの小さな黒い丸形が、ずいぶ
んと小さくなっていた。
むろん、形成外科の先生のオペによるとこ
ろが大きかった。彼は、愛美の両親の気持ち
を、素直に聞き入れてくれ、力を尽くしてく
れたのだった。
「まなみ、うずうずするんでしょ、まった
く季節がわるいんだから」
「まあた、お母さんったら、それは、ぜっ
たい言わない約束だったんじゃなくって。今
度、くどくどと同じことを言ったら、ほらこ
うしてあげる」
じょうろから、いきなり大量の水が飛び出
してきて、三枝子の衣服を濡らした。
「やったわねまなみ。許さないわよ。こら」
きゃあきゃあ、わあわあと、山田家の庭が
一段と、騒がしくなった。
二階の書斎にいた信一郎は、うるさくてしょ
うがなかったが、顔は笑っている。決して窓
を開け、文句を言ったりしなかった。
「まあちょっと休まないこと、まなみ。お
いしいココアでもいれてあげるわ」
「うん」
愛美はベランダにすわった。
コンクリートの冷たさが伝わってきて、な
んだかぞくぞくする。でも、陽ざしがあたた
かく、心地よい。
どれくらい経っただろう。
三枝子が、トレイにカップをふたつのせて
もどった。
「さあ、お飲みなさい」
「ありがとう」
ふたりして、並んですわった。
「あれれ、うちのわんちゃん、どうしたの
かしら。さっきまでいたのに。まなみは知ら
ないわよね?」
「そういえば、さっき見たような気がする。
庭のすみっこで、そうたったら、何やら小さ
な棒みたいなものをくわえて……。あっ、ひょ
っとしてあの棒が、とかげさんの……」
愛美はふいに立ち上がったが、すぐにまた
腰を下ろした。
「わたし、おっかないから、行かない」
「だいじょうぶよ。あの子、食べやしない
わ。なめてるだけでしょうから。ともかくね。
さっさとはずれるようになってるのよ、とか
げさんのしっぽはね」
愛美は、白い犬が描かれた大きめのカップ
を両手で持ったまま、一口も飲まずにいる。
「とってもいい香りだわ」
三枝子は、熱いコーヒーにふうふう息をふ
きつけると、一口すすった。
「とにかく、良かった。まなみが高校に受
かってくれて」
と言って、微笑んだ。
のたねがない。
まずは、念願の県立高校に合格した。それ
は中学一年生以来、ずっとのぞんでいたこと
である。
愛美のこころから、うれしさとともに、鼻
歌があふれだすほどだ。
三枝子にしてみれば、よくぞ、まあ、あん
な学校嫌いの子がと、いいたくなる。
愛美は中学に進んでから、満足に学校に行っ
たためしがなかった。
真偽のほどは確かじゃないが、彼女はおな
かが痛いと言っては、よく学校を休んだ。
また、こんなことも。愛美がすんなり玄関
を出たから、三枝子がああ良かったと、ほっ
として、茶の間でくつろごうとすると、一階
の南向きの廊下の向こう、雨戸の収納袋あた
りで、がたがた音がする。
さては、ひょっとしたらまだ、と思い、三
枝子がどきどきしながら、お勝手のドアを開
け外に出た。
彼女は家の周りをゆっくり、ぐるりと歩い
てから、玄関先をそっとかいま見た。
ああ、なんてことだろう。愛美が、戸袋に
背中をもたせかけ、たたずんでいるではない
か。
三枝子ががっかりしてしまい、ふうっとた
め息をついた。
愛美が下を向いている。長い毛がだらりと
垂れているので、顔色がよく見えない。
しかし、愛美が泣いていることを、三枝子
はすぐにわかった。
少女のころからの癖で、盛んに、左手で眼
のふちや髪の毛をいじっていたからだ。
とにかく、愛美ともども、三枝子も、おな
かの痛くなる日々を送った。
愛美は、あることが原因で、小学生の低学
年の時分から、クラスのほとんどの女子や男
子からマークされていた。
「やあい、パンダさんが来たわよ」
その言葉が、やっとの思いで教室にたどり
つく愛美の心に、大きなおもしとなった。
中学にあがるころには、両親の必死の思い
のかいあって、長い間、愛美を苦しめつづけ
た、右目のふちの小さな黒い丸形が、ずいぶ
んと小さくなっていた。
むろん、形成外科の先生のオペによるとこ
ろが大きかった。彼は、愛美の両親の気持ち
を、素直に聞き入れてくれ、力を尽くしてく
れたのだった。
「まなみ、うずうずするんでしょ、まった
く季節がわるいんだから」
「まあた、お母さんったら、それは、ぜっ
たい言わない約束だったんじゃなくって。今
度、くどくどと同じことを言ったら、ほらこ
うしてあげる」
じょうろから、いきなり大量の水が飛び出
してきて、三枝子の衣服を濡らした。
「やったわねまなみ。許さないわよ。こら」
きゃあきゃあ、わあわあと、山田家の庭が
一段と、騒がしくなった。
二階の書斎にいた信一郎は、うるさくてしょ
うがなかったが、顔は笑っている。決して窓
を開け、文句を言ったりしなかった。
「まあちょっと休まないこと、まなみ。お
いしいココアでもいれてあげるわ」
「うん」
愛美はベランダにすわった。
コンクリートの冷たさが伝わってきて、な
んだかぞくぞくする。でも、陽ざしがあたた
かく、心地よい。
どれくらい経っただろう。
三枝子が、トレイにカップをふたつのせて
もどった。
「さあ、お飲みなさい」
「ありがとう」
ふたりして、並んですわった。
「あれれ、うちのわんちゃん、どうしたの
かしら。さっきまでいたのに。まなみは知ら
ないわよね?」
「そういえば、さっき見たような気がする。
庭のすみっこで、そうたったら、何やら小さ
な棒みたいなものをくわえて……。あっ、ひょ
っとしてあの棒が、とかげさんの……」
愛美はふいに立ち上がったが、すぐにまた
腰を下ろした。
「わたし、おっかないから、行かない」
「だいじょうぶよ。あの子、食べやしない
わ。なめてるだけでしょうから。ともかくね。
さっさとはずれるようになってるのよ、とか
げさんのしっぽはね」
愛美は、白い犬が描かれた大きめのカップ
を両手で持ったまま、一口も飲まずにいる。
「とってもいい香りだわ」
三枝子は、熱いコーヒーにふうふう息をふ
きつけると、一口すすった。
「とにかく、良かった。まなみが高校に受
かってくれて」
と言って、微笑んだ。
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