徒然刀剣日記

刀剣修復工房の作品・修復実績と刀剣文化活動のご紹介

刀剣ツアーガイド

2019-05-12 11:49:30 | 徒然刀剣紀行
昨日、令和初となる鎌倉刀剣ツアーを開催いたしました!



この度のツアーは、博物館で刀剣のご案内をされている方々の集まりということで、皆様のご要望にお応えする形でツアーコースを設定いたしました。


絶好のツアー日和、ご参加者様も刀剣に造詣の深いご一行様となれば、否が応でもテンションが揚がります!

ツアーの特設ルートは以下の通りです。

 北鎌倉駅 - 円覚寺 - 山ノ内地区 - 源氏山 - 扇ガ谷 - 建長寺


この場所に立つと、鎌倉に来た!という感慨が深まります。

令和最初のツアーということもあり、新たな気持ちでガイドを務めさせて頂きます!
今回も、円覚寺からスタートです。円覚寺では、製鉄に関する謎かけや伝承をご案内しながら、三門(山門)-大光明宝殿-正続院前-白鹿洞-梵鐘(洪鐘)のルートで回りました。

次に、山ノ内の藤源治周辺を散策しながら山道を登って源氏山公園へ、各自お弁当を食しながら主催者様が手作りなさった美味しいお惣菜のご相伴に預かりました。
藤源治では、相州伝の発祥に関する謎解きをご案内!


材木座海岸が見える見晴らしの良い高台にて、皆さんと記念撮影をさせて頂きました。

食後は、化粧坂より源氏山をあとにし、扇ガ谷方面へ。
ここで痛恨のミス!道を間違えてしまい、浄智寺方面への登山道を見失ってしまいました。ガイド失格です(涙)



というわけで、やむなく海蔵寺周辺のゆっくりした時間の中で、建長寺塔頭の禅居院前でお話しする予定でいた最後の謎解き(正宗伝説)をご紹介。

ツアーはここで終了と相成りました!

結局ご一行様は建長寺へ行かれるということで、亀ヶ谷坂切通しから長寿寺の横に抜けるルートで北鎌倉方面まで同行させて頂きました。

途中、当方の至らぬミスにより、皆様の体力と時間を消耗してしまい恐縮ではございましたが、そういったハプニングも含めて楽しんでくださったご様子でした。
ツアー中、尊敬する鎌倉ガイドさんとも少しだけお話しする機会に恵まれ、充実した一日を過ごすことができました。ご参加くださいました皆様には、この場をお借りしましてお詫び方々お礼申し上げます!


またの機会を楽しみにしております。

北鎌倉製鉄文化ツアー

2017-04-24 23:40:48 | 徒然刀剣紀行
昨日の23日(日)、以前より告知していた北鎌倉での歴史探索ツアーを決行いたしました!
当日は天候にも恵まれ、新緑が萌える高原を散策するような、心地よい散歩日和の中での開催となりました。



今回ご参加いただいたのは、8名様(鎌倉に造詣の深い団体6名様と、かねてより交流のある刀剣愛好つながりの武道家2名様)でした。



北鎌倉ルートで開催する歴史探索ツアーは、今年初になります!
去年は、紫陽花の季節と紅葉の季節に連日開催しました。



日頃、暗い工房に閉じこもって刀剣工作に集中していますので、久しぶりの明るいところでのツアーに熱がはいります。



今回は、鎌倉時代以前の北鎌倉の話からスタート。



円覚寺と製鉄の知られざる関係や、国宝の梵鐘と相州伝の知られざる関係をご紹介。

ご参加頂いた方の中からは、「もっと刀剣の話を聞きたい!」といったご要望もございましたが、全体のバランスを考えて皆さんが楽しんで頂ける内容を選びました。



久しぶりの北鎌倉では、敬愛する北鎌倉の守護神・ベテランガイドの喜清さんにも再会することができ、こんな素晴らしいお土産まで頂戴いたしました。静嘉堂文庫にて、期間限定?にて販売されているそうです!

