門前の小僧

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風化させぬ人類の記憶『六千人の命のビザ』

2014-04-04 16:50:49 | 読書
杉原千畝という、第二次大戦中の外交官の名を初めて聞く方も多いと思います。
名前は千畝(ちうね)と読み、大戦中リトアニア日本領事館の領事でした。
杉原の在任中、ナチスドイツの迫害を受け、欧州各地より逃れてきた多数のユダヤ人たち難民がこの領事館を訪れる。もはやどこにも身の置き所のなくなった彼らは、日本のビザを最後の藁ともすがり、他国へ逃れようとしたのです。老人、子どもを含む多くの家族、何の罪もない哀れなユダヤ人たちの窮状を見かねた杉原は、本国外務省の訓令を無視して、独断で日本通過のビザを発給しました。
これが6000人ものユダヤ人の命を救うこととなり、戦後、杉原は海外で「日本のシンドラー」と讃えられるようになるのです。

◆『六千人の命のビザ』杉原幸子
http://p.tl/4SJw


この本は、千畝の妻、幸子がリトアニアへ同行し、すべてを自らの目でつぶさに見た唯一の記録。世界大戦という状況の中、国命と人道の板ばさみとなり、苦悩の末、自分の未来も家族もすべて投げ出し、見ず知らずの異国の民を救った夫の決断。これを身近で見、その体温を感じつつ、懸命に支えた伴侶の貴重な証言なのです。

未来に向け、決して風化させてはならない魂の記録、『六千人の命のビザ』より、いくつかの段落を引用して以下概略をご紹介しましょう。


リトアニアのカウナスにある領事館に着任した、1940年7月27日の朝、信じられない光景が杉原夫妻の眼前に突然あらわれます。

 

一九四〇(昭和十五)年、七月二十七日の朝。私たちはいつもと同じように軽い朝食をとり、夫は階下に下りていきました。
夫は早起きで、夜明けの鳥の鳴き声とともに起き出してきます。その朝も晴れていて、顔を覗かせたばかりの柔らかな陽の光が、カーテンの隙間から差し込んでいました。夏といっても、リトアニアは北の国です。朝晩は肌寒く、昼でも気温は十七度ぐらいにしか上がりません。しかし私たちが起き出す頃には、領事館の中は適当な室温に保たれ過ごしやすくなっていました。
カウナスは古風な家並みが続く静かな町でした。日本領事館は丘の中腹の高台に建ち、庭から町が一望できます。一階が家族の部屋が並ぶプライベートなフロアで、平地下の階下は夫が仕事をする領事館の事務室になっていました。そして二階に使用人がいました。朝食が済むと階下に下りていき、昼食の時間に再び家族の前に顔を見せるのが夫の日課でした。
その朝も、階下に下りていく夫を見送り、私は自分の部屋に戻ると、本を読み始めました。いつも、こうして静かな午前が過ぎていくのです。本を開いて十数行ほど読み進んだとき、ノック音がして、夫が入ってきました。
「ちょっと窓から覗いてごらん」
私を促すように窓に近づいていく夫に、一瞬、戸惑いを覚えました。夫は仕事にまじめな人でしたから、執務時問中に一階に上がってくるようなことはまずないことでした。カーテンを少し開けて、夫は再び促すように私を見ます。夫の側に寄り、窓の外を何気なく眺めて、私は自分の目を疑いました。 ・、
建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしているのです。
カウナスの中心地から少し離れたこの高台は、人通りもあまりなくいつも静かなところでした。それが一夜にして何百人もの群衆が押し寄せ、動いているのです。「どうして?」という思いで私は夫の顔を見つめました。夫にもその理由はつかみきれない様子でした。
再び夫は階下へ下りていくと間もなく上がってきました。
「ポーランドからナチスの手を逃れてユダヤ人が来ている。日本通過のビザを要求しているんだよ」
これは只事ではないと夫は考え、ボーイのボリスラフを呼んだのでした。

(『六千人の命のビザ』第一章 逃れてきた人々)


異常な事態に当初動転する杉原夫妻。生きる希望を失い、それでも一縷の望みにすがりはるばると苦難の旅を続けてきた難民たちです。何とかして助けてやりたい。そのために日本外務省にビザ発給の許可を求めるのですが…。



外務省への三度にわたる電報には、いつも同じ返事が返ってきました。三度目の「内務省が大量の外国人が日本国内を通ることに治安上反対している。ビザ発行はならぬ」という回答に、夫の心は決まったようでした。

「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください」
私の心も夫とひとつでした。大勢の人たちの命が私たちにかかっているのですから。
夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」とつぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不安が感じられました。
「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」
それだけの覚悟がなければ、できないことでした。
「ここに百人の人がいたとしても、私たちのようにユダヤ人を助けようとは考えないだろうね。それでも私たちはやろうか」
夫は私の顔をまっすぐに見て、もう一度、念を押すように言いました。

