気が強く、負けずらい。
体調がいいときは、Mの伴侶のそんなところが前面に
でて、聴衆がいかに多くても、ものおじしなかった。
しかし、その時は違った。
どことなくそわそわして、落ち着きがない。
まるでけものの王者、タイガーをほうふつとさせるよ
うな目つきが消え、焦点の定まらないよわよわしい視線
がただ中空をさまよっているだけだった。
ひとりふたりとプレゼンを終えた人が、彼女のわきを
通り、舞台から立ち去って行く。
そのたびに、彼女は彼女らの背中をじっと見つめた。
(わたし大丈夫かしら。じゅうにぶんに練習を積んだの
に、どうしてか言い知れぬ不安がいや増してくる……)
胸の辺りがやけにおもおもしい。
まるで彼女が蓄積したものの上に、何か図体の重いもの
が尻をのせているようだった。
「はい、次の方、どうぞ」
歯切れのいい司会者の声が彼女の背を押した。
転びそうになるのを、彼女はこらえた。
うつむき加減で、彼女が話し出す。
「こんにちはあ、みなさん」
妙にかん高い第一声だった。
あとの言葉がつらつら続かない。
二の句、三の句が次第に消え入りそうになる。
(くっ、これじゃ二番目の子どもの二の舞じゃないの。あ
る日ある番組のオーデション。人前で歌うのは初めてで頭が
真っ白になっている次男とおんなじだ。それならよし、ひと
つ元気をつけてやるか)
Mはわざとトラブルメイカーになった。
ガタンッ。
大きな音が会場内に響いた。
「ええっ」
何人かが悲鳴に似た声をあげた。
ほかの聴衆の目と耳が背もたれ椅子から、はでに転がって
しまい、床につんのめってはいずりまわるMの姿を観ていた。
Mの妻の胸のうちで、わがもの顔で振るまっていた、よこ
しまなものが、一瞬、チチッと舌打ちした。
「おれの出番がないじゃねえか」
「ざま見ろってんだ。おらのかかあだ。ぜったい、おめえ
にゃわたさねえ」
Mは目をつむって言った。
それまで彼女のうちで抑え込まれていた彼女の真正のエネル
ギーがどこからともなくわき上がって来て、不安や焦燥の気を、
すべて追い散らしにかかった。
怒涛の猛虎の勢いそのままだった。
来るぞ、来るぞ。
こころの中で、Mが叫んだ。
子年のおらが、いつだってかなわない。負けっぱなしのかみ
さんのほん力だ。かみさんの火事場の力だ。
彼女の気力がついに、その沸点をむかえた。
「わたしの目標。一つ目はですね」
張りのある声でしゃべりだした。
聴衆のひとりひとりが、むりなく、彼女の世界に引き込まれ
ていく。
彼女がひととおりしゃべり終えると、いずこともなく、ぱら
ぱらと拍手の音が聞こえた。
「よしよし、その調子。その感じを忘れるな」
某社長が声をあげた。
拍手の音が次第に大きくなり、会場内で、こだましだした。
彼女の背筋がぴんと伸びていた。
Mは観ていた。
彼女の背後の空間で、とても太くて長い青大将の胴体が、た
けだけしいまでのトラの大きな口にくわえられ、のたうちまわっ
ているのを。
見ようとしない人には絶対に見えない。
彼女の口から正直で素直な言葉が、次々に放たれ、つばさを
ひろげ、それらを聞くにあたいする人々の耳へと、確実に飛び
立っていった。
体調がいいときは、Mの伴侶のそんなところが前面に
でて、聴衆がいかに多くても、ものおじしなかった。
しかし、その時は違った。
どことなくそわそわして、落ち着きがない。
まるでけものの王者、タイガーをほうふつとさせるよ
うな目つきが消え、焦点の定まらないよわよわしい視線
がただ中空をさまよっているだけだった。
ひとりふたりとプレゼンを終えた人が、彼女のわきを
通り、舞台から立ち去って行く。
そのたびに、彼女は彼女らの背中をじっと見つめた。
(わたし大丈夫かしら。じゅうにぶんに練習を積んだの
に、どうしてか言い知れぬ不安がいや増してくる……)
胸の辺りがやけにおもおもしい。
まるで彼女が蓄積したものの上に、何か図体の重いもの
が尻をのせているようだった。
「はい、次の方、どうぞ」
歯切れのいい司会者の声が彼女の背を押した。
転びそうになるのを、彼女はこらえた。
うつむき加減で、彼女が話し出す。
「こんにちはあ、みなさん」
妙にかん高い第一声だった。
あとの言葉がつらつら続かない。
二の句、三の句が次第に消え入りそうになる。
(くっ、これじゃ二番目の子どもの二の舞じゃないの。あ
る日ある番組のオーデション。人前で歌うのは初めてで頭が
真っ白になっている次男とおんなじだ。それならよし、ひと
つ元気をつけてやるか)
Mはわざとトラブルメイカーになった。
ガタンッ。
大きな音が会場内に響いた。
「ええっ」
何人かが悲鳴に似た声をあげた。
ほかの聴衆の目と耳が背もたれ椅子から、はでに転がって
しまい、床につんのめってはいずりまわるMの姿を観ていた。
Mの妻の胸のうちで、わがもの顔で振るまっていた、よこ
しまなものが、一瞬、チチッと舌打ちした。
「おれの出番がないじゃねえか」
「ざま見ろってんだ。おらのかかあだ。ぜったい、おめえ
にゃわたさねえ」
Mは目をつむって言った。
それまで彼女のうちで抑え込まれていた彼女の真正のエネル
ギーがどこからともなくわき上がって来て、不安や焦燥の気を、
すべて追い散らしにかかった。
怒涛の猛虎の勢いそのままだった。
来るぞ、来るぞ。
こころの中で、Mが叫んだ。
子年のおらが、いつだってかなわない。負けっぱなしのかみ
さんのほん力だ。かみさんの火事場の力だ。
彼女の気力がついに、その沸点をむかえた。
「わたしの目標。一つ目はですね」
張りのある声でしゃべりだした。
聴衆のひとりひとりが、むりなく、彼女の世界に引き込まれ
ていく。
彼女がひととおりしゃべり終えると、いずこともなく、ぱら
ぱらと拍手の音が聞こえた。
「よしよし、その調子。その感じを忘れるな」
某社長が声をあげた。
拍手の音が次第に大きくなり、会場内で、こだましだした。
彼女の背筋がぴんと伸びていた。
Mは観ていた。
彼女の背後の空間で、とても太くて長い青大将の胴体が、た
けだけしいまでのトラの大きな口にくわえられ、のたうちまわっ
ているのを。
見ようとしない人には絶対に見えない。
彼女の口から正直で素直な言葉が、次々に放たれ、つばさを
ひろげ、それらを聞くにあたいする人々の耳へと、確実に飛び
立っていった。
Mの奥さんの不安を象徴的に表現されているのと、実際にMに見えている蛇と虎が、不思議な感じで描かれていると思いました。
緊張の正体を具体的に表現されているのかなとも思いました。
独特の雰囲気を感じました。