今回は北鎌倉を舞台に、埋れた歴史を掘り起こす謎解きツアーを、約2時間かけてまわりました。ご参加くださいました皆様、この場をお借りいたしまして、厚く御礼申し上げます。

宮城県女川町:震災地の今

2016-09-23 03:24:29 | 徒然刀剣紀行
私が工芸家として積極的に活動を開始したのは他でもありません、東日本大震災がきっかけです。

子供の頃からものづくりに携わることを夢見て、20代前半で刀剣修復の修行を終えたものの(2001年独立)、あの日がくるまでは心のどこかで「廃れ往く伝統工芸の世界だけで食べていくことなど到底出来ない」と、どこか手を動かす仕事を軽視していたことも事実でした。

それまで家業と割り切っていた刀剣職人と製薬業界での技術職(臨床開発職)の二足の草鞋で活動し、新しい伝統工芸職人のあり方を模索していましたが、あの日を境に自分の中で何かが変わり、今出来ること・今しか出来ないことで社会に貢献したいと猛烈に思い立って、周囲の反対を押し切り刀剣職人に専念しました。
当然、安定した収入のない職人の世界です、生活は厳しくなりながらも好きな事を仕事にできる幸せと、朽ち果てる定めの刀剣類を一振りまた一振りと後世に残すお手伝いが出来る遣り甲斐で、この仕事を続けていく意義とありがたさを痛感しています。

そして、私の背中を押してくれた未曾有の大震災の復興イベントにお声がかかる度に、居ても立ってもいられず積極的に参加することにしています。2014年のインドネシア、2016年のインド、これらは全て東日本大震災への国際支援のお礼に繋がるイベントです。
そしてこの度、女川町にて居合演武をさせて頂く機会を頂戴しましたのでご報告いたします。

前振りが長くなりましたが、現在の女川町です。



美しい入り江には、震災の記憶を思わせるものはほとんど残っていません。



どこまでも静かな海面を海風が渡っていきます。



今回のイベントは、「ナマステ・インディア」という日本最大のインドの祭典のプレイベントとして、女川町で毎年開催されている「ナマステ・インディアin女川町」です。



インドに伝わるタンタという武道を基にした殺陣が、来日中のマニプリ舞踊団によって披露されました。



インドの剣術タンタに対して日本の居合を、鎮魂の祈りと復興への願いを込めて演武させて頂きました。



他にも、インドの伝統音楽の演奏会や伝統舞踊などが、披露されました。



皆さんボランティアにて日本中から駆けつけ、素晴らしいご活躍でした!



地元に伝わる伝統芸能も紹介され、大変魅力的でした!



帰り際に、真新しい防波堤が見えましたが、この風景を一変させる大きな津波が襲ったとは、とても想像できませんでした。



今年は九州でも大きな地震が発生したことから、現在お預かりしている熊本の御刀の修復のために鎌倉の歴史ツアーを開催し、参加者様のご了承のもと参加費用を被災地の復興の願いを込めて工作代に当てさせて頂いています。

この先震災の記憶はどんどん風化していくと思いますが、被災地への祈りやご支援の活動を継続して頂くことが、真の復興への原動力に繋がると思います。
世界中から震災をなくすことは出来ませんが、備えることと復興のために協力することは、絶対に必要だと改めて感じました。

インド:鉄の歴史たび

2016-08-07 18:33:10 | 徒然刀剣紀行
人類と鉄との関係は古く、紀元前4000年とも言われる太古の昔から生活に取り入れていたと考えられています。最初期の鉄器の製造は、製鉄によって得られた人工的な鉄を用いたのではなく、隕鉄を加工していたと考えられています。では、製鉄技術が確立したのはいつ頃かというと、紀元前2000年頃の現在のトルコ周辺とされていますが、高度に実用化の域にまで高めたのはヒッタイトという認識で大体一致しています。ここでいう「実用化の域にまで高めた」技術というのが、鍛造の工程です。代表的な鉄器に、鮮やかな鍛接模様で知られるダマスカスがあり、現在のシリアの首都周辺で製造されていました。その材料とされる鉄こそが、インド産のウーツ鋼です。

前振りが長くなりましたが、このウーツ鋼にて紀元415年に作られた強大な柱が、1600年の時を越えて今日も朽ちることなく建ち続けています。



アショーカ王の柱とも呼ばれるチャンドラヴァルマンの柱です。
世界遺産クトゥブ・ミナール複合遺跡の一角にあり、世界七不思議の一つだとかオーパーツだといわれる錆びない鉄の柱です。子供の頃、この手の古代ロマンに心ときめかせ、いつの日かこの目で実物を見てみたいと夢にまで見た鉄の柱が今、目の前にあります!