(第一章 逃れてきた人々)


己の信念と良心のみに従い、ビザ発給を決断する杉原。決心したからにはもはや後のことなど念頭にはなく、一天の曇りもない澄みきった心中でした。しかし実際、ビザを求める難民は数知れず、手書きでビザを作成する日本領事は千畝ただひとり。この瞬間から、寝食を忘れた杉原の戦いが始まりました。


夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き会ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。
門を開くと大勢が入って混乱するというので、ガレージの入りロが使われることになりました。
それでも入りロが開かれると、人々は我先にと争って入ろうとします。鉄柵を乗り越えようとする人も出てきました。
「ビザは間違いなく発行します。順序よく入ってきてください」
夫の呼びかけに、人々は少し冷静さを取り戻したようでした。


始めの頃、夫は一日に三百枚のペースでビザを書くつもりでいました。カウナスの領事館は情報を得るための臨時のもので、ビザの用紙もそう多くはありません。全てを手書きで、しかも一人一人の名前を間違えないように書くという手間のかかる作業です。
事務員のグッジェが領事の印を押すのを手伝っていました。
グッジェはドイツ系のリトアニア人でしたが、ユダヤ人を助けたいという気持ちは私たちと同じだったのでしょう。夫とともに食事もとらずに懸命に働いてくれました。それでも記入するのは夫でなければできません。知らず知らず手にも力が入ってしまいます。万年筆が折れ、ペンにインクをつけて書くという日が続きました。一日が終ると夫はぐったり疲れて、そのままベッドに倒れこむ。痛くて動かなくなった腕を私がマッサージしていると、ほんの数分もたたないうちに眠り込んでしまっている状態でした。

(第一章 逃れてきた人々)


無数のビザの山と果てしない格闘を続ける杉原のもとへ、本国からリトアニア離脱の緊急命令が届きます。いまだに多くのユダヤ人が取り巻く領事館をやむにやまれず後にする杉原夫妻。取り残された人々の茫然とした表情が目に焼きつきます。しかし、杉原はカウナス駅の列車の中でも、最後の最後まで、懸命にビザを書き続けました。


「リトアニアはソ連領になった。すぐに引き揚げろ」、という内容の外務省からの電報が届きました。国境が閉ざされてしまえば、国外に脱出することはできなくなります。
九月一日の早朝、カウナス駅でべルリン国際列車を待っている時にも、ビザを求めて何人かの人が来ていました。汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して夫は許可証を書き続けていました。
汽車が走り出し、夫はもう書くことができなくなりました。
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼きついています。
「バンザイ、ニッポン」
誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。
外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれることを期待していたのでしょう。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。


(第一章 逃れてきた人々)


リトアニア離脱後、日本に引き揚げるまで数々の苦難を経験。ようやく日本へ帰国した杉原へ外務省から冷酷な仕打ちが待っていました。それは予想し、覚悟もしていたことなのですが。



夫は外務省へ時々行っていたのですが、しばらくは出省しなくてもよいということで身体を休めていました。日本に帰って三ヶ月ほどした時、外務省から手紙で出省するようにという知らせがありました。その日、帰ってきた夫の顔が暗く、沈んでいるように見えました。
「何かあったのですか?」
よくないことがあったのではないかという予感がして、すぐに聞きました。
「ああ、外務次官の岡崎さんの部屋に呼ばれて、『君のポストはもうないのです、退職して戴きたい』と言われた」
夫はポツリと言うと、黙り込んでしまいました。私は言葉を継ぐこともできません。ただ夫の顔を見つめているだけでした。かなり後になって、岡崎次官に「例の件によって責任を問われている。省としてもかばい切れないのです」と言われたことを聞きました。
夫は「こういうことになるのでは」と覚悟していたようでした。しかし外務省のために全力を使い果たして帰国した身に、この仕打ちに対しては、やはりがっかりした様子でした。ユダヤ人を助けるために本省の命に背いてビザを発行した時点ですでにこうなることは決まっていたのですが、ヨーロッパは遠いために生き延びてきたというのでしょうか。それにしても夫はカウナス以後も外務省のために懸命に働いてきた人です。それを戦後になって…。

(第六章 祖国の苦い土)



戦後、杉原の「命のビザ」の事跡に対し、日本政府、外務省は一貫して無視の態度を貫き通しました。当時、杉原のビザにより命を救われたユダヤ人が外務省に照会を求めたところ、「そのような人物は存在しない」と一顧だにされなかったといいます。
外務省を追われ、不遇の後半生を送る杉原のもと、28年ぶりにカウナスで別れたユダヤ人より連絡が入ります。1968年、日本の大使館へイスラエルの領事として新たに赴任してきたB.G.ニシュリ、その人でした。
再会に涙するニシュリが「これを覚えていますか」と差し出した、ぼろぼろになった一枚の紙切れこそ、杉原自身が発行した「命のビザ」だったのです。


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