我が生家は?(老いの繰り言4)

2024-09-11 19:29:41 | 日記
 9月11日です。「老いの繰り言」は、あと2回程で終わりたいと思います。書くのにけっこうエネルギーが必要なのに気づきました。

 昭和20年8月15日我が祖父(父の父)は、筑前大島にて逝去しました。老衰のようですから、8月15日終戦の日となったのは偶然のことでしょう。若き日は、郵便局長や、村役場助役を勤めた日もあったようですが、ある事件に巻き込まれ、没落、最期は借家同然のわび住まいだったようです。
 爺さんの父は、大分県某町に、母と、長兄(7歳)次兄(1歳)を残して応召、長崎県五島福江に、駐屯していたとのこと。祖父の臨終にはおりません。

 終戦間際に、40歳を過ぎて召集されて激戦地へ送られ戦死された方も多いので、内地に留まれたのは幸運だったのでしょう。秋になり、一家は故郷へ引き上げてきます。が、兄弟大勢、やはり家族を連れて引き上げてきます。

 筑前大島(宗像大島)です。今でこそ、宗像大社中津宮など世界遺産の島であります。


 『北部九州の軍事遺跡と戦争資料』(副題 「宗像沖ノ島砲台と本土決戦」) 花田勝広編著(2020年6月刊 サンライズ出版)は、大変な労作です。戦前、戦中の公式軍事資料を渉猟し、砲台などの軍事遺跡を踏査、考古学の手法により実測、作図、記録を作成してあります。
 花田勝広氏は、宗像出身の考古学者、この著作には頭が下がりますし、感謝に堪えません。爺さんが、長年、疑問に思っていたことの解決の糸口をいただきました。

以下、花田氏の著作に基づき記述します。

 「太平洋戦争中ごろまでは、日本と大連、釜山、羅津の航路は、大陸から軍需品や米、大豆、岩塩などの生活必需品を、南満鉄道、朝鮮鉄道を経由し、船舶で内地に送り込む大輸送路であった。朝鮮海峡系要塞(鎮海湾、対馬、壱岐、下関)は、大陸間輸送船の航行を安全確保に援護する事が任務となっていた。」

 筑前大島には、陸軍下関要塞司令部のもとに、昭和11年、4基の砲台が設置されます。現在の砲台跡です。爺さんの小学生時代には遠足のコースでした。風車は、観光施設です。

左側円形が砲座の跡、右側が指揮所・観測所の跡です。指揮所の中からの眺望です。


続きます。画像は、宗像市HPほかからです。謝謝。