思えば、鉄好きになったきっかけは、ほんの些細なこの鉄の柱の記事だったのかもしれません。科学的な解説や考察は、様々な研究者が取り組んでいますのであえて私から発信することはありませんが、なぜか表面の画像を接写する人が少ないことも不思議でなりません。



というわけで、地表から約120cmあたりの接写画像です(ちょっとブレているのは、ご了承ください)。
よく練れたドロッとした肌には、鉄骨や働きが縦横無尽に認められ、落ち着いた錆び色が上古刀の中心のようなシットリ感を彷彿とさせます。残念なことにフェンスが張り巡らされており直接触れることはできませんでしたが、異常なほど柱から離れない私を見かねた現地人(インドスズキ社員)が、いろいろ話してくれました。彼によると、ほんの10年ほど前まで柵はなく、触ることも出来たといいます。

しつこいようですが、チャンドラヴァルマンの柱はデリー郊外の世界遺産クトゥブ・ミナールにあります。鉄愛好家なら一度は訪れたい聖域です。

話は変わりまして、この度のインドでの武家文化紹介活動にご支援くださいました皆様にお手紙をお送りいたしました。諸事情により、対応が遅くなりましたことを深くお詫び申し上げますと共に、改めて皆様のご好意に対しお礼申し上げます。



ただ今、ご支援くださった皆さんへの更なるお礼を考えています!

北鎌倉、紫陽花と鉄の知的散策

2016-06-11 03:02:59 | 徒然刀剣紀行
この時期の北鎌倉は、一年の中でも特に混雑しています。
その理由は、なんと言っても紫陽花を見ようと観光客が集まるからです。



今週あたりの紫陽花がもっとも見ごろです!
北は北海道から南は九州まで、日本中のあじさいファン?が押し寄せてきます。

しかしながら、紫陽花と鉄の関係については、あまり知られていません。



そこで、某旅行会社からのご依頼にて、鎌倉の紫陽花と鉄文化に関する知的散策ガイドを行っています。

紫陽花とはどのような植物か、鎌倉の鉄文化とはどのようなものか、両者の驚くべき関係とは・・・。
そんなことをお話しながら、一風変わった鎌倉の魅力を発信できればと思っています。

日本刀の工芸家ならではの雑学を交えながら、歴史散策の面白さをお伝えします。特に、鎌倉幕府以前の鎌倉の歴史を鉄の足跡から紹介するツアーは、製鉄の歴史を研究している私だけです。一般的な鎌倉散策に飽きた方も、きっと新しい発見があると思います。



三日連続のお試しツアー最終日となる11日(土)は、梅雨の中休みとなる週末ですので、大変な混雑が予想されます。
旅行会社さんからは、円覚寺~明月院という特別コースにて、各1時間のツアーをご依頼されています。



開始時間は、以下のとおりです。

第一回目9:30~10:30、第二回目11:00~12:00、第三回目13:00~14:00、第四回目15:00~16:00

北鎌倉にお越しの際は、ぜひお声掛けください。
しかし、今日は暑かった!明日も蒸し暑いと思いますので、マメな水分補給を心がけて鎌倉観光をお楽しみ頂きたいと思います。

朝比奈切通し

2015-08-05 01:02:07 | 徒然刀剣紀行
来る8月8日(土)に開催する「刀剣勉強会+相州伝ゆかりの地散策イベント」コースの下見のために、早朝から朝比奈へ向かいました。朝比奈切通しは、鎌倉幕府にとって貿易港である金沢への唯一の通路であり、戦略上最も重要なルートであったとされています。

~ご参考までに、ルート案内をご紹介します~

早朝6:00にJR本郷台駅前にて、先日ジャニーズの二宮さんにスイカ切りをご指南された日刀保の安藤先生と待ち合わせて、トレッキングの下見を開始!

