小学高学年の頃だったと思う。家の渡り廊下で座禅を組んだ。静かに前方の庭の地面を薄目で見ながらじっと坐るだけである。するといろいろなことが頭を過ぎる。座禅のザの字も知らないので頭に浮かんだ事柄を打ち消そう、打ち消そうとしていた。打ち消すことが出来ないので無我の境地には達せないと思った。そんな真似事の座禅をそれでも2回はしたが、それは自力本願と他力本願の話しを学校の先生から聞いたからである。自分は自力本願でいこうと思った。禅宗は自力本願で座禅と言うものをやり、無我の境地になれば何事も出来ないことはないと教わったからである。自分の未来を切り開いていくには自力本願が理に敵〔かな〕っていると子ども心にもそう思えた。私の家は元々は浄土真宗であったが、父は出来の悪い子を持ったせいか、それとも自分の感情をコントロール出来ない自分への嘆きのためか、日蓮宗や、天理教などに悩みを託してよくお経をあげていた。父の他力本願への反発もあったのかも知れない。今の私は自力でもあり、他力でもある。感謝をし生かされていると少しは思えるようになったからかも知れない。
今日の夕食は、
◆鮭の包み焼き ◆南瓜のそぼろ餡かけ ◆ほうれん草の白和え ◆ 味噌汁◆ご飯
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追記: 恒例の全国県対抗女子駅伝が京都であったのでTVで見た。走るランナーは自力である。が、ここでも声援という他力があって頑張れる場合もあるように思う。99%は自力であり、自分の日頃の努力が報われると思わなければ走れない。それを自信に変えて走るが、勝負の世界は過酷で追い抜かされていく。でも、この悔しさをバネにまた頑張ればよいとそれぞれのランナーに声援を送りました。