平家の落人の里とおぼしき集落を通る。
九百年も千年も前は、この辺りはどのよ
うな景色が展開していたことだろう。
女子供を連れた落ち武者が、道なき道を
心細い気持ちをかかえてたどる。
歩くとガチャガチャ鳴る鎧などは、早々
と捨て去ったことだろう。
できるだけ身軽にならないと、先を急ぐ
ことなどできない。
弓矢のたぐいは、敵を迎え撃つためだけ
ではない。
ひょいと行き会うかもしれぬ熊から身を
守らねばならなかった。
源氏の軍勢を、落ち武者たちはおおいに
恐れおののいた。
小鳥のさえずりがいつなんどき、ときの
声にかき消されるかしれなかった。
窓の外は、早春の絵巻物のようだ。
絵の具でそれらの景色をあらわしてたら
どうなるか。
わたしはぶなやならの葉を描くのに、何
色と何色を混ぜればいいかと考えてみたが、
結局うまいやり方を思い浮かばなかった。
できもしないことは、考えないことだ。
ただ観て楽しむだけで良かった。
芽ぶいたばかりの木々の葉が、わたしを
新鮮な気持ちにしてくれる。
窓を開け、外の空気を思い切り吸いたい
と思うが、せがれの車はワゴン。
後部座席わきの窓は、閉じられたまま。
「わるいが、ちょっと両方の窓を開けて
くれないかな。あんまり景色がきれいなも
のだから」
ああいいよ、の声とともに、運転席と助
手席わきの窓が両方とも、すうっとあいた。
「ああいい気持だ。ありがとう」
「ひょっとして、乗り物酔い?」
「じゃないと思う。バスには昔から弱い
けどね。若い時、いろは坂をのぼるバスの
いちばん後ろの座席にいて、ひどいめにあっ
たよ」
「ああ、それなら僕だってさ」
助手席にでんとかまえているのは、わた
しの伴侶。
「ほんとよわむしなんだから。マイナス
しか言わないんだ」
彼女はいちばん後ろの座席にいるわたし
を見ようと、思い切り首をのばした。
わたしは眼を合わせたくない。
思わず、首を横にねじった。
前から二番目の席で、次男が素知らぬ顔
をして窓外を見ている。
彼はめったに家族と出歩かない。
自分だけの世界で遊んでいるのだろう。
「ほらほら、鯉のぼりだよ。めずらしい
ね。世間をはばかって生きたのは、今は昔
のこと。若い人はいつまでもむかしの風習
にこだわるもんか」
次男がぽつりと言う。
顔かたちは、まったくわたしに似ていな
いのに、考えることはどうしたわけか、わ
たしにそっくり。
血は争えないな、とわたしは深く感じ入っ
てしまった。
五月の節句、全国どこでも、男の子のい
る家庭は武者人形や鯉のぼりを飾る。
しかし、この集落では、ちょっと前まで
鯉のぼりがひとつも見あたらなかった。
「しかし少ないねえ。鯉のぼり…」
わたしは言いよどんだ。
源頼朝の軍勢に追われる平氏の武者の気
持ちが、まるでわたしにのり移ったようで
ある。
「しょうがないんじゃないか、お父さん」
めずらしく、次男が同意する。
「ああ。さくらもすももも咲いて、雪国
にもようやく春が来ましたって感じなのに
さ。なんか寂しいよな」
頼朝の執念はすさまじかった。
弟の義経をどこまでも追撃した。
きらびやかな平泉の藤原の都まで焼いて
しまった。
道脇の畑に何やら野菜が植えられている。
あまりに上手に育てているので、わたし
は向学のために見物したいと思った。
遠目にもみごとな育ちぶりが偲ばれる。
わたしは運転するせがれに、しばし停車
してくれるように頼んだ。
「ちょっとだけだよ。会津は遠いんだか
らね」
「わるいな。五分もかからない」
わたしの両足が土に触れたとき、わたし
はこころの中で、やったあと叫んだ。
あさつき、ふきのとう、そしてさやいん
げんなどが、じゅうぶんにわたしの眼を楽
しませてくれた。
九百年も千年も前は、この辺りはどのよ
うな景色が展開していたことだろう。
女子供を連れた落ち武者が、道なき道を
心細い気持ちをかかえてたどる。
歩くとガチャガチャ鳴る鎧などは、早々
と捨て去ったことだろう。
できるだけ身軽にならないと、先を急ぐ
ことなどできない。
弓矢のたぐいは、敵を迎え撃つためだけ
ではない。
ひょいと行き会うかもしれぬ熊から身を
守らねばならなかった。
源氏の軍勢を、落ち武者たちはおおいに
恐れおののいた。
小鳥のさえずりがいつなんどき、ときの
声にかき消されるかしれなかった。