本郷台駅からいたち川沿いに鎌倉街道まで歩きます。



神中バスの天神橋バス停までは、本郷台駅から徒歩にて10分程度。



この時間帯のバスは一時間に4本です。



いたち川は、丸々と太った鯉が気持ち良さそうに泳いでいます。



このあたりには河童伝説があり、子どもの水難事故が多かったといいます。



バスに揺られて20分程度。



朝比奈バス停に着きました。



バスから降りると、すぐに案内板が目に留まります。



道をわたって、矢印の方向へと向かいます。



見た感じ、いかにも迷いそうな細い路地へと入っていきます。



目の前に突然、風格のある大木が現れますので、目印になると思います。



少し歩くと朝比奈切通しの看板が現れます。



立て続けに解説文が現れますので、ルートは間違っていないでしょう。



「落石注意」の警告が、落石でへしゃげています。



案内にしたがって進めば、まず迷う事はありません。



始めに見えてくるのが、道祖神です。このあたりから登り坂になっていきます。



よくよくみると、庚申塚や馬頭観音など、江戸期の土着信仰のなごりです。



少し坂道を登っていくと、横横道の架橋下をくぐります。



振り返ると、早くも森の中にいることに気付かされます。



早速、鎌倉七口の一つ朝比奈切通しが、その姿を現します。



小切通しと呼ばれており、当時の姿を色濃く残しています。



一度に通れる人の数は限られ、軍事的な要害であったことが伺えます。



所々に、やぐら跡をみることができます。



突然目の前が開けて、森の静けさの中に放り出されます。



聖域の赴きがあります。前方に熊野神社の石碑が見えます。



恐らく、当初の熊野神社はこの石碑の周辺にあったのではないでしょうか?



道は二手に分かれて、左へ行くと熊野神社。右は切り通しです。



神社の縁起がありました。今回は、熊野神社へ行きません。



振り返ると、朝霧の中木立ちの間から木漏れ日がさしています。



本日最大の難関?岩場を這うように登っていきます。



両脇は、切り立った人工的な壁で、大切通しと呼ばれています。



このあたりが、最も標高が高い場所で、朝比奈切通しのメインスポットです。



横浜市と鎌倉市の境界線がこの周辺です。



鎌倉時代のままの雰囲気を留めた大変貴重な古道です。



壁面には、鑿の跡がしっかり残っています。



ここから坂道を下っていきます。



長い年月の間、大切に道が守られてきた事がわかります。



このあたりから、雰囲気がガラッと変わります。



まるで、水が枯れた渓流の様です。



神々しいまでの、美しさをたたえた古道です。



朝比奈の切り通しは、記録などによると大変短時間で完成しています。
これだけの規模の工事となると、現代でも相当な人員と経費、時間を要するでしょう。何らかの古道が元々あったのなら分かりますが、一から作ったとなるとどうも腑に落ちません。
そこで仮説なのですが、ガラッと雰囲気が変わる鎌倉側の道は、もともと大規模な鉄穴流し用の水路があったのではないでしょうか?
ここ数年、実地調査を続けてきた結果、従来の定説に反して鎌倉周辺では刀剣の原料になる砂鉄が多く取れることがわかり、周辺にもたくさんの製鉄の遺構が確認されているのです。それらをかんがみて、組織だって砂鉄を収穫する場所が周辺になければ説明がつかないと考えています。ちなみに、旧山ノ内地区と逗子(沼間地区)では、鎌倉時代以降も大鍛治や小鍛治が活発に活動しており、室町時代まで続きます。



朝比奈方面から大切通しまでの古道とは雰囲気が全く違って、鎌倉側のルートは大量の水が湧き出ています。



湿気も多く、掲示板は劣化が進んでいます。



ボチボチ大刀洗周辺です。



切り通しの鎌倉側の入口です。



修験道の霊場のような、滝が目印です。



朝比奈側にもあった解説文です。



こちらの矢印も目印になります。



朝比奈切通しは、雨が降ると、大量の水が流れて、まるで滝のようになるそうです。



この小さな湧き水が、太刀洗です。



実は、太刀洗周辺を地域の方々は、鑪ケ谷(たたらがやつ)と呼んでいます。そうです!朝比奈切通しの下流地域でたたら操業が行われていた可能性が濃厚なのです。そのため、上流に大規模な鉄穴流し場(厳密には、鉄穴流しは室町以降の砂鉄収集方法なので名称として適切ではありませんが、便宜上比重の違いによる水を用いた沈殿法の総称として用います)があったとしてもなんらおかしくありません。むしろ無ければおかしい事にすらなります。
十二所・朝比奈周辺は、山ノ内と沼間の中間に位置し、最も製鉄が活発に行われたと考えるのが自然です。恐らく7世紀頃からたたら製鉄が行われ、鎌倉幕府が切り通しを作るまで操業の火は途絶えることはなかったことでしょう。

イベント当日(8月8日)は、午前中に刀剣勉強会を開催して、その後に、鉄文化や刀剣の話をしながら本日下見したルートを散策したいと思っています。
午前中の刀剣勉強会だけの参加・トレッキングだけの参加も大歓迎ですので、お気軽にご参加ください!

