求めて得たものには、一文の値打ちもない。
~蘇則『貞観政要』巻第二納諫第五(三国志/魏書)
『貞観政要』魏徴の諫言に引用される、古の賢人のことばです。
原文(読下し文)では、「求めて之を得るは、貴ぶに足らざるなり」とあります。
まずは、本文をご紹介しましょう。
〔現代語訳〕
貞観年中、太宗は西域に使者を遣わせて葉護可汗(ようごかかん) ※1を擁立しようとした。しかし、使者がいまだ帰国せぬ内に、別の者を追って派遣。金と絹を山と積んで、諸国を回らせ、良馬を求めさせた。魏徴が諫めていう。
「現在、発している使いは可汗を立てることを名目としています。可汗がいまだ立たない内に、諸国を巡って馬を買わせようとしている。かの国の人は、今回の使いは馬を買うことが目的であり、必ずしも可汗を立てることに真意はない、と請け取ることでしょう。そして、可汗が立ったとしても、それほどに陛下に恩を感じることはございません。さらに立つことができなかった場合、深い恨みを抱かせてしまう。諸外国がこれを聞けば、中国を重んじぬようになりましょう。ただ、かの地域を安泰にすることさえできれば、諸国の馬など求めずして自らやって参るはず」
「昔、漢の文帝に千里の馬を献上する者がありました。帝はいう。
『われ、平時には日に三十里、戦時には日に五十里を行く。馬前には旗を立てた輿、後ろには添え車が続く。われひとり千里の馬に乗って、いったいいずこに行けというのであろうかな』
すなわち、その者に旅程の費用を与え、馬は返したといいます。また、光武帝※2に千里の馬と宝剣を献じる者があったといいます。帝は、馬には鼓車(こしゃ) ※3を曳かせ、剣は騎士に与えてしまいました」
「今、陛下の施政は、みなはるかに三王※4のそれを超えております。それがなぜここにいたって、漢の文帝・光武帝の下風につこうとなさるのでしょうか。さらにいえば、魏の文帝※5が西域の大珠を求めようとしたことがございました。蘇則(そそく) ※6はいいました。
『陛下の恵みが四海におよぶならば、珠は求めずしてやってまいりましょう。求めて得たものには、一文の値打ちもございません』
陛下にはたとえ、漢の文帝の遺徳をしのぶことがかなわぬとしても、蘇則の正言を恐れずにおられましょうか」
太宗は、ただちに馬を求める使者を中止させた。
(『貞観政要(上)』巻第二 納諌第五 第八章 水野聡訳 能文社2012)
http://nobunsha.jp/book/post_131.html
※1 葉護可汗 突厥の可汗。姓は阿史那氏、名は処羅侯(しょらこう)という。葉護は突厥の大臣をあらわす。もと葉護であったため葉護可汗と呼ばれた。可汗位継承に際し、先の可汗の遺言によりその弟である自身が次の可汗に指定されていたにもかかわらず、実子と位を譲り合った美談を残す。隋に朝貢し、旗鼓を賜い、西の阿波可汗(あぱかがん)を討った。
※2 光武帝 後漢初代皇帝。劉秀、字は文叔。王奔を破り、洛陽に都した。
※3 鼓車 大鼓を積む車。
※4 三王 古代の三聖王、すなわち夏の禹王、殷の湯王、周の文王・武王をさす。
※5 魏の文帝 三国時代、魏の皇帝、曹丕(そうひ)。曹操の長子。
※6 蘇則 魏の武功県の人。侍中として文帝に仕えた。
参照URL〔蘇則伝〕 三国志<魏書任蘇杜鄭倉傳第十六>
http://www.k3.dion.ne.jp/~tokiyo/retsuden/gi/so-soku.html
続きはこちら(言の葉庵HP)↓
http://nobunsha.jp/meigen/post_165.html
~蘇則『貞観政要』巻第二納諫第五(三国志/魏書)
『貞観政要』魏徴の諫言に引用される、古の賢人のことばです。
原文(読下し文)では、「求めて之を得るは、貴ぶに足らざるなり」とあります。
まずは、本文をご紹介しましょう。
〔現代語訳〕
貞観年中、太宗は西域に使者を遣わせて葉護可汗(ようごかかん) ※1を擁立しようとした。しかし、使者がいまだ帰国せぬ内に、別の者を追って派遣。金と絹を山と積んで、諸国を回らせ、良馬を求めさせた。魏徴が諫めていう。
「現在、発している使いは可汗を立てることを名目としています。可汗がいまだ立たない内に、諸国を巡って馬を買わせようとしている。かの国の人は、今回の使いは馬を買うことが目的であり、必ずしも可汗を立てることに真意はない、と請け取ることでしょう。そして、可汗が立ったとしても、それほどに陛下に恩を感じることはございません。さらに立つことができなかった場合、深い恨みを抱かせてしまう。諸外国がこれを聞けば、中国を重んじぬようになりましょう。ただ、かの地域を安泰にすることさえできれば、諸国の馬など求めずして自らやって参るはず」
「昔、漢の文帝に千里の馬を献上する者がありました。帝はいう。
『われ、平時には日に三十里、戦時には日に五十里を行く。馬前には旗を立てた輿、後ろには添え車が続く。われひとり千里の馬に乗って、いったいいずこに行けというのであろうかな』
すなわち、その者に旅程の費用を与え、馬は返したといいます。また、光武帝※2に千里の馬と宝剣を献じる者があったといいます。帝は、馬には鼓車(こしゃ) ※3を曳かせ、剣は騎士に与えてしまいました」
「今、陛下の施政は、みなはるかに三王※4のそれを超えております。それがなぜここにいたって、漢の文帝・光武帝の下風につこうとなさるのでしょうか。さらにいえば、魏の文帝※5が西域の大珠を求めようとしたことがございました。蘇則(そそく) ※6はいいました。
『陛下の恵みが四海におよぶならば、珠は求めずしてやってまいりましょう。求めて得たものには、一文の値打ちもございません』
陛下にはたとえ、漢の文帝の遺徳をしのぶことがかなわぬとしても、蘇則の正言を恐れずにおられましょうか」
太宗は、ただちに馬を求める使者を中止させた。
(『貞観政要(上)』巻第二 納諌第五 第八章 水野聡訳 能文社2012)
http://nobunsha.jp/book/post_131.html
※1 葉護可汗 突厥の可汗。姓は阿史那氏、名は処羅侯(しょらこう)という。葉護は突厥の大臣をあらわす。もと葉護であったため葉護可汗と呼ばれた。可汗位継承に際し、先の可汗の遺言によりその弟である自身が次の可汗に指定されていたにもかかわらず、実子と位を譲り合った美談を残す。隋に朝貢し、旗鼓を賜い、西の阿波可汗(あぱかがん)を討った。
※2 光武帝 後漢初代皇帝。劉秀、字は文叔。王奔を破り、洛陽に都した。
※3 鼓車 大鼓を積む車。
※4 三王 古代の三聖王、すなわち夏の禹王、殷の湯王、周の文王・武王をさす。
※5 魏の文帝 三国時代、魏の皇帝、曹丕(そうひ)。曹操の長子。
※6 蘇則 魏の武功県の人。侍中として文帝に仕えた。
参照URL〔蘇則伝〕 三国志<魏書任蘇杜鄭倉傳第十六>
http://www.k3.dion.ne.jp/~tokiyo/retsuden/gi/so-soku.html
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