窓の外は、早春の絵巻物のようだ。
絵の具でそれらの景色をあらわしてたら
どうなるか。
わたしはぶなやならの葉を描くのに、何
色と何色を混ぜればいいかと考えてみたが、
結局うまいやり方を思い浮かばなかった。
できもしないことは、考えないことだ。
ただ観て楽しむだけで良かった。
芽ぶいたばかりの木々の葉が、わたしを
新鮮な気持ちにしてくれる。
窓を開け、外の空気を思い切り吸いたい
と思うが、せがれの車はワゴン。
後部座席わきの窓は、閉じられたまま。
「わるいが、ちょっと両方の窓を開けて
くれないかな。あんまり景色がきれいなも
のだから」
ああいいよ、の声とともに、運転席と助
手席わきの窓が両方とも、すうっとあいた。
「ああいい気持だ。ありがとう」
「ひょっとして、乗り物酔い?」
「じゃないと思う。バスには昔から弱い
けどね。若い時、いろは坂をのぼるバスの
いちばん後ろの座席にいて、ひどいめにあっ
たよ」
「ああ、それなら僕だってさ」
助手席にでんとかまえているのは、わた
しの伴侶。
「ほんとよわむしなんだから。マイナス
しか言わないんだ」
彼女はいちばん後ろの座席にいるわたし
を見ようと、思い切り首をのばした。
わたしは眼を合わせたくない。
思わず、首を横にねじった。
前から二番目の席で、次男が素知らぬ顔
をして窓外を見ている。
彼はめったに家族と出歩かない。
自分だけの世界で遊んでいるのだろう。
「ほらほら、鯉のぼりだよ。めずらしい
ね。世間をはばかって生きたのは、今は昔
のこと。若い人はいつまでもむかしの風習
にこだわるもんか」
次男がぽつりと言う。
顔かたちは、まったくわたしに似ていな
いのに、考えることはどうしたわけか、わ
たしにそっくり。
血は争えないな、とわたしは深く感じ入っ
てしまった。
五月の節句、全国どこでも、男の子のい
る家庭は武者人形や鯉のぼりを飾る。
しかし、この集落では、ちょっと前まで
鯉のぼりがひとつも見あたらなかった。
「しかし少ないねえ。鯉のぼり…」
わたしは言いよどんだ。
源頼朝の軍勢に追われる平氏の武者の気
持ちが、まるでわたしにのり移ったようで
ある。
「しょうがないんじゃないか、お父さん」
めずらしく、次男が同意する。
「ああ。さくらもすももも咲いて、雪国
にもようやく春が来ましたって感じなのに
さ。なんか寂しいよな」
頼朝の執念はすさまじかった。
弟の義経をどこまでも追撃した。
きらびやかな平泉の藤原の都まで焼いて
しまった。
道脇の畑に何やら野菜が植えられている。
あまりに上手に育てているので、わたし
は向学のために見物したいと思った。
遠目にもみごとな育ちぶりが偲ばれる。
わたしは運転するせがれに、しばし停車
してくれるように頼んだ。
「ちょっとだけだよ。会津は遠いんだか
らね」
「わるいな。五分もかからない」
わたしの両足が土に触れたとき、わたし
はこころの中で、やったあと叫んだ。
あさつき、ふきのとう、そしてさやいん
げんなどが、じゅうぶんにわたしの眼を楽
しませてくれた。
『窓の外は、早春の絵巻物のようだ。
絵の具でそれらの景色をあらわしてたら
どうなるか。
わたしはぶなやならの葉を描くのに、何
色と何色を混ぜればいいかと考えてみたが、
結局うまいやり方を思い浮かばなかった。
できもしないことは、考えないことだ。
ただ観て楽しむだけで良かった。
芽ぶいたばかりの木々の葉が、わたしを
新鮮な気持ちにしてくれる。』
の部分の描き方が特に好きですね〜♪
実際に見たり聞いたりしたものでも、あるいはまるっきり空想したものでも、思い出しながら描くわけです。かなり集中しなくれはならない。それを読んで、読者はその人なりのイメージを思い浮かべるもの。それだけに筆者は生々しく、それが本当のことのようにあらわさなくてはならない。できるだけ早く小説世界に入ってもらう。この小文の場合、2009年に会津に行ったことをもとにしています。実際に見聞したことをもとにしていますが、かなりのウソが入ってます。小説をかくときは、ウソは許されます。どう書いたら、面白いか。常に考える。テーマは日々気づかれたこと、小さくていいのです。スケッチされるといいですね。人さまにお教えできることなんて、わたしなどにはないのですが、あえて書かせてもらいました。