相州の鉄文化の源流を探るトレッキングツアー

2015-06-08 00:15:57 | 徒然刀剣紀行
横浜市栄区周辺に残る製鉄技術者の足跡を実際にたどり、関東の鉄文化と歴史を学ぶトレッキングツアーを開催しました。



この度のツアーは、健康の促進と歴史探索のフィールドワークとを兼ね揃えた、他では体験することのできない体験学習型ツアーです。

わが町横浜市栄区には、地名や民間伝承に鉄に関するものがたくさん残されています。もっと言うと、神奈川そのものが鉄の文化に由来すると思いますが、それはまた別の機会に・・・。というわけで、いたち川を川上へと遡りながら山内鍛冶の足跡をたどる謎解きツアーなのです。



鑑定学的には、相州伝の評価は非常に高く、今日でも正宗を代表とする名工が刀剣の優劣において不動の地位を築いています。
それらの刀剣を作り出した相州鍛冶の居住地は、旧山内地区(横浜市栄区周辺)と旧沼間地区(逗子市)です。特に山内地区は鎌倉幕府との関係が濃厚で、古文書などでも多くの記録が残されているばかりか、考古学的調査も沼間地区に比べて進んでいます。



今回のツアーでは、そんな山内鍛冶がどこから来てどこへ行ったのか?どのような刀工集団であったのか?どのような時代背景の中活躍したのか?などを、現地の空気に触れながら、足跡をたどりました。



刀剣初心者の方から、歴史研究家や鑑定士の方まで、ご参加いただいた方々はおもいおもいにトレッキングを楽しんでくださったご様子でした。
また、ツアー終了後は大船駅前の居酒屋で打ち上げ会を行い、意見交換や山内鍛冶の刀剣鑑賞などの時間を楽しみました。

今後も、今回のツアーコースを定番化して、多くの方に相州鍛冶の足跡をご紹介したいと考えています。

6月6日「刀剣」と鉄文化にふれるツアーイベント開催します!

2015-05-26 23:33:28 | 徒然刀剣紀行
日本の刀剣は、大分類的には慶長期を境に古いものを古刀、新しいものを新刀と呼びます。さらに古刀の作風を分類すると、5つのグループに分けられます。それらは、大和(奈良)、山城(京都)、備前(岡山)、相模(神奈川)、美濃(岐阜)の5つの鉄の生産地を伝法とする考え方です。

中でも相州伝の伝法は、定石では「大板目肌に大乱の刃文を以って相州伝とする」とされていますが、最初期の相州伝は、山城鍛冶が鎌倉で作刀したためと解釈される程よく積んだ地金に小沸出来の直刃を焼いている物があります。

相州鍛冶の出現は、粟田口の国綱が建長期に北条時頼の求めに応じて下向し、その後、備前の三郎国宗、一文字助真が続いて、鎌倉鍛冶の源流となったと伝えられています。材料の鉄にいたっては他国より取り寄せて、武家政権の軍事需要に応えたというのが一般的な解釈です。

では、鎌倉幕府が置かれる以前に、関東に製鉄の文化はなかったのでしょうか?近年、栄区を中心に数多くのタタラ製鉄跡が発見されており、定説を大きく覆す可能性が出てきました。
そこで、横浜市栄区周辺に残る製鉄技術者の足跡を実際にたどり、関東の鉄文化と歴史を学ぶトレッキングツアーを開催いたします。

ご興味をお持ち頂いた方は、下記リンクよりお問い合わせください。
http://www.mononofukougei.com/event.html

インドネシア刀剣紀行(その3)

2015-04-22 17:07:33 | 徒然刀剣紀行
本日、インドネシアの首都ジャカルタでアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の60周年記念首脳会議が開催されています。日本からは阿部首相が参加しています。

かなり時間が経ってしまいましたが「インドネシア刀剣紀行(その2)」(2014/10/03)の続きを投稿します。


アジア・アフリカ会議会議場

インドネシアの地方都市バンドンは、国中の高等教育機関が集中していて学園都市の様相を呈しています。標高が高いことから日中でもすごしやすく、日本よりも若干涼しいぐらいの気候です。イメージ的には軽井沢をご想像頂ければシックリきます。


バンドン工科大学のキャンパス

車で数時間移動すれば、手付かずの自然や一面広がる茶畑の絶景を満喫する事も出来ます。


タンクバン・プラフ火山の噴火口


見渡す限りお茶畑

ここバンドンは、戦時中に日本軍が司令部を置いたこともあり、日本との関係も濃厚です。現地の駐屯地には軍事記念館が併設されており、日本兵の刀剣類も数点展示されていました。


