心にたまったおりを吐きだすように、一度息
を吐きだす。
それから軽く会釈し、鳥居をくぐった。
すうっと空気を吸い込むと、かすかに森の
匂いがした。
玉砂利をザクッザクッとふみ鳴らす。
「お父さん、道に玉っこの石が敷きつめて
あるよ。どうしてだろね。静かだし。うどん
を食べたときのいやな気分が、どこかにふっ
とんじゃうみたい」
せがれも、何か、喜べない気持ちをいだい
たのだろう。
ぼそりと言った。
「ここはもう、世知がらい人の世じゃない
のさ。とおとい神さまがいらっしゃるところ
だからね。つまんないことはみんな忘れる忘
れる」
「うんわかった。でもおいしかったね。伊
勢うどん」
「ああ、おいしかったとも。お父さんも初
めて食べたんだ。お客さんが少ないと誰だっ
てぼやきたくなるし。きげんもわるくなる」
「うん」
友人Wはずっと寡黙をつらぬいている。
長年愛知県で教員をしてきたせいか、学生
とつれだっての伊勢観光はかぞえきれない。
だから神さまにお会いする心がまえが、お
のずとそなわっているのだろう。
ここは外宮。
天照大御神の食事をつかさどる、豊受大御
神が支配する領域である。
神宮の森の木、一本一本が、神さまに許さ
れる範囲で、天にむかってまっすぐに伸びて
いこうとするように思えた。
ふいに、森林浴という言葉が脳裏に浮かん
だが、すぐに打ち消された。
そんな俗っぽさが通らないほど、神々しさ
が満ちあふれている。
「お父さん、どうしたの。暗いよ。あんま
りうれしそうじゃない」
せがれに自分の気持ちを読まれたようだ。
とかく陰湿な思いに陥りがちな自分である。
わたしはしゃんと背筋をのばし、神域にふ
さわしい態度をとろうと試みた。
森林は、人類にふさわしい。
その発生期より、すいぶん長い間、森で暮
らした。
手足をもちい、幹によじのぼる。
小枝をたよりに、木々の間をつたう。
これらの行為はすべて、危険な動物から身
を守るためだった。
猿も木から落ちる?
そんなことも多々あったろう。
丸めたしっぽで、しっかり枝をつかみ、転
落をふせいだに違いない。
「手を洗ったり、口をゆすいだりするとこ
ろがここにもあるよ」
「ああ、そうだね。よく気がついたね」
わたしがひしゃくを右手で持ち、左手を洗っ
ているとき、ふいに、さっきのうどん屋さん
の接客のまずさを思い出した。
心なしか唇がゆがむ。
こんなところで、ぐちをこぼすようなこと
をしてはなるまい、と。右手の中指と人差し
指をこすり合わせ、パチンと鳴らした。
「お父さん、うるさいよ。神さまに叱られ
るから」
「ああ、ごめん」
ふたりの話は、それっきり。
三人それぞれが、周囲の人々のふるまいに
目を凝らした。
平日にもかかわらず、人出がおおい。
外宮の境内には、一切、立ち入らず、門の
前で両手をあわせるだけにした。
豊受大御神は、衣食住、産業の守り神とし
ても崇敬されている。
お礼まいりをすませた、とせがれが嬉しそ
うだ。
「いよいよホテルへ行くんだね」
「そうだ。ごちそうが待ってるぞ」
「うん」
伊勢市駅で鳥羽方面行きの列車にのりこむ。
途中まででもいいからいっしょに行く、と
友人Wが言う。
じゃあ早いほうがいいだろう、と、行先も
見ず、入線してきた列車に飛びのった。
だが、各駅停車だったようで、。一駅ごと
にとまった。
これでは鳥羽までどれくらいの時間がかか
るか見当がつかない。
おかげ参りをやり終えたという達成感に酔っ
てしまっていた。
車窓を流れる風景をぼんやりながめた。
最後に鳥羽に来たのは、せがれがみっつの
ときだから、もう四十年経っている。
辺りの様子がすっかり変わってしまった。
あの時は、近鉄をつかった。
JRを利用するのは、初めてである。
乗っているのが、五十鈴川駅どまりの列車
だと気づくのに、かなり時間がかかった。
途中一度も、車掌さんが車内を歩かなった。
また、他人のせいにしてしまいそうな自分
を発見し、またかとみじめな気持ちになった。
結局、五十鈴川駅で二十分ちかく足止め。
「Kさんさあ、こんなんじゃ、おれ帰りが
遅くなってしまうからな。引き返すよ」
「ああそれがいい。島根は遠いんだ。ほん
とにありがとう」
この駅からおよそ二時間以上かかる大阪に、
彼は宿をとっていた。
「わるかったね。わざわざこんなに遠いと
ころまで来てもらって」
「ああ、いいんだ。おれ、旅行、なんだっ
て大好きだから。また機会があったら、いっ
しょに行こうな」
「うん、そうしよう」
反対側のホームに列車が入ってきた時には
彼はもう階段をのぼっていた。
せがれの機転で、たまたまホームの反対側
に入ってきた特急にすばやく乗った。
鳥羽駅に到着すると、ホテルの名が描かれ
た小さなバスがすでにわたしたちを待ち受け
ていた。
を吐きだす。
