徒然刀剣日記

刀剣修復工房の作品・修復実績と刀剣文化活動のご紹介

戸塚を思う

2017-05-20 11:57:08 | ブレイク
昨日、徹夜明けの身体に鞭打ち、戸塚へ・・・。刀剣修復のご相談があるということで、ご近所さんのご自宅へ車を走らせました。

戸塚は、江戸時代に旧東海道の宿場町として栄えたことが知られています。近年、駅前の急速な再開発で、新しい街として生まれ変わりつつあります。
戸塚町にある富塚八幡の縁起によると、平安時代に戸塚修六郎友晴らがこの地を開墾したことに由来し「戸塚」と呼ぶようになったとあります。



当時の山ノ内荘の地名からも、戸塚が古い地域である事がわかります。
となれば、相模の文化である坂東の武家文化と密接な関係が想像できます。
中でも武家の権力の象徴として、武力を支えたであろう製鉄の技術が発達していたことは安易に想像できます。ところが、このあたりは極端に資料に乏しく、製鉄の遺構なども栄区に比べて調査が進んでいません。

そこで、注目に値する資料を一つご紹介します。



「本朝鍛治考」に、日頃見慣れない相州鍛治の一群の記載があります。



室町期の刀匠弘房が、相州土塚住とあります。この土塚は戸塚の誤記と思われます。そうです、室町時代まで戸塚の地にも製鉄の文化が生きていたのです。元々技術や文化的土壌の無いところに、突然製鉄文化は登場しませんので、戸塚区の地域でも栄区同様、相州鍛治が活躍していたことが考えられるのです。

山ノ内と沼間の鍛治集団はよく知られていますが、山ノ内荘全域で高度な製鉄文化が発達していたことを根本的に理解する必要がありそうです。

古作短刀の修復

2017-05-19 10:35:50 | 刀身研摩
可愛らしい短刀の研摩が、終わりました!



この短刀は、研ぎ減りによるものなのか?はたまた元々の形状なのか、反りがありません。反りがないどころか逆反りづいているため、突っ伏したような体配です。通常このような短刀を「筍反り」などといい、修復の過程で峰側から整形を施したため、タケノコのような形状になったと解説されることが多いです。しかしながら、作刀当初からこのカタチだった可能性も否定できません。

さて、この短刀身。錆身の状態で当工房へ担ぎ込まれました。数多のヒケ傷、刃こぼれ、そして驚くべき事に峰が無数に叩き潰されていました。おそらく、胡桃などの硬いものを割る為に峰側をハンマーで叩いて鑿のように使ったのではないでしょうか?白鞘の鞘書きによると「波平」に極められ金粉銘があったようです(茎が磨かれて?金粉銘は確認できず)。大変貴重な胡桃割り工具ということになりますが、刀剣をこのように使用している方が他にもいらっしゃる様でしたら、直ちにやめてください!限りある文化財の破壊行為にほかなりません。



研摩を施した結果、直刃調のノタレ刃に細かく働き、帽子は焼き詰め。柾目の肌もあいまって「波平」という鑑定は無難です。教科書通りの落し処ですが、西国の鉄はもう少し黒く鍛えも粗い様に感じます。研いだ時の感触からいって素直に大和本国でよいのでは?と思います。ちなみに、刃長(刃渡り)は16cmほどしかありませんが焼き出しになっており、鑑賞の魅力あふれる古短刀です。白鞘も古く、鳩目は表と裏で陰陽になっており、かつては大切にされていたことが窺い知れます。



日頃縁組みの仲介は致しませんが、所有者様がご高齢ということもあり、一日も早く心ある愛刀家のもとに納まって欲しいので、例外的にお力添えさせて頂きます。ご興味のある方は、ご一報ください。