展示品の刀剣、一振りのみ造兵刀を確認

山中には、日本軍が作った地下要塞なども残っており、観光地として地元の人にも人気があります。



繁華街には、日本でもお馴染みのカフェや飲食店が立ち並び、コンビニの品揃えはほぼ日本と変わりません。



今回は軍隊の協力を得て、インドネシア軍の元大佐のご自宅へお邪魔しました。もちろん、残留日本刀の調査が目的です。


若かりし日のご老人。日本軍より教練を受けた遊撃隊の最後の生き残りという。

拝見したお刀を、日本製と断言することは出来ませんでしたが、拵えの工作に関しては、間違えなく刀剣の知識を持った人間による柄巻きが施されていました。刀剣職人が従軍していた可能性は否定できず、先輩職方の足跡に触れることができました。


持ちやすい柄成をした一貫巻きの柄前

かの地では、終戦後も自由意志で現地に残り、インドネシア独立のために戦った日本兵がいました。約千名の日本人が西ジャワから中部ジャワを拠点に独立戦争を戦って大半が戦死したそうです。ちなみにインタビューをお受け頂いたご老人は、その後の人生でも常に上官から教えられた言葉を胸に生きてきたと言います。その言葉とは「死ぬまで戦う!」。流暢な日本語でした。
また、終戦後に帰国を夢見て引揚船に乗った2000名の日本人が、オランダ軍に撃沈され非業の死を遂げた事実を日本に伝えて欲しいと懇願されました。

イベント最終日に愛好家が持参してくれた日本刀です。
関鍛冶の真面目な作品で、大切に保管されてきた経緯を考えると考え深いものがありました。


濃州住氏房作の昭和刀、錆身なれど兼房丁子の美しいお刀でした。

この度のイベントでは、武家文化の紹介事業としてはインドネシア初の試みでした。今後も両国が文化交流を重ねてよりよいパートナーシップを結んでいくことを願って止みません。

インドネシア刀剣紀行(その2)

2014-10-03 17:14:37 | 徒然刀剣紀行
前回の「インドネシア刀剣紀行(その1)」(2014/07/17)に引き続き、インドネシア共和国バンドンにて実施した日本文化紹介イベントの続きです。



インドネシア共和国は、東南アジアの南部に位置する島国です。日本からは、直行便で約7時間ほどで首都のジャカルタへ行くことができます。



スカルノ・ハッタ国際空港に到着すると、むせ返る様な熱帯地方特有の熱気に包まれます。



人口は2億3000万人を超え、世界第4位の規模といいます。ちなみに、大多数の国民はイスラム教徒で、世界最大のイスラム教国としても知られています。



近年の急速な経済発展により、巨大なショッピングモールや高級マンションが乱立しています。



貧富の差もかなり進んでいる様で、高速道路の架橋下などに人が住み着いています。



閑静な住宅地の壁を挟んで貧民街のプレハブが立ち並ぶ町並みには、違和感を感じます。



まず初めに驚かされたことは、永遠と続く交通渋滞の列。長距離バスに揺られること約5時間、今回の開催地バンドンへと向かいます。



バンドンは、ジャカルタから約200km離れた中堅都市で、複数の大学が点在するインドネシア屈指の学園都市です。町並みは、ジャカルタとはガラッと変わり、オランダ植民地時代の建造物が残るリゾート地です。



知識人や外国人が多く住んでおり、わりと英語も通じます。後日知ったのですが、インドネシアは英語教育に力をいれており、小・中・高と英語が必須科目になっているそうです。



街の中心部は海抜700mほどで、四方を標高2000mクラスの山々に囲まれていることから、日中の気温は27~28度、夜は17~18度と、大変涼しくて過ごしやすい環境でした。



この地で、イベントの運営と同時進行で、大戦時の日本軍将兵が残した日本刀の調査を行ないます。

インドネシア刀剣紀行(その1)

2014-07-17 21:00:09 | 徒然刀剣紀行


インドネシア共和国のバンドンにて、アジア初となる日本刀とクリス(インドネシア美術刀剣)の合同展覧会を開催いたしましたので、以下に活動記録を記します。



本年5~6月中の約1ヵ月間、両国外務省の後援を受けて、日本とインドネシアの美術刀剣展示会を開催いたしました。



これは、西ジャワ州の首都バンドンにあるアジア・アフリカ会議博物館にて、2014年5月16日に催されたジャパン・ディのイベントに併せて開催されたもので、2011年に発生した東日本大震災の復興に関するご紹介と応援へのお礼の意味合いを含んだ文化交流イベントという位置付けです。