それから軽く会釈し、鳥居をくぐった。
すうっと空気を吸い込むと、かすかに森の
匂いがした。
玉砂利をザクッザクッとふみ鳴らす。
「お父さん、道に玉っこの石が敷きつめて
あるよ。どうしてだろね。静かだし。うどん
を食べたときのいやな気分が、どこかにふっ
とんじゃうみたい」
せがれも、何か、喜べない気持ちをいだい
たのだろう。
ぼそりと言った。
「ここはもう、世知がらい人の世じゃない
のさ。とおとい神さまがいらっしゃるところ
だからね。つまんないことはみんな忘れる忘
れる」
「うんわかった。でもおいしかったね。伊
勢うどん」
「ああ、おいしかったとも。お父さんも初
めて食べたんだ。お客さんが少ないと誰だっ
てぼやきたくなるし。きげんもわるくなる」
「うん」
友人Wはずっと寡黙をつらぬいている。
長年愛知県で教員をしてきたせいか、学生
とつれだっての伊勢観光はかぞえきれない。
だから神さまにお会いする心がまえが、お
のずとそなわっているのだろう。
ここは外宮。
天照大御神の食事をつかさどる、豊受大御
神が支配する領域である。
神宮の森の木、一本一本が、神さまに許さ
れる範囲で、天にむかってまっすぐに伸びて
いこうとするように思えた。
ふいに、森林浴という言葉が脳裏に浮かん
だが、すぐに打ち消された。
そんな俗っぽさが通らないほど、神々しさ
が満ちあふれている。
「お父さん、どうしたの。暗いよ。あんま
りうれしそうじゃない」
せがれに自分の気持ちを読まれたようだ。
とかく陰湿な思いに陥りがちな自分である。
わたしはしゃんと背筋をのばし、神域にふ
さわしい態度をとろうと試みた。
森林は、人類にふさわしい。
その発生期より、すいぶん長い間、森で暮
らした。
手足をもちい、幹によじのぼる。
小枝をたよりに、木々の間をつたう。
これらの行為はすべて、危険な動物から身
を守るためだった。
猿も木から落ちる?
そんなことも多々あったろう。
丸めたしっぽで、しっかり枝をつかみ、転
落をふせいだに違いない。
「手を洗ったり、口をゆすいだりするとこ
ろがここにもあるよ」
「ああ、そうだね。よく気がついたね」
わたしがひしゃくを右手で持ち、左手を洗っ
ているとき、ふいに、さっきのうどん屋さん
の接客のまずさを思い出した。
心なしか唇がゆがむ。
こんなところで、ぐちをこぼすようなこと
をしてはなるまい、と。右手の中指と人差し
指をこすり合わせ、パチンと鳴らした。
「お父さん、うるさいよ。神さまに叱られ
るから」
「ああ、ごめん」
ふたりの話は、それっきり。
三人それぞれが、周囲の人々のふるまいに
目を凝らした。
平日にもかかわらず、人出がおおい。
外宮の境内には、一切、立ち入らず、門の
前で両手をあわせるだけにした。
豊受大御神は、衣食住、産業の守り神とし
ても崇敬されている。
お礼まいりをすませた、とせがれが嬉しそ
うだ。
「いよいよホテルへ行くんだね」
「そうだ。ごちそうが待ってるぞ」
「うん」
伊勢市駅で鳥羽方面行きの列車にのりこむ。
途中まででもいいからいっしょに行く、と
友人Wが言う。
じゃあ早いほうがいいだろう、と、行先も
見ず、入線してきた列車に飛びのった。
だが、各駅停車だったようで、。一駅ごと
にとまった。
これでは鳥羽までどれくらいの時間がかか
るか見当がつかない。
おかげ参りをやり終えたという達成感に酔っ
てしまっていた。
車窓を流れる風景をぼんやりながめた。
最後に鳥羽に来たのは、せがれがみっつの
ときだから、もう四十年経っている。
辺りの様子がすっかり変わってしまった。
あの時は、近鉄をつかった。
JRを利用するのは、初めてである。
乗っているのが、五十鈴川駅どまりの列車
だと気づくのに、かなり時間がかかった。
途中一度も、車掌さんが車内を歩かなった。
また、他人のせいにしてしまいそうな自分
を発見し、またかとみじめな気持ちになった。
結局、五十鈴川駅で二十分ちかく足止め。
「Kさんさあ、こんなんじゃ、おれ帰りが
遅くなってしまうからな。引き返すよ」
「ああそれがいい。島根は遠いんだ。ほん
とにありがとう」
この駅からおよそ二時間以上かかる大阪に、
彼は宿をとっていた。
「わるかったね。わざわざこんなに遠いと
ころまで来てもらって」
「ああ、いいんだ。おれ、旅行、なんだっ
て大好きだから。また機会があったら、いっ
しょに行こうな」
「うん、そうしよう」
反対側のホームに列車が入ってきた時には
彼はもう階段をのぼっていた。
せがれの機転で、たまたまホームの反対側
に入ってきた特急にすばやく乗った。
鳥羽駅に到着すると、ホテルの名が描かれ
た小さなバスがすでにわたしたちを待ち受け
ていた。
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