工作を行う傍ら、常々伝統を重んじ文化を継承する責任を痛切に感じます。
私にとって拵え工作とは、作品作りという枠を超えた、ある意味宗教的な概念に近いとすら感じております(宗教というものにあまり興味はありませんが・・・)。
大村邦太郎著、福永酔剣増補の『日本刀の鑑定と研磨』(昭和50年発行)の一節に、私自信衝撃を受け、共鳴する言葉がつづられています。
この文章に初めて出会ったのは、10年以上前ですが、今では私の道を照らす大きな指針となっていますので、ご紹介いたします。
以下、抜粋。
日本刀はいうまでもなく一工芸美術品でありますが、古来、神器とか霊器とかいわれて、今なおわれわれのうちに強く働いているのみならず、おそらく日本のある限り、その活動を止めないでありましょう。これは長い間の伝統が然らしめるのでありますが、なによりもまず、刀自体が久遠に讃えられるべき高度の価値を有するからであります。
すべて工芸品の価値は、実用と観賞との二つの価値の単なる和によって定まるものではありません。これらのものは本来それぞれに異なるものであって、決して同一の算盤にはのらない、したがって工芸品の本質的価値は、工芸品としての独自の地に結んだ果実でなければならないものであります。
この意味においても、日本刀はおのずから純粋至高の工芸品的価値を備えております。すなわち日本刀においては利が即ち美であり、美の裏側が利なのであって剥がし分かつことはできません。一般工芸品と称するものにおけるがごとく、そこはかとなき属性的価値を誇示しない代わりに、渾一体なるあるものを価値の皮嚢に充満し、いみじき香気をさえ発して、つねにわれわれを導いております。
上記の導きは一般論に過ぎないかもしれませんが、伝統工芸に従事できることを感謝すると共に、初心を忘れることなく更なる技術の向上と精神の鍛錬を続けて行きたいと思います。
私にとって拵え工作とは、作品作りという枠を超えた、ある意味宗教的な概念に近いとすら感じております(宗教というものにあまり興味はありませんが・・・)。
大村邦太郎著、福永酔剣増補の『日本刀の鑑定と研磨』(昭和50年発行)の一節に、私自信衝撃を受け、共鳴する言葉がつづられています。
この文章に初めて出会ったのは、10年以上前ですが、今では私の道を照らす大きな指針となっていますので、ご紹介いたします。
以下、抜粋。
日本刀はいうまでもなく一工芸美術品でありますが、古来、神器とか霊器とかいわれて、今なおわれわれのうちに強く働いているのみならず、おそらく日本のある限り、その活動を止めないでありましょう。これは長い間の伝統が然らしめるのでありますが、なによりもまず、刀自体が久遠に讃えられるべき高度の価値を有するからであります。
すべて工芸品の価値は、実用と観賞との二つの価値の単なる和によって定まるものではありません。これらのものは本来それぞれに異なるものであって、決して同一の算盤にはのらない、したがって工芸品の本質的価値は、工芸品としての独自の地に結んだ果実でなければならないものであります。
この意味においても、日本刀はおのずから純粋至高の工芸品的価値を備えております。すなわち日本刀においては利が即ち美であり、美の裏側が利なのであって剥がし分かつことはできません。一般工芸品と称するものにおけるがごとく、そこはかとなき属性的価値を誇示しない代わりに、渾一体なるあるものを価値の皮嚢に充満し、いみじき香気をさえ発して、つねにわれわれを導いております。
上記の導きは一般論に過ぎないかもしれませんが、伝統工芸に従事できることを感謝すると共に、初心を忘れることなく更なる技術の向上と精神の鍛錬を続けて行きたいと思います。