この度のインドネシア訪問では、日本より刀剣4振り(太刀2振り、刀1振り、脇差1振り)、外装6振り(太刀拵え1振り、打刀拵え5振り)、鎧1領、兜2頭を持参しました。



ちなみに、本邦で開催されるイベントでは、刀剣は刀剣だけ、鎧は鎧だけ、拵えは拵えだけといった展示例が多く、武家文化を中心軸にこの度の様な多岐にわたる展示品を幅広く陳列することは稀です。



また、合同展示に供されたインドネシア伝統刃物のクリス約10点は、国立博物館が収蔵する国宝指定の刀剣類です。



この度の展覧会がインドネシア初の試みであるばかりか、アジア初の刀剣展覧イベントとなりますが、こうした活動が親日国のインドネシアで開催され、しかもアジア・アフリカ諸国の反帝国・反植民地主義、民族自決の精神を世界に知らしめたバンドン会議場で開催されたことは大変喜ばしく、後々まで意味深いものであると感じました。


紅葉

2011-11-30 18:10:53 | 徒然刀剣紀行
戸塚地域の田園風景が残る舞岡公園へ、散歩に出かけました。

今年の紅葉は、あまり期待していなかったのですが、意外や意外!美しい紅葉が見られました。



想像以上に綺麗な紅葉です。
もう少し早く来れば真っ赤な紅葉が見られたでしょうか?

舞岡公園では、福島原発事故による放射線の影響を検査したところ、乾しいたけから食品衛生法の暫定規制値500ベクレル/kgを上回る放射性セシウム1181ベクレル/kgが検出され、さらに「草木灰」からは、2651ベクレル/kgの放射性セシウムが測定されたといいます。
草木灰は、園内で回収した竹や木などを燃やした際にできるもので、公園内施設「小谷戸屋」で3月から11月にかけて約120袋を販売していたため、回収騒ぎになりました。

身の回りにある当たり前の風景にも、放射能の影は確実に忍び寄っているのだなあと、今更ながらに不安をおぼえます。



これから、長期にわたって健康被害や目に見えない不都合が発生していくのでしょうか?
次世代を担う子供たちに影響が無いことを願ってやみません。

応挙館

2011-11-03 00:08:27 | 徒然刀剣紀行
昨日、国立博物館の茶室「応挙館」へ行きました。

国立博物館ホームページによると、尾張国(現在の愛知県大治町)の天台宗寺院明眼院の書院として寛保2年(1742)に建てられた建築物だそうです。
後に、東京品川の益田孝(鈍翁・ 1848~1938)邸内に移築され、昭和8年(1933)国立博物館に寄贈され、現在の位置に移されたといいます。
室内に描かれている墨画は、天明4年(1784)、円山応挙(1733~1795)が明眼院に眼病で滞留していた際に揮亳したものであると伝えられています。

確かに見事な障壁画でしたが、2007年に作品保護のため複製画に差し替えられたのだそうです。

当日は、ほぼ一日応挙館で過ごしたにも関わらず、最高級の刀装具が一堂の会していたことや、若干酔いも回っていたこともあり、ほとんど障壁画をみる余裕がありませんでした。

残念!

正宗の作刀地?

2011-06-22 09:36:03 | 徒然刀剣紀行
先日、いたち川周辺を散歩中に、フッと考古学に思いを馳せた。

本郷台周辺は、鍛冶ヶ谷という地名が残るなど、刀剣の歴史と縁深いのです。
特に、いたち川流域の古代文明については、数多くの遺跡が発掘されており、多くのたたら場跡が確認されています。

図書館などで調べると、鎌倉時代以前よりいたち川流域には渡来人がコロニーを形成しており、周囲の原始的な住民とは次元の違う文化圏をカタチ作っていた様です。

ちなみに、いたち川の由来を調べてみると、イタチが生息していたとか、戦へ向かう武人がこの川で身を清めた「出で達ち」が語源といいます。
刀剣職人として言わせていただくと、「それはないだろう!」と思ってしまいます。

理由は、おびただしいたたら製鉄所跡や砂鉄の調達跡からみて、当時の川は常に真っ赤に染まり、魚はおろか小動物が生息するには過酷な環境であったことが想像できるからです。これは、伯耆の日野川の由来を考えれば、同様にかつ安易に想像がつきます。
この事から、まずイタチの生息域という説は除外せねばなりません。イタチどころか魚すら生息には厳しい環境です。
次に、清めの川としてですが、汚染された水で身体を清めたいとは思わないのではないでしょうか?

