続・わが生家は?(老いの繰り言5)

2024-09-15 10:50:55 | 日記
 9月15日です。相変わらず猛暑です。クーラーを入れっぱなしでゴロゴロしております。昨夏には、徹夜ロングランにも出かけていたのですが、もう無理かな。
 孫1号(小5)の俳句(?)です。


 昭和20年(1945)終戦の秋、父母、長兄(7)、次兄(1)は、筑前大島に帰郷します。が、同じく引き上げてきた兄弟家族大勢のため住むところなく、人家無き山中のあばら家に移り住み、ヤギを飼って暮らします。ヤギ乳を配達して幾ばくかの収入は得たようですが、それで一家の生計が成り立つものではなく、漁師であった母の弟たちの援助を受けていたのでしょう。ヤギは山にはなっておけば草で生きますし、当時の食糧難ではヤギ乳も小児の貴重なたんぱく源でした。(これもまたごくわずかの期間でしたが。)
 そして、この山中が、爺さんの生家となります。現在では、とうに跡形もなく、幼き日に「ここだった。」と教えられた付近は草原、藪に消えております。

 花田勝広氏『北部九州の軍事遺跡』によりますと。(抜き書きを含む。)

 「朝鮮海峡系要塞には、対潜水艦用の砲台が設置された。(筑前大島砲台には4基据えられます。アメリカ艦隊が進出するにつれ)要塞は健在であったが、制海権、制空権を完全に失っては、機能を発揮することはできず、潜水艦による魚雷攻撃、飛行機、空爆・機銃掃射にほとんど対応できなかった。(太平洋戦争末期には、)本土空襲の爆撃機の上空通過を知らせる通信施設に過ぎない状況となった。」
 昭和18年10月には、関釜連絡船崑崙丸が潜水艦魚雷により撃沈されるなど、空爆、触雷、機銃掃射などにより「玄界灘は魔の海に変貌している。」

 (昭和20年には、「本土決戦」に備えて、要塞砲台の移転が行われます。敵上陸部隊を海岸部に足止めしておき、そこに決戦部隊が駆け付ける、ため海岸線防御の砲台としての再配置です。大島砲台4基のうち2基は島内西側、津和瀬集落の南西の断崖上に、2基は湯川山垂水峠(遠賀郡岡垣町)への移転が命ぜられます。)


 現在観光スポット化した砲台跡から、青線で示した海岸線断崖に移ります。一基据えられますが試射に至らず終戦。砲台は、海面迄80~90mの断崖に、尾根両側から掘り進めた洞窟であり、そして緑の矢印で示したところに、おそらく移転工事のための作業小屋、仮兵舎が設けれたようです。(花田氏の著作では確定されていない。)
 今ではこの砲台遺跡の存在は住民もほとんど知らないのではと思う。爺さんは父について歩いた微かな記憶があり、花田氏の著作によって、あああれは砲台跡だったのかと了解できたのでした。
 そして、この兵舎こそ我が一家の数年の住みかとなったのであります。

本土決戦」というと、現在では、何をそのバカげたこと、、とされますが、当時の軍部(とりわけ陸軍)は正気で考えそのための準備を進めています。花田氏がまとめられた終戦時の布陣図です。氏の許可を受けておりませんが、労作に最大の敬意をこめて引用させていただきます


 本土決戦が現実に行われていたら、、、、沖縄戦の惨状は無論、国の形さえ変わっていたかもしれません。
 続きます。では。