さらに、イタチの語源を調べてみました。
川の生態系の上位に位置し魚を食べ干してしまうため「魚絶ち」が語源とするもの、立ち上がった姿が火柱の様で「火立ち」を語源とするものなどです。
興味深いのは、後者です。
動物ではなくイタチという言葉の語源が「火柱」から来たとすると、大鍛冶施設が充実していたいたち川流域を表現するには、これ以上なくシックリきます。
ちなみに当時のたたら場は、傾斜地に縦型に設置され、火柱が天を焼くような構造であったと思います。

なお、いたち川という名称の河川は、国内にもう一ヶ所あります。
それは平成の名水100選にも選ばれた、富山県富山市のいたち川です。
富山には、鎌倉よりもさらに古い古代文明が栄えた形跡があるといいます。
富山も当然、渡来の高度な文化圏が形成されていたことが考えられますので、同じく鉄器の製造を行っていたことは間違いありません。

いずれにしろ、いたち川周辺では、当時の科学水準をはるかにしのぐ、文明圏が確立していました。その文明人達が富山から来たとする証拠はありませんが、同一の文化圏(つまり大陸)からもたらされた技術をもっていたのです。

ここで話をガラリと変えて、頼朝が鎌倉に幕府を定めたのはなぜでしょうか?
この辺りの歴史は極めて曖昧で、ともすると無策に鎌倉入りした様にすら感じます。
しかし、戦略家として有名な頼朝が、突発的に暫定政府を置くわけもなく周到な用意がなされたはずです。
実際に、頼朝は挙兵前に、逗子や葉山、鎌倉を事前に訪れている形跡があるといいます。
当然、いたち川流域の高度な文明圏にも接触を試みたことが想像できます。
いや、むしろいたち川流域文明を手中に収めることが目的であったかもしれません。

当時の刀鍛冶は、今日のように一人で作業をすることは出来ませんでした。
基本的に大鍛冶と呼ばれるたたら場職人と小鍛冶と呼ばれる刀鍛冶は、一連の技術者集団として行動を共にしていました。
そのため、恐らくたたら製鉄の段階で、刀鍛冶が炭素量の調整や操業に関与していた可能性は否定できないのです。

鎌倉幕府の武器量産体制の確立には、いたち川流域の職人(唐鍛冶系)の大鍛冶技術がないと、他国から招いた小鍛冶の技術は発揮されません。
いたち川流域唐鍛冶系と粟田口系や備前系の鍛冶とのコラボによって相州伝が完成したのではないでしょうか?

このような考察から、正宗の工房は鎌倉城内ではなく、いたち川周辺つまり本郷台周辺であったと推測しています。

鶴岡八幡宮

2011-06-05 18:54:18 | 徒然刀剣紀行
先日、久しぶりに鎌倉の町へ出かけました。
目的は、鶴岡八幡宮で祈祷をお願いするためです。

昨今の鎌倉は、近年最多の観光客が訪れているといいます。
市の観光課によると、行楽シーズンの好天や2年ぶりの花火大会、猛暑による海水浴客の増加などが要因なのだそうです。
当ブログでも取り上げましたが昨年3月の大銀杏の倒壊や、11月のオバマ米大統領の鎌倉大仏訪問などの話題も、注目度の向上に貢献したことが想像できます。

そんな鎌倉の歴史は古く、学生時代に1192年→イイクニ作ろう鎌倉幕府と学んだのは皆さんも同じだと思います。ちなみに最近の中学では、鎌倉幕府の成立は1192年ではなく、1185年と習っているそうです。
根拠は、1192年は源頼朝が征夷大将軍に就いた年であり、頼朝は1185年に軍事行政を司る役職「守護」や、税金徴収をする「地頭」を任命する権利を得ていることから、その時点で幕府の制度を整えているということらしいのです。

いずれにしろ鶴岡八幡宮は、武家の守護神なのです。
刀剣職人としては、当然祈祷をお願いする場合、鶴岡八幡宮にお願いします。



一般のお参りではなかなか見ることがない本宮控室の美しい柱



本宮控室から見た大石段周辺



美しい金弊と息長鈴